勉強の哲学 来たるべきバカのために

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著者 : 千葉雅也
  • 文藝春秋 (2017年4月11日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163905365

勉強の哲学 来たるべきバカのためにの感想・レビュー・書評

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  • 処女作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』も、一定の評価を受けて一定の層に受容されている。その題名からも分かるように著者の専門はフランス現代思想。大学二年生のときに東浩紀の『存在論的、郵便的』に出会い、哲学を志したという。その著者が、『勉強の哲学』というタイトルで書いた本が、東大と京大の生協書店で売上No.1だという。今の学生もフランス現代思想を前提とした「勉強の哲学」なるものを興味を持って読むのかと思うと大変な驚きである。前著『動きすぎてはいけない』も読んでいないのだけれど、参加する読書会で取り上げるということなので読んでみた。

    「勉強」という一連の作業の中で、情報を探すということに関しては、著者がいうように現代はかつてないほど恵まれた環境となっている。90年代末に学生であった著者からしても「勉強のユートピア」と呼んでもいい時代になったという。それは逆に、今までにない程、情報と勉強に関するリテラシーを身に付けることが必要な時代でもある。だからこそ、少し意識の高い学生にこの本は受けるのかもしれない。

    著者は勉強をすることは、「ノリが悪くなることである」と告げる。勉強することによって、それまでの「ノリ」から自由になり、別の「ノリ」に移るということになる。それは著者自身の経験でもあったのだろうか。「勉強とは喪失すること」という。つまり、「勉強とは自己破壊である」ということである。そのことを著者はキモくなるとも表現する。東大・京大で売れているのは「キモく」なることへの自己正当化にもなっているのだろうか。

    そもそも人間は「他者によって構築されたもの」である。もう少しいうと「自分に言語がインストールされている」という事実が、他者によって構築されたものでことを示している。なぜなら「言語は他者」であるからである。そして、人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ」を生きているといえるのである。フランス現代思想においては、「言語」への拘りと同時にそこからの自由を求めることが哲学というものなのかもしれない。フランス現代思想とは、言語の他者性について考えることとだとすると、この本はそこから自由になるための勉強論であるのかもしれない。

    そして、ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアを、既存のコードから自由になるための思考スキルだという著者のフレームワークは知的な刺激ではある。著者はアイロニーを過剰化せずにユーモアへと折り返すことを推奨する。柄谷行人に『ヒューモアとしての唯物論』という著作がある。柄谷は、ここではアイロニーに対して、ユーモアを上に置いている。いずれにせよ、アイロニーとユーモアを対置するフレームは決して新しいものではない。

    著者は具体的な「勉強」のツールとして、フリーライティングを薦める。自分もEvernoteを利用して読書ノートを付けて、少し形をまとめてブクログに上げるようにしている。勉強を継続するためにノートアプリを利用して書くことを薦めるが、まったくその通りだと思う。

    そして、比較を続けること、絶対的な結論を出さないこと、最終的な決断をしないことこそが大切なのだという。その思考スキームは現実の世界においては、実際のところちっとも役に立たない。その意味で「勉強」とはすでに役に立つものでもなくなっているのだ。それでもなお「信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である」という言葉には強く共感するのである。

    この本を読んで、ポスト構造主義(ドゥルーズ・ガタリやデリダ、ラカン、バルト)が残したものは何であろうかと考えた。「深く勉強することは、言語偏重の人になることである」と著者はいう。それは、彼らを結果として裏切りはしなかったか。
    壮麗な装丁の『アンチ・オイディプス』を買ったとき、『差異と反復』も『千のプラトー』もまだ邦訳が出ていなかった。その『アンチ・オイディプス』も結局読むことなく書棚に鎮座している。『差異と反復』も『千のプラトー』は邦訳が出たけれども結局まだ買っていない。ラカンはそれ以上に受け付けられなかった。それでも、デリダは頑張って読んだと思う。その頃の自分は、彼らの言語に対してバーチャルであってもリアリティを得ることができなかった。言語偏重が過ぎて言語遊びになっているように感じた。どうしても深くその中に入り込むことができなかったのだ。違う「ノリ」に行けなかったのだ。


    本作の中にある著者の「欲望年表」から、著者は34歳まで東京大学の博士課程にいたことを示している。東京大学に入学したことを考えると例えば周りの親族はどう思っていたのかと勝手ながら想像するし、相応のプレッシャーや葛藤もあったであろうと思う。その中でもドゥルーズの研究を続けるということが強き意志の存在を示しているし、ドゥルーズやフランス現代思想の魅力についても示しているように思われる。そして、本書は著者自身の自己正当化のための本であるようにも感じたのである。それは、そうであっても全くかまわないのだけれど。


    最近、老いによるものであろうか言語能力の劣化(言葉が思い出せないなど)によって改めて言語の存在を意識する。言語なくして思考がないということもより実感するようになった。言語能力が年を重ねるごとに向上している間は意識に上らないようなものが、言語能力がピークを過ぎるにあたって、かつて得られたものとの差によって、これまでにないものが意識に上ってくる。それは他者としての言語そのものであるのかもしれない。それは悲しいことでもあるが、新しい体験として期待もするのである。そう思うべきであるのかもしれない。


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    参考: 「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」
    http://yokato41.blogspot.jp/2014/06/blog-post_29.html?m=1

  • 勉強=いままでのノリから抜け出すこと

    相対的に比較していくことで世界を認知するならば、比較対象を増やしていくことはより比較の精度を上げることになる。

    懐疑(アイロニー)と連想(ユーモア)を繰り返して思考を深めていくが、それは際限がないので享楽(自分のこだわり)によってある程度見切りをつける。

    自分の享楽について理解するためには欲望年表を作成すると良い。

    「ある程度勉強した状態」はあっても「勉強完了」の状態はないので享楽を繰り返しながら深めていけば良い。

    この知の有限化のプロが教師。教えられる者は何を教わっているかと同時に教師は何を切り捨てているのかも意識できた方が良い。

    学問も、それぞれの世界にノることと同義。入門書→教科書→基本書→専門書と深めていく中でその学問のノリに入っていく。そうした書物はプロ・モードで書かれているためにそうして慣れていかないと理解ができないから。

    本は修正が効かない分注意深く書かれていることが多い。でも間違っていることも往往にしてある。プロ・アマ両輪で読むことによって必要な分だけ自分のものにしていく。

    ノートは勉強のタイムラインになる。
    考えた結果を書くというより書きながら考える。箇条書き(アウトライン化)も有効。

  •  勉強するとはどういうことか。哲学的に考える。

     勉強というよりは前半はコミュニケーションの話題が中心か。それまでのコミュニケーションの形を崩すシステムについて。さらにそこからそういう思考の為に必要な勉強(?)の仕方について。
     それらが分かりやすい言葉でありながら、哲学的な思考によって展開していく。この本自体が哲学的思考の勧めでもあるように思えた。

     哲学書と一般書の間をつなぐような一冊。今年はこういう本が何冊か見られた。

  •  この春、多くの書店の「人文書」売場には、東浩紀『観光客の哲学』、國分功一郎『中動態の世界』、そして千葉雅也『勉強の哲学』が並んで置かれ、さながら春の哲学書まつりだった。東はデリディアン、國分・千葉がドゥルージアンという違いはあるものの、フランス現代思想に通じた哲学/批評の書き手による新刊が、ほぼ同時期に刊行され、注目を集めた。いずれも哲学の本としてはよく売れている。
     ここ数年、日本を含む課題先進国において、これまでの経験や常識だけでは対応困難な、難しい問題を多く抱え、いよいよ哲学の出番だと言われている。その場しのぎで何とかなる事態ではなく、ここはじっくり原理的に考えなければ、次の手が打てない状況に追い込まれている。そのような認識が一般に広がっている。
     千葉雅也は本書で、勉強とは同調圧力から解放され自由になるための自己破壊だと説き、勉強の原理を明らかにする。逆に言えば、勉強しないと今かかえている不自由や不幸、難しい問題は解消されないことを前提として、今ある環境(統治/権力)への抵抗を「勉強」と名付けて唱道している。
     原理を明らかにしたうえで、その実践方法を案内する件は、学生やビジネスマンに向けた「勉強法」の本として読める。読むべき本の選び方やノートの使い方など、役に立つ情報がたくさん書かれている。ただ、本書の原理編を読んだあとでは、勉強の意味が変わっている。あくまでも本書において「勉強のすゝめ」は、変容と自由への行動を促すアジテーションなのだ。世が世なら、「共謀」の罪に問われるかもしれない。
     現状追認的/環境依存的な思考では目の前の問題を解決できないと気付いた人に、いま哲学が求められているとして、ラディカル・ラーニング(深い勉強)の意義を再定義する本書こそ最初に読むべき本なのだろう。学問的な背景を補論として最後にまとめ、本文中には哲学の専門用語をほぼ使わない構成も、初学者にやさしい。

  • 今日の二冊目の書評は「勉強の哲学」千葉雅也著。バリバリの哲学者で東大大学院卒(博士課程)、現在は立命館大学で教鞭を取られております。

    この書籍では「勉強とは何か、またどのように(勉強を)するのか」を人文科学的なアプローチで著わしたものです。しかし内容は複雑で難解。

    では、私が分かった範囲でコピペブログ・スタート。

    著者曰く、昨今の勉強環境は格段と進歩した。すなわち、インターネットやPC、スマホの発達で「勉強のユートピア」である、と。

    しかしながら、情報が多すぎることで、考える余裕を奪われているともいえる。

    そこで、著者曰く勉強のキーワードとなるのが「有限化」だ。ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。すなわち「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成り立たせる。勉強を有限化する。

    ここで、著者はこういう。本書は「勉強しなきゃダメだ」、「勉強ができる=エラい」とか「グローバルな時代には英語を勉強しなきゃ生き残れないぞ」という脅しの本ではない。

    むしろ、真に勉強を深めるためには、勉強のマイナス面を知る必要がある。勉強を「深めて」いくと、ロクなことにならない面がある。ある一定程度勉強して、それ以上「深く勉強しない」にはそれでいいと思う、とのことだ。なぜなら、生きていて楽しいのが一番なのだから。

    深く勉強しないというのは、周りに合わせて動く生き方だ。状況にうまく「乗れる」、つまりノリのいい生き方である。

    逆に「深く」勉強することは、流れのなかで立ち止まることであり、「ノリが悪くなる」ことだ。

    本書で紹介するのは、いままでに比べてノリが悪くなってしまう段階を通って「新しいノリ」の変身するという、時間がかかる「深い」勉強の方法である。

    著者はこう喧伝する。「勉強とは自己破壊である」
    では何のために勉強をするのか?何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

    それは、「自由になる」ためだ。どういう自由か?これまでの「ノリ」から自由になることである。

    日本は「同調圧力」が強く「ノリが悪いこと」の排除の社会である。しかし、勉強は、深くやるならば、これまでのノリから外れる方向へ行くことになる。ただの勉強ではない。深い勉強である。

    例えを挙げると、自己流で歌っていたときの粗削りだからこその圧力が、一念発起してまじめにボーカルレッスンを受け始めたら、だんだんその魅力が失われていった。

    このように、勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしいという。

    つまり、前述したように、勉強とはかつてのノッていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。換言すると、勉強とはわざと「ノリが悪い」人になることである。

    ところで、会社や家族や地元といった「環境」が私たちの可能性を制約している、と考えてみる。生きることは、環境から離れては不可能であり、私たちはつねに何らかの環境に属している。圧縮的に言えば、私たちは「環境依存的」な存在であると言える。

    本書では、「環境」という概念を「ある範囲において、他社との関係に入った状態」という意味で使うことにする。シンプルには、環境=他者関係である。

    「他者」とは「自分自身でないものすべて」だ。親も恋人も、リンゴやクジラ、高速道路、シャーロックホームズ、神もすべて「他者」と捉えることにする。これはフランス現代思想において見られ使い方である。

    また、環境の求めに従って、次に「すべき」ことが他のことを押しのけて浮上する。もし「完全に自由にしてよい」となったら、次の行動を決められない、何もできないだろう。すなわち、環境依存的に不自由だから、行為ができる。

    ここで「不自由」はこれ以後、哲学的に「有限性」と言う。逆に「なんでも自由」というのは、可能性が「無限」だということ。無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。

    私たちの課題は、有限性とのつきあいい方を変えることだ。有限性を否定するのではない。有限性を引き受けながら、同時に、可能性の余地をもっと広げるという、一見矛盾するようなことを考えたいのである。つまり、有限性とつきあいながら、自由になる。

    ところで、会社や学校といった環境のなかでは、他者への対応がスムーズに無意識的にできるようになっている。環境には「こうするもんだ」がなんとなくあって、それをいつのまにか身につけてしまっている。

    すなわち、「こうするもんだ」は、環境において、何か「目的」に向けられている。周りに合わせて生きているというのが、通常のデフォルトの生き方だ。

    私たちは環境依存的であり、環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が人々を結びつけている=「共同化」している。

    環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向づけ」である。それを環境の「コード」と呼ぶ。

    会社や学校等の環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、「ノリ」と表す。ノリとは、環境のコードにノッてしまっていることである。

    いかなるコードも、普遍的なものではない。特定の環境の「お約束」にすぎない。そういう意識を通常は十分もってない。すっかり「その会社の人」とか「その地元の人」になっている。つまり自分は、環境のノリに、無意識なレベルで乗っ取られている。

    ならばどうやって自由になればいいのか、環境に属していながら同時に、そこに「距離をとる」ことができるような方法を考える必要があるが、それを可能にするのは「言語」である。

    言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えられる。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのだ。言語習得と同時に特定の環境でのノリを強いられることになっている。

    国語辞典に載っているのは、言葉の「本当の意味」ではない。載っているのは代表的な用法だ。辞典とは、人々が言葉をどう使ってきたかの「歴史書」である。

    言語習得とは、ある環境において、ものの考え方について「洗脳」を受けるようなことだ。すなわち、私たちは言語を通じて、他者に乗っ取られている。

    ところで、人間にとって「世界」は二重になっている。まずリアルに存在するのは、モノ=物質の世界である。物質的な現実だ。(以下、現実)それと、もう一つの次元として、言語の世界が重なっている。

    そのもう一つの次元として、言語には現実に縛られない独自の自由がある。たとえば、テーブルの上にリンゴがあっても、たんに言葉として「リンゴが箱のなかにある」と非現実的なことも言うことができる。「ここにはクジラがいる」と言うことさえできる。何でも「言えるには言える」わけだ。

    言語はそれだけで架空の世界をつくれる。だから小説や詩を書くことができる。先ほどの
    「リンゴ」は現実の普通の言葉だが、例えば「リゴンゴン」のように、何をさすのでもないたんなる言葉をつくることができる。さらには論理的にありえないことまで「言えて」しまう。「リンゴはクジラだ」とか「丸い四角形」とか。

    筆者はいう。こうした言語の自由さに、あらためて驚いてほしい、と。つまり言語それ自体は、現実から分離している。言語それ自体は、現実的に何をするかに関係ない、「他の」世界に属している。このことを「言語の他者性」と呼ぶ。

    そして、言語の他者性によって、言葉のある環境での偏った意味付けは必然的ではなく、いつでもバラすことができる。別の意味づけの可能性がつねに開かれている、ということにもなる。

    つまり、言語の他者性は、環境による洗脳と、環境からの脱洗脳の、両方の原理になっているのである、と著者は主張する。

    また、これにより、人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ」を生きている、と言える。言語によって構築された現実は、異なる環境ごとに別々に存在する。言語を通していない「真の現実」など、誰も生きていない。つまり、環境においてノッているというのは、言語的なVR(ヴァーチャル・リアリティ)を生きているということである。

    また、ある環境、すなわち言語的なVRが、人を支配すれば、解放もする。いわば言葉は人間のリモコンである。

    ある環境において、言葉は私たちに命令する。言葉によって私たちは、特定のノリに従った動きをさせられる。

    しかし、言葉にはまったく逆の機能もある。すなわち言語の他者性だ。言語は自由。それは言葉遊びの自由であり、それは言葉の組み合わせによって、目の前の現実とは別のたくさんの可能性を考えられるということだ。このことは社会的な意義がある。

    社会を成り立たせるには、立ち止まって考えることが必要である。それは言語をフル活用し、可能性を想像するというこだ。つまり「もしこうならばああなるな、いや別の可能性もあるな」というふうに、シュミレーションすることである。

    したがって、言語は、私たちに環境のノリを強いるものであると同時に、逆にノリに対して「距離をとる」ためのものである。

    さて、私たちはある環境に「いながらにして距離をとる」方法を求めてた。この勉強論では、環境による縛りから逃れたいわけだが、完全な自由はないのだから、縛られながら逃れるようなころを考えなければならない。その答えが、以上の考察で得られたのである。

    私たちを縛りながら逃れさせるもの、私たちに命令しながら私たちを命令から解放するもの...それは、人間世界=ヴァーチャル・リアリティを構築する言語に他ならない。したがって、言語の開放的な力-言語の他者性-について考えることが、自由になるための勉強論に等しいのである。


    とここまで、本書を紹介してきましたが、”勉強”と言うものを論理的に解析した、佳作です。ぜひ、「勉強の論理性」を探求したい方は一読をお薦めします。

  • 13年勤めた会社を辞めて,スクラップ&リビルド中の自分のこれからの研究生活を考える上での,メタなフレームが得られるというか,読みながらアタマを整理.

  • 哲学だけに難しかったけど、勉強をツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアで思考するあたりから腑に落ちるようになった。
    アイロニーとユーモアを行ったり来たり、勉強を有限化する、読書は完璧にはできない、そして「アイデアを出すために書く、アイデアができてから書くのではない」という、私なりの本書の構造を掴んで読了。
    書評で『「同調圧力」時代の突破口に』とあったけど、それはよくわからない…

  • タイトル通り、哲学の観点から勉強の仕方を示した、今まで触れたことのない新鮮な本であった。自分にとっては一度だけでは理解しきれていないところもあるが、それでも勉強方法として新しい気付きを与えてくれた意味では良書であった。

    ・勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。
    ・環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向づけ」である。それを、環境の「コード」と呼ぶことにする。言い直すと、「周りに合わせて生きている」というのは、環境のコードによって目的的に共同化されているという意味です。
    ・環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、本書では、ひとことで「ノリ」と表すことにしきしょう。ノリとは、環境のコードにノってしまっていることである。
    ・言語によって構築された現実は、異なる環境ごとに別々に存在する。言語を通していない「真の現実」など、誰も生きていない。
    ・勉強とぼ結局、別のノリに引つ越すことですが、この勉強論で光を当てたいのは、以前のノリ1から新しいノリ2へと引つ越す途中での、二つのノリの「あいだ」です。そこにフォーカスするのが、本書の特徴です。ニつの環境のコードのあいだで、板挟みになる。
    ・言語には2つの使用がある。一つは「道具的」な言語使用。環境において、目的的な行為のために言語を使うこと。たとえば、「塩を取って」というのは「依頼」であり、相手を動かして塩を手に入れるという目的のために言っている。言葉のリモコンで何かをするわけです。二番目は、たんにそう言うために言っているという言語使用。これを「玩具的」な言語使用と呼びきしょう。おもちゃで遊ぶように、言語を使うこと自体が目的になっている。先ほど挙げた詩の例はそういうものと捉えてほしい。ダジャレとか早口言葉もそうですね。
    ・一般勉強法とは、言語を言語として操作する意識の育成である。それは、言語操作によって、人特定の環境のノリと癒着していない、別の可能性を考えられるようになることである。
    ・自由になる、つまり、環境の外部u可能性の空間を開くには、「道具的な言語使用」のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する「玩具的な言語使用」にウェイトを移す必要がある。

    ・環境のノリから自由になるために、勉強を深める。根本的に深い勉強、ラディカル・ラーニング。それは言語偏重になることである。言語偏重になるというのは、ある環境でスムーズに行為するために言語を使っている状態から脱して、言語をそれ自体として操作する意識を高めることである。言語の「道具的使用」から「玩具的使用」へ。言葉をおもちゃのように操作し、「言えるには言える」という形で、自分のあり方の多様な可能性を、環境の求めから離れて自由に考えられるようになる。
    ・「コードの不確定性」の説明は、会話に限らず、行為全般の「こうするもんだ」=環境のコードについて言えることです。環境のコードは、つねに不確定であり、揺らいでいる。会話にもコードを想定できるし、人に会うときの身ぶりとか、何かチームでやる作業とか、服装とか、あらゆることにコードを想定できますが、コードはつねになんとなくのもの、不確定なものでしかありません。
    ・コードを客観視する「最小限のツッコミ意識」が、勉強の大前提である。勉強とは、新大なことを自覚的にできるようになるこしです。
    ・(0)最小限のアイロニー意識:自分が従っているコードを客観視する。その上で、(1)アイロニー:コードを疑って批判する。(2)ユーモア:コードに対してズレようとする。そもそも不確定なコードをますます不確定にすることを、「コードの転覆」と呼ぶことにする。アイロニーとユーモアはそのための技術である。
    ・アイロニーは「根拠を疑う」こと。ユーモアは「見方を変えること」である。アイロニーとはツッコミ(自覚的な)であり、会話のコードを疑い、批判するものです。ユーモアは、何か新たな「見方」をその場に導入する。
    ・アイロニーでは、究極の根拠を目指し、あらゆるコードを破壊し、足場不在になった。対照的にユーモアでは、コードは破壊されず、増えすぎてしまうという帰結に陥るのです。

    ・まず、自分の置かれている環境を客観視するという意味で、最小限のアイロニー意識をもっのが大前提なのでした。その上で、
    (1)アイロニーを深める、すなわち、環境のコードの根拠を徹底的に疑っていくなら、ついには、言語を破棄し、言語というフィルターを通さずじかに、「現実それ自体」に触れたいという欲望になる。それは、極限としては、もはや何も言うことができない状態、「言語なき現実のナンセンス」になる。そこで、
    (2)あらためて、環境ごとに異なるコードでの言語使用を認めるのが、ユーモアへの転回である。まず、拡張的ユーモアは、複数の環境をコード変換で行き来できるようにする。このことを「諸言語の旅」と表現する。
    (2-1)しかしユーモアが過剰化されると、極限としては、あらゆる言葉がつながって、言語がトータルに無意味になるという「意味飽和のナンセンス」が想定きれる。ならば、諸言語への旅は、旅として成立しなくなる。比愉的に言えぱこれは、「どこかへ行くことが、即、世界中に行くことになってしまう」という状態なのです。
    (2-2)縮減的ユーモアは、非意味的形態としての言語をもてあそぶ、強度的で享楽的な語りである。これは「形態のナンセンス」である。そこで、次のように考えます。個々人がもつさまざまな非意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば「仮固定」を可能にする。

    ・退いた視点からの、つまりメタな立場からの現状把握をする―これが、最小限のアイロニー意識です。ここから勉強がスタートする。そして、生活にわざと疑いを向けて、問題を浮かび上がらせる、「問題化」するのです。わざと問題を立てることが、勉強です。問題を見ないようにしたければ、勉強することばでさません。繰り返しますが、勉強とはノリが悪いことなのです。ときにそれは不快なことかもしれない。でも、わざとそれをやるのです。勉強というのは「問題意識をもつ」という、スッキリしない不快な状態をあえて楽しもう、それこそを享楽しようしするこしなのです。
    ・自分の状況は、大きな構造的問題のなかにあり、自分一人の問題ではない、というメタな認く識をもつことが、勉強を深めるのに必須である。
    ・勉強するというのは、何かの専門分野のノリに引つ越すことである。
    ・歴史ある学問は、環境に「いながらにしていない」ような思考を可能にする。いまの環境内での生き方を改良するという道筋、あるいは、いっそ外に出てしまおうという道筋、という相反する可能性を総合的に考えさせてくれるという意味で、歴史ある学問は、ひじょうに柔軟に役立つものなのです。
    ・アイロニー的に勉強のテーマを考える。それは「追究型」と言える。他方で、ボケ=ユーモア方向もある。それは「連想型」です。キーワードを出すのにも、分野を想定するのにも、追究と連想がどちらも使えます。
    ・勉強は、ニつの方向できりがなくなる―追究し連想、アイロニーとユーモアです。言い換えれば、「深追いのしすぎ」と「目移り」になる。勉強はアイロニーが基本なので、「深追いしているうちに目移りしてしまう」というのが、よく起こることです。
    ・「最後の勉強」をやろうとしてはいけない。「絶対的な根拠」を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるべストな勉強など、ない。深追い→目移り→深追い→目移り....というプロセスを止めて、ある程度でよしとするのが勉強の有限化です。
    ・信頼できる情報にもとづく比較を、ちゃんと自分なりに引き受けて、ある結論を、しかし絶対的にではなく仮の結論を出すのでなければなりません。
    ・自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。信頼できる情報に自分の享楽を締めて考えて、「まあこれだろう」と決める。
    ・たまたま、ある人の考え方に出会って、それ=他者(ここでの「他者」といういい方は、他人やモノ、さらに「考え方」も指しています)に完全に乗っ取られる。決断とは、自分の決断の絶対化だが、それはつまり、他者への絶対服従である。私は、ある他者に完全に乗っ取られ、ひとつの真なる世界観に入る。こうして、アイロニーはそもそも批判的になることなのに、決断主義に転化すると、無批判な生き方になってしまいます。狂信的になってしまう。他の考えを聞く耳をもたなくなる、というか、他の考えをもつ複数の他者がそもそも存在しなくなる。だから、決断主義は避けなけれぱならない。これが本書の立場なのです。
    ・考えるべきは、「比較を続けながら比較をストップする」ような事態です。これを、決断ではなく、比較を「中断」する、と言うことにします。比較を続けるなかで、仮にべターな結論を出す。比較がちゃんと比較であるならば、その結論は「仮固定」でなければならない。ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。つまり具体的には、日々、調べ物を続けなければならない。別の可能性につながる多くの情報を検討し、蓄積し続ける。すなわちこれは、「勉強を継続すること」です。
    ・アイロニー=深追い方向で、比較を絶対的にストップさせようとすると、決断主義になってしまう。そうしないなら、ユーモア=目移り方向で、複数の他者のあいだをいつまでもさまようことになってしまうのではないか―しかし現実にはそうほならない、なぜなら、享楽的こだわりによる重みづけがなされ、どこかに足場が仮固定されるからです。
    ・信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。
    ・こだわりというのは、要は「昔から自分はこうだつた」ということです。ならば、自分の「頑固な」部分でものごとを決めるしかない、ということなのか。本章では、享楽的こだわりは、絶対的に固定されたものではなく、変化可能であるという考え方を示したい。
    ・どこの環境においても言語には、何か偏った価値観が染みついている。ゆえに、環境の価値観が染みついた言葉で、出来事をなんとか納得してしまっているわけです。しかもトラウマ的に強い出来事ですから、それをなんとか納得するために動員きれる言葉=価値観は、強く自分に結びついてしまうでしょう。
    ・。経験上、自分のこだわりは、勉強を通してある程度は変わります。僕の経験からしてそう思います。しかし、どこまでコアな変化が起きうるのかは、わかりません。
    ・戦後から九〇年代までの日本社会がどう変わっていつたのかを教えてくれる新書一冊でもまず読めば、自分のこだわりの背景について理解が少しぼ深まるでしょう。まずはそのくらいから始めれぱいいのです。

    ・専門分野に効率的に入門するには、入門書を読むべきです。入門書によって、勉強の範囲を「仮に有限化する」のです。専門分野に入る前提として、どのくらいのことを知っておけば「ざっと知っている」ことになるのか、という範囲を把握する。必要なのは、最初の足場の仮固定です。そして、入門書は、複数、比較するべきである。一冊だけで、信じ込まないようにしてください。入門書を一冊読んだくらいでわかったと思われては困ります。いろんな角度から、分野の輪郭を眺める必要があるのです。同じ分野の研究者でも、解釈の展開や力点の置き方などは人によって異なります。
    ・専門分野に取り組むにあたっては、入門書に加えてその分野の教科書、あるいは「基本書」と言えるものを買っておくこときお勧めします。最初の段階では、これらは読み通すのではなく、あくまで入門書の理解を深めるための「事典」として使います。何種類もあるときは、原則として、出版年がより新しいものを選ぶのがいいでしよう。
    ・基本書というのは、教科書のように教育目的で書かれたものではないが、その分野の中心的化なテーマについて詳しく書かれた重要文献です。各分野において優先的に読むべきなのは基本書である、と知っておいてください。基本書とは、まずは、入門書や教科書に重要なものとして繰り返し出てくる文献がそれだと思ってください。
    ・勉強の順序としては、複数の入門書→教科書→基本書、となります。
    ・読書の完壁主義を治療するにあたって、フランスの高名な文学研究者であるピエール・バイヤールの「読んでいない本について堂々と語る方法」は非常に役に立つ本です。
    ・読書と言えば、最初の一文字から最後のマルまで「通読」するものだ、というイメージがあるでしょう。けれども、ちょっと真剣に考えればわかることですが、完壁に一字一字すべて読んでいるかなど確かではないし、通読したにしても、覚えていることば部分的です。通読しても、「完壁に」など読んでいないのです。ならば、ここからだんだん極論へ行けば、拾い読みは十分に読書だし、目次だけ把握するのでも読書、さらには、タイトルを見ただけだって何かしらのことは「語る」ことができる。
    ・入門書への取り組み方として、まず、言葉づかいに慣れる。そのために重要なのは、自分の実感に引きつけて理解しようししないこと。「実感に合わないからわからない」では、勉強を進めようがありません。
    ・授業では、学ぶべきことをすべて教えてくれるわけではありません。勉強というのは、自分で文献を読んで考察するのが本体であり、教師の話は補助的なものです。
    ・どんな分野のブロでも、教科書に書かれているすべてをマスターしている人はいません。そう思ってもらってかまわない。つまり、何かを省略するものなのです。勉強をイヤにならずに続けるには、「完壁主義」を避ける必要がある。いつでも不完全な学びから、別様に不完全な学びへと移っていく。仮固定から仮固定へ。
    ・勉強するにあたって信頼すべき他者は、勉強を続けている他者である。多くの他者の意見(つまり、他者の勉強の成果)をふまえずに、何か環境のコードを押しつけていたり、決断主義的に決断しているような語りは、どんなに有名でカリスマ的に人気がある人のものでも、勉強の足場にすべきではありません。
    ・勉強の足場しすべきは、「専門書」です。もっと限定すれば、学問的な「研究書」です。「書物には、専門書とそれ以外がある」、または「研究書とそれ以外がある」という二分法でも考えてください。ぞれ以外は、「一般書」と呼ばれます。ほとんどの本は一般書です。注意してほしいのですが、専門書は大きな書店でなければ置いていないこしもしばしばです。ほとんどの本は一般書なので、本格的に勉強を始めるとなったら、意識的に専門書を探しに行くことが必要なのです。
    ・一般書から有効な部分を取り出すには、読者に専門知識が必要です。ゆえに、シビアな態度ですが、初学者ならば、一般書すべてに警戒してほしいと思います。世の中の新しい動きの情勉報はまず一般書から得ることが多いと思いますが、著者の立場に注意して読んでください。
    ・信頼できる著者に関しては、「学会誌」に論文を投稿しているとか、専門家向けの(一般向けではなく)レクチャーをしているとか、そういう活動状況を著者のウェブサイトなどで調べることで、ある程度は判断でさます。文献に関しても、専門家集団からの評価があること、これを基準にしてください。多くの専門家が参考文献として使っている文献は、とくに重視されているものだといえるでしょう。
    ・勉強の経過をノート(アプリ)に書くことは、勉強の継続にとって、重要です。何を読んだのか、どこまで考えたのか、何がまだわからないのかなどを書き、いっでも簡単に開けるようにしておく。サボることがあっても、経過の記録があれば、いつでも戻れる。拠点となるノート(アプリ)の存在は、周りのノリに流されたり、「もういいや」で決断したりするこしに対する抵抗になるでしょう。勉強を続けるには、日々、ノート(アプリ)の管理をするように心がける。ノート(アプリ)としては、evernoteを使用している。
    ・勉強を進めながら書くための、基本的な方法としてお勧めしたいのぼ、箇条書きによる「フリーライティング」です。フリーライティングというのぼ、思いつくままに、話がズレていっても気にせず、どんどん書いていくという実践です。箇条書きでの入力をサクサクやるには、「アウトライナー」と呼ばれるアプリを使うことをお勧めします。
    ・フリーライティングをしていると、何か気になるイメージとか、場面とか、理由を説明しにくい具体的なものがわいてくることがあります。そのときに考えるべきテーマと関係なく。そういうものも、言葉にしてみる。アウトライナーで書いているなら、そういう部分もそのまま書いてしまって、後になってから、別のところに保存しておく。おそらくそれは、自分の享楽的こだわりに関係している断片です。そういうものが、小説や詩など、文学の着想につながる可能性もあります。大して意味がなさそうだけれども、気になること。自分の奥底の無意味に触れているのかもしれない「雑念」。雑念にこそ、「自分ならではの無意味」が宿っている。何か「非意味的形態」のきらめきがある。自由な勉強とは、意味と無意味の行ったり来たりである。
    ・勉強の本体は、信頼できる文献を読むことである。信頼性の条件は、「知的な相互信頼の空間」に結びついていることである。この条件からして、勉強の一番底に置くぺきは、歴史ある学問であり、その上に、現代的・現場的な専門分野を載せるという二重構造の意識をもつ。

  • つ…疲れた…。
    考えても考えても、言葉自体に頭が追いつかなかったり、理解するのにとても苦労しました…。
    本が問題なのではなく私自身の頭の回転の話になるのですが…しかし、最後まで読みきった達成感は何にも代え難いものがありますな。

    さてさて。
    サブタイトルにある『来たるべきバカのために』というのは、大学教授も務める千葉雅也氏の愛情表現だなぁ、というのを読んでいてつくづく感じました。

    勉強、その言葉自体が僕はもう苦手で苦手で…。
    何が苦手って、何をもって学習なのかも、勉強なのかも分からない私に取っちゃあ「勉強しなさい」が何よりもの即死魔法でした。ドラクエ風にいるならザキでした。

    この本の中には勉強を続けるのには気張らなくていいんだよっ☆肩の力抜きなって☆というようなフランクさがあってとても良かったです。

    レベルアップした気分。

  • 勉強とは何なのか、それをするとどうなるのかということについて、哲学を基礎に置いていますが、バックボーンの無い人にもわかるように書かれています。勉強すると余計な贅肉も付いてしまい、それがアイロニー(ツッコミ)として発生してしまいます。そういう人間たくさん見るなあと思い当たる点、自分にも有ったりしました。本書はそこからどうするのか、かじり始めた勉強をどうやって発展させていくのかが書かれています。
    勉強していない人に、勉強する意味を説明することは非常に難しいものです。なぜならそれをするためには、相手にそれを理解するだけの知識を求めるからです。本書はその難しさを、可能な限りハードルを下げて説明されていると思います。難解なことをここまで分かりやすく専門性を省いて書かれた著者の労力はすごいと思いながら読みました。
    アイロニカルに突き進むと「自分が決めたから決めたんだ」という結論に至りますが、著者はそれではマズいと言います。その視点は反省を促し、冷や汗が出ました。

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勉強の哲学 来たるべきバカのためにの作品紹介

勉強ができるようになるためには、変身が必要だ。勉強とは、かつての自分を失うことである。深い勉強とは、恐るべき変身に身を投じることであり、それは恐るべき快楽に身を浸すことである。そして何か新しい生き方を求めるときが、勉強に取り組む最高のチャンスとなる。なぜ人は勉強するのか?勉強嫌いな人が勉強に取り組むにはどうすべきなのか?思想界をリードする気鋭の哲学者が、「有限化」「切断」「中断」の技法とともに、独学で勉強するための方法論を追究した本格的勉強論。

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