舟を編む (光文社文庫 み 24-2)

著者 :
  • 光文社 (2015年3月12日発売)
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何もない暗闇、混沌が支配する暗闇。今から138億年前、その混沌の中から様々な物質に溢れた星の海である宇宙が生まれた。今から46億年前、真っ暗な宇宙空間の中に地球が形作られ、様々な生物の源に溢れた水が集まって海が生まれた。そして、海から這い上がった生き物から分岐し、今から20万年前、現世人類の誕生とともに様々なコミュニケーションを育む言葉の海が生まれた。将来星の海を旅するのに星間図が必要となるように、海を旅するには海図が必要なように、言葉の海を旅するには辞書が欠かせない。果てしない大海原で行き先を迷わないように、自分の気持ちを正しく相手に伝えるために、私たちが言葉の海に生きていく上で欠かせないもの『辞書』。この物語は人が作った言葉の海を旅するために必要な『舟』となる『辞書』を作り上げていく人たちの物語。

『俺はどうしたって、辞書を作りたい。俺の持てる情熱と時間のすべてを注ぎ込んでも悔いのないもの。それが辞書だ』辞書作りに自分の人生を捧げてきた荒木。でもそこに定年という壁が迫ります。『辞書は、言葉の海を渡る舟だ』という荒木、その荒木を『君のような編集者とは、きっともう二度と出会えないでしょう』と熱い信頼を寄せ監修を務める松本。荒木はそんな松本の思いを託せる後任者として馬締を探し出します。名前の通りの大マジメな彼を中心に、『大渡海』という見出しの数が二十三万語、二千九百数十ページにもおよぶ辞書の編纂が本格化していきます。

『変わったやつ』といつも思われ、人とのコミュニケーションが上手くできない馬締。『いくら知識としての言葉を集めてみても、うまく伝えられない…。伝えたい。つながりたい。』と悩む馬締は、『満月の夜に生まれた』という下宿の大家の孫娘であり、板前修行を続ける香久矢と出会うことになります。『互いに邪魔されたくないものがあるからこそ、俺たちはうまくいくのではないかと、そういう結論に達した』という二人。二人の静かな、それでいてそれぞれの仕事にかける、真摯にひたむきで、静かな中に燃え上がるような熱い情熱が読んでいてとても伝わってきました。

『有限の時間しか持たない人間が、広く深い言葉の海に力を合わせて漕ぎだしていく。真理に迫るために、いつまでだってこの舟に乗りつづけていたい』強い思いで辞書の編纂を続けていく馬締。今日もどこかで、人と人とのコミュニケーションの中で、新しい言葉が海に流れ落ちる一方で、今日もどこかで人知れず、人と人とのコミュニケーションの中から消え去り、蒸発して天に戻っていく言葉がある。それらを選別し、今を生きる人たちに使える舟を編んでいく仕事。そして、その舟を編むのに必要な、それを支える多くの仕事があり、多くのプロの見えない仕事がそこにはある。

そして、13年という途方もない時間をかけて生み出されていく辞書『大渡海』。監修者の松本は辞書作りを『海を渡るにふさわしい舟を編む』ことであると考えました。『自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟』それが辞書であると。我々が電子辞書やネット上で言葉を検索していると、ついついその言葉だけに意識を傾けてしまいがちですが、その背景には圧倒的な言葉が、言葉の意味が詰まった辞書の存在があります。この辞書がある安心感に身を任せて我々は言葉の海を自由に渡っていくことができます。人が作った言葉という大海原を渡っていく。でも言葉の海は時代によってもその形を、その姿を変えていきます。決して同じ瞬間などありません。せっかく出来上がった舟も言葉の海の変化に合わせて絶えず改良が必要となります。言葉の海がある限り、言葉の海を渡っていこうとする者がいる限り、舟を守っていく人たちの仕事に終わりはないのだと思います。

一方で、幾ら素晴らしい舟が用意されたとしてもその舟を走らせる漕ぎ手がいなければ舟は動きません。海を理解して、舟の操り方を学んでいく。もしくは、舟を理解して、海を進む方法を、海というもの自体を学んで生きていくこと、これは言葉の海を作り出した人間にしかできないことですし、やるべきことでもあります。

星の海、水の海と違い、言葉の海は人間が自分たちで作ったものです。それによりコミュニケーションが生まれ、ヒトは人になりました。歴史として受け継いできた言葉の海。時代に合わせて変化し続ける海の中で、それを大切にし、守って育んでいく。舟の力を借りて次の世代に受け継いでいく。言葉の海に生きる者、そしてその助けとなる舟の存在。それは、今後も未来永劫、人の歴史が続いていく限り変わらないものなんだ、そう思いました。

私事ながら、この作品がブクログでの感想100冊目となりました。本の中には今まで私が知らなかった言葉が溢れていました。本を読むようになって辞書を開く回数が大きく増えました。言葉の海の中で自分の航跡を振り返り、まだ見ぬ言葉の海に想いを馳せる。100冊目というその節目に、こんなにも言葉を大切にした、こんなにも言葉に触れていくことを愛おしく感じることのできる作品に出会えてとても良かったと思います。

無限の言葉の海に触れる喜び、読書。節目の機会に、またひとつ新たな知見を得ました。舟を編んでくれている人たちの情熱に負けないように、そしてその舟に安心して身を任せながらこれからも言葉の海を進んでいきたい、そう思います。とても大切なことに気づかせてくれた素晴らしい作品でした。どうもありがとうございました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 三浦しをんさん
感想投稿日 : 2020年3月18日
読了日 : 2020年3月17日
本棚登録日 : 2020年3月18日

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コメント 4件

shukawabestさんのコメント
2022/11/13

shukawabestです。
壮大なレビューですね。言葉の成り立ちを考えると、さてさてさんが書かれているようなところに行き着くのだと思います。

100冊目だったのですね。この作品。近々、レビューされることになる600作品目、楽しみにしています。

さてさてさんのコメント
2022/11/13

shukawabestさん、ありがとうございます。
なんだかすごいこと書いてますよね。確かに壮大です。今読むとちょっと恥ずかしいですが(笑)
この当時、2020年2月から6月って私の読書&レビューの修行期間だったんです。会社から帰って毎日本を読んで、レビューを書いて、寝て、起きて、会社行って、会社から帰って…ということを繰り返しました。五か月ほどの間に150冊を読んだ!という強烈な時代でした。今考えるとよくやったなあと。まさに拷問でしたね。夜明けだ!まずい!寝られなかったよーなんて日もありました。
そして時は経ち、お書きいただいた通り水曜日に600冊目のレビューを上げる予定です。
「舟を編む」、読み返したいですね。睡眠不足の読書じゃなくて(笑)
どうぞよろしくお願いいたします。

shukawabestさんのコメント
2022/11/13

すごいですね。5ヶ月で150冊。働きながらのその冊数は、なかなか身体にひびくものがあると思います。

言葉(声)が使われるようになったときと、文字が使われるようになったときは、人類にとっての進化だったのでしょうね。今の言葉の変遷は進んでいるのかどうかわかりませんが。

599冊目と600冊目、楽しみにしています。ありがとうございました。

さてさてさんのコメント
2022/11/13

shukawabestさん、はい、身体と目にきたような気がします。何事もやりすぎはよくないですね…。
言葉、文字、思えば本を読み始めたのがここ三年という私は文字にまだまだ触れたりないのかもしれません。急ぐのではなくじっくり触れていきたいと思います。
こちらこそ、よろしくお願いいたします!

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