勉強の哲学 来たるべきバカのために

著者 :
  • 文藝春秋 (2017年4月11日発売)
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今日の二冊目の書評は「勉強の哲学」千葉雅也著。バリバリの哲学者で東大大学院卒(博士課程)、現在は立命館大学で教鞭を取られております。

この書籍では「勉強とは何か、またどのように(勉強を)するのか」を人文科学的なアプローチで著わしたものです。しかし内容は複雑で難解。

では、私が分かった範囲でコピペブログ・スタート。

著者曰く、昨今の勉強環境は格段と進歩した。すなわち、インターネットやPC、スマホの発達で「勉強のユートピア」である、と。

しかしながら、情報が多すぎることで、考える余裕を奪われているともいえる。

そこで、著者曰く勉強のキーワードとなるのが「有限化」だ。ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。すなわち「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成り立たせる。勉強を有限化する。

ここで、著者はこういう。本書は「勉強しなきゃダメだ」、「勉強ができる=エラい」とか「グローバルな時代には英語を勉強しなきゃ生き残れないぞ」という脅しの本ではない。

むしろ、真に勉強を深めるためには、勉強のマイナス面を知る必要がある。勉強を「深めて」いくと、ロクなことにならない面がある。ある一定程度勉強して、それ以上「深く勉強しない」にはそれでいいと思う、とのことだ。なぜなら、生きていて楽しいのが一番なのだから。

深く勉強しないというのは、周りに合わせて動く生き方だ。状況にうまく「乗れる」、つまりノリのいい生き方である。

逆に「深く」勉強することは、流れのなかで立ち止まることであり、「ノリが悪くなる」ことだ。

本書で紹介するのは、いままでに比べてノリが悪くなってしまう段階を通って「新しいノリ」の変身するという、時間がかかる「深い」勉強の方法である。

著者はこう喧伝する。「勉強とは自己破壊である」
では何のために勉強をするのか?何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

それは、「自由になる」ためだ。どういう自由か?これまでの「ノリ」から自由になることである。

日本は「同調圧力」が強く「ノリが悪いこと」の排除の社会である。しかし、勉強は、深くやるならば、これまでのノリから外れる方向へ行くことになる。ただの勉強ではない。深い勉強である。

例えを挙げると、自己流で歌っていたときの粗削りだからこその圧力が、一念発起してまじめにボーカルレッスンを受け始めたら、だんだんその魅力が失われていった。

このように、勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしいという。

つまり、前述したように、勉強とはかつてのノッていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。換言すると、勉強とはわざと「ノリが悪い」人になることである。

ところで、会社や家族や地元といった「環境」が私たちの可能性を制約している、と考えてみる。生きることは、環境から離れては不可能であり、私たちはつねに何らかの環境に属している。圧縮的に言えば、私たちは「環境依存的」な存在であると言える。

本書では、「環境」という概念を「ある範囲において、他社との関係に入った状態」という意味で使うことにする。シンプルには、環境=他者関係である。

「他者」とは「自分自身でないものすべて」だ。親も恋人も、リンゴやクジラ、高速道路、シャーロックホームズ、神もすべて「他者」と捉えることにする。これはフランス現代思想において見られ使い方である。

また、環境の求めに従って、次に「すべき」ことが他のことを押しのけて浮上する。もし「完全に自由にしてよい」となったら、次の行動を決められない、何もできないだろう。すなわち、環境依存的に不自由だから、行為ができる。

ここで「不自由」はこれ以後、哲学的に「有限性」と言う。逆に「なんでも自由」というのは、可能性が「無限」だということ。無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。

私たちの課題は、有限性とのつきあいい方を変えることだ。有限性を否定するのではない。有限性を引き受けながら、同時に、可能性の余地をもっと広げるという、一見矛盾するようなことを考えたいのである。つまり、有限性とつきあいながら、自由になる。

ところで、会社や学校といった環境のなかでは、他者への対応がスムーズに無意識的にできるようになっている。環境には「こうするもんだ」がなんとなくあって、それをいつのまにか身につけてしまっている。

すなわち、「こうするもんだ」は、環境において、何か「目的」に向けられている。周りに合わせて生きているというのが、通常のデフォルトの生き方だ。

私たちは環境依存的であり、環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が人々を結びつけている=「共同化」している。

環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向づけ」である。それを環境の「コード」と呼ぶ。

会社や学校等の環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、「ノリ」と表す。ノリとは、環境のコードにノッてしまっていることである。

いかなるコードも、普遍的なものではない。特定の環境の「お約束」にすぎない。そういう意識を通常は十分もってない。すっかり「その会社の人」とか「その地元の人」になっている。つまり自分は、環境のノリに、無意識なレベルで乗っ取られている。

ならばどうやって自由になればいいのか、環境に属していながら同時に、そこに「距離をとる」ことができるような方法を考える必要があるが、それを可能にするのは「言語」である。

言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えられる。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのだ。言語習得と同時に特定の環境でのノリを強いられることになっている。

国語辞典に載っているのは、言葉の「本当の意味」ではない。載っているのは代表的な用法だ。辞典とは、人々が言葉をどう使ってきたかの「歴史書」である。

言語習得とは、ある環境において、ものの考え方について「洗脳」を受けるようなことだ。すなわち、私たちは言語を通じて、他者に乗っ取られている。

ところで、人間にとって「世界」は二重になっている。まずリアルに存在するのは、モノ=物質の世界である。物質的な現実だ。(以下、現実)それと、もう一つの次元として、言語の世界が重なっている。

そのもう一つの次元として、言語には現実に縛られない独自の自由がある。たとえば、テーブルの上にリンゴがあっても、たんに言葉として「リンゴが箱のなかにある」と非現実的なことも言うことができる。「ここにはクジラがいる」と言うことさえできる。何でも「言えるには言える」わけだ。

言語はそれだけで架空の世界をつくれる。だから小説や詩を書くことができる。先ほどの
「リンゴ」は現実の普通の言葉だが、例えば「リゴンゴン」のように、何をさすのでもないたんなる言葉をつくることができる。さらには論理的にありえないことまで「言えて」しまう。「リンゴはクジラだ」とか「丸い四角形」とか。

筆者はいう。こうした言語の自由さに、あらためて驚いてほしい、と。つまり言語それ自体は、現実から分離している。言語それ自体は、現実的に何をするかに関係ない、「他の」世界に属している。このことを「言語の他者性」と呼ぶ。

そして、言語の他者性によって、言葉のある環境での偏った意味付けは必然的ではなく、いつでもバラすことができる。別の意味づけの可能性がつねに開かれている、ということにもなる。

つまり、言語の他者性は、環境による洗脳と、環境からの脱洗脳の、両方の原理になっているのである、と著者は主張する。

また、これにより、人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ」を生きている、と言える。言語によって構築された現実は、異なる環境ごとに別々に存在する。言語を通していない「真の現実」など、誰も生きていない。つまり、環境においてノッているというのは、言語的なVR(ヴァーチャル・リアリティ)を生きているということである。

また、ある環境、すなわち言語的なVRが、人を支配すれば、解放もする。いわば言葉は人間のリモコンである。

ある環境において、言葉は私たちに命令する。言葉によって私たちは、特定のノリに従った動きをさせられる。

しかし、言葉にはまったく逆の機能もある。すなわち言語の他者性だ。言語は自由。それは言葉遊びの自由であり、それは言葉の組み合わせによって、目の前の現実とは別のたくさんの可能性を考えられるということだ。このことは社会的な意義がある。

社会を成り立たせるには、立ち止まって考えることが必要である。それは言語をフル活用し、可能性を想像するというこだ。つまり「もしこうならばああなるな、いや別の可能性もあるな」というふうに、シュミレーションすることである。

したがって、言語は、私たちに環境のノリを強いるものであると同時に、逆にノリに対して「距離をとる」ためのものである。

さて、私たちはある環境に「いながらにして距離をとる」方法を求めてた。この勉強論では、環境による縛りから逃れたいわけだが、完全な自由はないのだから、縛られながら逃れるようなころを考えなければならない。その答えが、以上の考察で得られたのである。

私たちを縛りながら逃れさせるもの、私たちに命令しながら私たちを命令から解放するもの...それは、人間世界=ヴァーチャル・リアリティを構築する言語に他ならない。したがって、言語の開放的な力-言語の他者性-について考えることが、自由になるための勉強論に等しいのである。


とここまで、本書を紹介してきましたが、”勉強”と言うものを論理的に解析した、佳作です。ぜひ、「勉強の論理性」を探求したい方は一読をお薦めします。

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学
感想投稿日 : 2017年10月27日
本棚登録日 : 2017年10月27日

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