対岸の彼女 (文春文庫)

著者 :
  • 文藝春秋 (2007年10月10日発売)
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『友達、まだできないの?と訊かれるのがこわかった』

思えば私たちは生きていて、『友達』『仲間』『同僚』、と何らか人との繋がりを持った集団に属すことを当たり前に感じ、そうでない状態から脱することに追い立てられているような気がします。小学校に入学した時、進級してクラスが変わった時、そして中学校に入学した時、親からまず聞かれるのは『お友だち、できた?』でした。人が人である以上、何かしらの繋がりを求めてしまうのは、人としての本能なのかもしれません。でも、あなたはそんなかつての『友達』と、今どの程度繋がりが続いているでしょうか。

今年、高校卒業後もずっと続いていた年賀状だけのやり取りだった友達から、年賀状が突然届かなくなりました。思えば、電話番号もわかっているし、メールアドレスも書いてあったのに、実際には年賀状のやり取り以上のことはしなかった『かつての友達』というだけの繋がりだった人たち。繋がりを求め、せっかく繋がったはずなのに、生きていく場所が変わると、それをきっかけに、切れてしまう繋がり。そして、その一方で、今、この瞬間にも生まれていく新たな繋がり。『誰かと親しくなるということはどういうことなのか?』という人と人との繋がり。この作品は三人の女性の繋がりを描く物語です。

『私って、いったいいつまで私のまんまなんだろう』、子どもの頃からそんな風に考えることの多かった田村小夜子。そんな小夜子は『砂場で遊ぶ娘のあかりに視線を』移すと、『あかりは今日もひとり、砂場の隅で砂を掘りかえしている』のが見えます。『あかりを産んだのは三年前の二月』だったという小夜子は『乳幼児を持つ母親向けの雑誌を熟読し、その雑誌の指示通りの時間帯に、指示通りの格好をして、住んでいるマンションから一番近い公園に』デビューしますが、『微妙に派閥があること』に馴染めず公園探しを繰り返す『公園ジプシー』となっていきます。『大学を出て小夜子が就職したのは映画の配給会社』、『女子社員と契約社員たち』の間の『微妙な対立』に、『ほとほと嫌になってきたころ、交際していた修二からタイミングよく結婚話が出た』、そして『それを承諾したのと、退職届を出したのはほぼ同時だった』という小夜子。『あかりを見ていると、あまりにも自分に似ていて驚く』というその性格。『だれかと遊びたいと思っても、無邪気に仲間に入っていくことができず、片隅でいじいじと声をかけられるのを待っている』という日々、そして『公園ジプシー』に疲れた小夜子は『働きに行こうと思う』と修二に伝え、就職に向けて面接を受けますが不採用の通知ばかり。そんな中、『偶然にも小夜子と同い年で、しかも同じ大学の出身だった』という社長の面接に手応えを感じる小夜子。そして『同い年の女社長から電話がきたのは、夜の八時を過ぎたころだった』という緊張の電話で採用を告げられた小夜子。翌日説明を受けに行くと『大久保にある事務所に着くなり、お昼食べにいこう、と葵は小夜子を外に連れ出した』という『女社長』は『楢橋葵と書かれた名刺』を渡します。そんな社長は『仕事内容ちゃんとわかってる?やってほしいのはお掃除の仕事なの。単純作業サービス業なの。それでもやってもらえる?』と問います。『もちろんです。なんでもい、働きたいんです』と即答した小夜子。『働きたい、ではなくて、働かなきゃならないんだと、心のなかでは言っていた。あかりのために、母親である自分のために』という小夜子と葵との運命的な繋がりが二人の人生を大きく動かしていきます。

現在の小夜子と葵、そして高校時代の葵とナナコという二つの時代の三人の女性の物語が交互に描かれながら展開していくこの作品。高校時代の葵のイメージが現在の社長・葵と同一人物に感じられない違和感が拭えない展開が続きます。『教科書がなくなり、上履きがなくなり、体操服がなくなり、クラス全員に公然と無視され、しまいには葵の机と椅子だけ、いつも教室の外に出されるようになった』というイジメに苦しむ中学時代の葵。でも葵は『自分がいけないのだ』と考えます。『そう思うしか、理解しようがなかった。自分の何かが人を苛立たせるのだろう。自分の何かが無視されるに値するのだろう』とどこまでも内向きに、あくまでも内向きに考えてゆく葵。母の故郷に移り住んで入学した女子高。そんな葵の前に現れたナナコは、葵が今まで出会ったことのないタイプの女性でした。『きっと、ナナコという子は、きれいなものばかりを見てきたんだろう』。葵はナナコのことをそんな風に考え『汚いこと、醜いこと、ひどいこと、傷つけられるようなことを、だれかが慎重に排した道をきっと歩いてきたんだろう』と考えます。そんな葵はナナコの『あたしなんにもこわくないの。そんなとこにあたしの大切なものはないの』というナナコの潔さに強い憧憬を覚えたのは必然だったのかもしれません。そして、お互いに影響を与え合った二人。でも、それはあることによって突然に終わりを迎えます。でも、その後の人生でも連絡を取ることはできたはずの二人。

そして、『なんのために私たちは歳を重ねるんだろう』と考え今を生きる葵と小夜子。二人が歩んできたまったく異なる人生が偶然にも交錯する運命の出会い。かつてイジメに悩み、高校でのナナコとの出会い、そして別離を経て今を生きる葵という女性が形作られました。一方で、人間関係に思い悩み、今また、自分と同じように不器用な生き方を見せている娘・あかりにかつての自分を投影する小夜子。そんな二人は偶然にも出会い、今という時間を共にする中で、『なぜ私たちは年齢を重ねるのか』というこの命題に向き合います。そして、今、気づきます。『生活に逃げこんでドアを閉めるためじゃない、また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ』。人は生まれて物心ついた時から集団の中で繋がりをもとめ、同時に自分の立ち位置を確かなものにしていく、それを繰り返すのが人生とも言えます。そして、そのそれぞれのステージでの出会いを糧にして、次のステージへと進んでいきます。繋がっては離れ、繋がっては離れの繰り返し。ふと過去を振り返った時、私たちはそんな日常をずっと繰り返してきたことに気づきます。でも、それはそんな時代を生きてきた今だからこそ気づけること。現在進行形だった頃の自分。『バイバイという言葉が、かわらない明日と同義だったころ』、今の繋がりが永遠だと信じて疑わなかったあの頃。『明日また、同じ制服を着た彼女に会える。同じ目線で、同じ言葉で、同じ世界のなかで話すことができる。そう信じていたころ』があった。確かにそんな時代があった。そんな時代を生きてきた。だからこそ、そんな時代を振り返る今、私たちは過去に繋がっていた人とのコンタクトに高いハードルを感じてしまうのかもしれません。連絡を取ろうと思えば幾らでも取れるのに、再び繋がることだってできるかもしれないのに、そこに壁を感じてしまう私たち。過ぎたあの時代を大切に思えば思うほどに、その時繋がっていた相手が、いや、もしかすると自分自身が、変わってしまっていたら、あの頃と違ってしまっていたら…。想像の中の見えない何かに怯えるのは、今を生きる自分。そんな自分自身が、過去の扉を開けるのを躊躇うのは必然なのかもしれません。

ナナコとの出会いにより前に進む葵。そしてそんな葵との出会いを経て前に進んでいく小夜子。

人はなぜ、前に進むのか。それでも前に進むのか。

普段このようなことを深く考えることはないと思います。でも、生きていると人には迷いが生じます。前に進めなくなる、進みたくなくなる時だってあります。でも私たちは一人じゃない。人として生きている限り、出会いはいろんなところに待っている。出会いと別れを繰り返して前に進んでいく私たち。

「対岸の彼女」という書名の絶妙さに驚くその結末。生きていくことの希望が見えるその結末。そして静かにそっと背中を押してくれるような優しいその結末に、あたたかい感情がふっと余韻として残るそんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 角田光代さん
感想投稿日 : 2020年7月4日
読了日 : 2020年7月2日
本棚登録日 : 2020年7月4日

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