勉強の哲学 来たるべきバカのために

著者 :
  • 文藝春秋
3.72
  • (128)
  • (197)
  • (132)
  • (41)
  • (20)
本棚登録 : 3217
感想 : 237
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163905365

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 単に勉強をするためのHOW TO本では全く無い。
    哲学的に読み進める中でそもそも“勉強とは”を理解した上で後半の実践の説明へと突入する。

    しかし、第二章までは「本来〜と使われている言葉を本書ではこのような意味として使用する」といった言い回しが多く、その言語も読み進める中で変化も進化も遂げていくので表面的に読んでいるだけだと後々理解が複雑化してしまうように思う。

    集中して読むことが強いられる分、第三章、第四章の具体的な想定の例や、筆者の実例に基づいた説明が驚く程簡単に頭に入っていく。
    前半で読むのを諦めた方は是非あと少し耐えてほしい。

    この本を手に取ったのは、自粛期間でこれまでより自分に使う時間が確保されたことにより、勉強したい興味のあることが溢れるように出てきたので整理できればという入り口でした。

    これまでは興味が散漫としていて、多趣味で一つのことを深く追求できない自分の性格にフラストレーションを感じていましたが、勉強には終わりが無く、三日坊主を繰り返すこと、調べることを続けることが勉強という言葉を都合よく解釈してどこか救われる気持ちになりました。

  • 知的好奇心は際限がなく拡大する一方でありキリがない。その最たる例が積読の増加である。そこで著者は勉強の「有限化」を重視し、決断主義(独我論)に対する相対主義(言語ゲーム論)の優位性を説き、アイロニー(懐疑)からユーモア(連想)への転回を提唱する。そして、結果としての享楽的こだわりがナンセンスへの中断化を促すわけだが、そこにアイロニーをかけるというアクロバティックなプロセスにより「勉強の三角形」のサイクルをまわし続け、縦横に膨張するナンセンスを回避し、「有限化」する事が重要であるとする。(尚、amazonのオススメが無限化を進めているのは言うまでもない)
    現代思想を用いたこの辺の整理の仕方は唸らされるものがあるが、現実的には学問領域は専門性で細分化されタコツボ化している。よって、この「勉強の三角形」のサイクルもタコツボの中で回り続けているに過ぎない。それはそれで専門分野内では「真理が収束する」というメリットはあるのかもしれない。しかしながら、今求められているのは「ユーモアの学際性」であり「タコツボからの脱却」である。また、「勉強の三角形」のサイクルをまわすだけでは「現実社会への適用」という課題が残されたままである。昨今話題になっている学術会議の問題も「タコツボからの脱却」と「現実社会への適用」という2点が問われているのではないだろうか。

  • とても良かった。言語化され、丁寧に整理されたことで、自分の学び方についてもう一度見直せた。

  • 図書館から借りてきて読み終わったのに「買って手元に置きたい!」と思うほどに面白かった。

    この本が自分の享楽的こだわりとマッチしていたんだろうね

    詳しい感想を後で書く

  • 少し難しい本ではあるが難しいことを簡単にわかりやすく書いている本である。主に言葉の意味や言葉が意味するものを疑ってかかると言う思考から始まる。これをアイロニカルな思考と著者は呼んでいる。物事を疑ってかかると言うところから思考を深め、勉強を進めていく。フランス哲学のドゥルーズ&ガタリあるいはラカンの精神分析学が背景となっている。勉強を深めていきたいと言う方には参考になる。

  • 【目的】
    習慣はある程度身についた。今まで考えこなかった「勉強法」を知りたい。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    すぐに実践しやすい勉強法は書かれていない。
    難しい哲学書だった。


    【環境のノリから自由になる】

    僕たちは環境依存的な人間で、その環境には道具的な言葉が使われている。

    確かに会社、友人が使う言葉を玩具的に考えずに「なんとなく」で思考停止で生きてきた。

    その方が心地がいいし楽だから。これは危険。



    ・アイロニー 疑い
    ・ユーモア  見方

    この2つを意識して、言語を物質から切り離して考えてみる。

    ちきりんの「自分のアタマで考えよう」に通ずる。



    【‪勉強によってノリが悪くなる、キモくなる‬】

    上記を意識して、自分をメタ視して、ツッコミとボケすれば、だいぶ浮いた人間になる。

    ただみんなに同調するだけの意見、考えはもうやめようと思う。



    【ノリの引越し】

    自分が知らない世界に行くのは、ノリの引越し。
    だから知らない言葉が出てきたり、納得できない事があって当然。

    他人の家にお邪魔するようなイメージで、そこからキーワードだけを拾い、その道に詳しくなる。



    ★勉強は「一旦終わり」と仮仮定してもよい。

    いつやめても、いつからでも始められる。
    継続はもちろん大事でも、ビクビクしなくていい。


    ジャンルの幅を広げつつ、頭で考え、仮仮定を意識してやってみる。



    ✔︎今日やること
    ・ブログ、YouTubeをアイロニーで考える。
    なぜやるのか。


  • 前半の原理の部分は、「勉強は自己破壊」とか「アイロニーがツッコミでユーモアがボケ」とか、たとえも含めて非常におもしろかった。
    後半の実践の部分は、読書術の話がほとんどで、ちょっと尻すぼみ。

  • 『勉強の哲学』千葉雅也 文藝春愁 2017.4 記録:2019.12.22
    https://www.amazon.co.jp/勉強の哲学-来たるべきバカのために-千葉-雅也/dp/4163905367/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%81%84%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E5%A0%82%E3%80%85%E3%81%A8%E8%AA%9E%E3%82%8B%E6%96%B9%E6%B3%95&qid=1577106315&sr=8-2
    深く勉強するというのはノリが悪くなること。
    新しいノリに変身するという時間がかかる深い勉強を説明する。
    私たちは常に何かの環境に属している。私たちは環境依存的な存在である。

    p26
    環境における「こうするもんだ」とは行為の目的的・共同的な方向付け」である。それを、
    環境の「コード」と呼ぶことにする。
    周りに合わせて生きているというのは環境のコードによって目的的に共同化されているという意味。
    生き延びるために周りに合わせてしまっている。
    ノリとは環境のコードにノってしまっていること。ノリは、ノリが悪いことの排除と表裏一体。
    無意識的なレベルで環境のノリに乗っ取られているならどうすれば自由になれるのか。
    その場にいながら距離をとることを考える必要がある。可能にするのは言語である。
    自分は他者によって構築されたもの。言語を通して我々は他者に乗っ取られている。
    言語には現実に縛られない独自の自由がある。
    言語それ自体は現実から分離している。このことを言語の他者性と呼びたい。
    言語は現実から分離しているために言語と現実の唯一正しい対応関係はなくなる。
    つまり言語の他者性は環境による洗脳と、環境からの脱洗脳の両方の原理になっている。ここが核心。

    我々は言語によって構築された現実を生きている。
    勉強とは何をする事かといえば別のノリへの引っ越しである。

    ちなみに本書はフランス現代思想に多くを頼っている。

    焦点を当てたいのは言語それじたい。新たな言葉と出会ったとき、言語それ自体という次元と出会う。
    壊れた洗濯機は不気味なただのモノとなる。物質性を発揮する。
    道具が壊れた時にモノの物質性が出てくる。
    自分を言語的にばらす。そして多様な可能性が次々に構築されてはまたばらされ構築されるというプロセスに入る。それが勉強における自己破壊。P52

    深く勉強するとは言語偏重の人になることである。 P53
    自由になる。つまり環境の外部=可能性の空間を開くには「道具的な言語使用」のウェイトを減らして言葉を言葉として、不透明なものとして意識する
    「玩具的な言語使用」にウェイトを鬱う必要がある。地に足がついていない浮いた言語をおもちゃのように使う、それが自由の条件。
    要するに言葉遊び的になる。著者はこれを言語偏重になる、と言い表す。
    自分のあり方が言語それ自体の次元に偏ってて、言語が行為を上回っている人。言い換えれば言葉遊び的な態度で言語に関わる意識をもつこと。
    ラディカル・ラーニングとは言語偏重になり言葉遊びの力を開放することだ。

    言語偏重になるのは言語をそれ自体として捜査する意識を高めることである。
    言語の道具的しようから玩具的使用へ。言葉をおもちゃのように操作して多様な可能性を環境の求めから離れて自由に考えられるようになる。

    自由の余地はむしろノリが悪い語りにに宿る。勉強によって自由になるとはキモい人になることである。

    言語をそれ自体として玩具的に使い自由に可能性を操作する。そのテクニックは大きく二つ
    ボケと突っ込み。
    ツッコミをアイロニー。ボケがユーモア。自由になる本質的な思考スキル。
    我々の思考はアイロニー型とユーモア型に分けると仮定する。

    会話分析のために会話のコードを想定する。
    ツッコミはそうじゃないだろと疑って批判すること
    ボケとは急にずれた発言をすること。孤立した感じを与えるでしょう。

    コードの転覆。
    環境のコードに合わないことを自覚的に考える。コードを理解しようとしたうえで別の可能性を考える。そこに創造の芽生えがある。
    コードを客観視する最小限のツッコミ意識が勉強の大前提である。
    勉強とは新たなことを自覚的にできるようになること。

    最小限のアイロニー意識:自分が従っているコードを客観視する。
    アイロニー:コードを疑って批判する
    ユーモア;コードに対してずれようとする。

    アイロニーとユーモアによってコードを転覆させ別の豊富の可能性を言葉によって考える。

    加えてナンセンスという第3の極みを立てる。
    アイロニーとユーモアは過剰になるとナンセンスな極限形態に転化する。
    アイロニーとユーモアが普通に使えるのはナンセンスまでにはいかない「ほどほどの」範囲内の事なのです。
    ナンセンスまで考慮に入れたうえで、その手前にとどまる。これが本書の特徴である。

    小笠原鳥類詩集
    https://www.amazon.co.jp/小笠原鳥類詩集-現代詩文庫-小笠原鳥類/dp/4783710007/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%B3%A5%E9%A1%9E%E8%A9%A9%E9%9B%86&qid=1577012188&sr=8-1

    アイロニーは際限なく深まる p83
    不倫が悪だ、としたら究極の根拠を知りたがる。だが根拠=心理には到達することはできない。
    本のコードへの疑いから出てくる高次の根拠を超コードと呼ぶことにする。
    アイロニーは会話を超コード化する。勉強する人は超コード化しがちである。
    アイロニーは言葉をはぎ取られた現実それ自体を目指している。
    アイロニーは言語なき現実のナンセンスへと突き進んでいく。

    言語は環境から離れては存在しないということ「言語の環境依存性」を認める。
    ある環境に縛られた保守的状態から脱して一周周って環境依存性を認めること。
    アイロニーによって言語の破棄に至ることなく諸言語の旅へ向かう。この転回がユーモアへの転回である。

    アイロニーは根拠を疑うこと
    ユーモアは見方を変えること

    ユーモアはコードを転覆させる。
    縮減的ユーモア=不必要に細かい話は自閉的な面を持っている。
    なぜ不必要に細かい話にはまり込むのか
    とにかく言いたくなってしまう。理解を求めることは二の次になる。いうこと自体が楽しくなってしまう。
    縮減的ユーモアでは享楽的こだわりのために口を動かしている。
    意味の為でなく享楽のために言語を使っている。言語の玩具的使用。
    縮減的ユーモアは話を細部に絞るだけでなく意味の次元自体を縮減する。
    宛先不明に言い続ける読後的な状態

    言語とは傷跡です。P117
    言語の形態が、この身に刻まれた。それは、入れ墨である。
    その痛みをともなう形態との出会いを、しかし私たちは享楽している。マゾ的に。

    勉強とは新たなことばに出会い直すことでその言語の痛気持ちよさを反復すること。
    だから人は勉強を恐れるのではないか。

    わざと問題を立てることが勉強。
    勉強とはノリが悪いことで深いかもしれないが、わざとそれをやる。
    勉強は問題意識をもつという不快な状態をあえて楽しもうと享楽しようとすること。

    勉強にはキリがない。「最強の勉強」をやろうとしてはいけない。「絶対的な根拠」を求めるな。
    深追いと目移りといプロセスを繰り返し、ある程度でヨシとするのが勉強の有限化。

    自分なりに考えて比較するというのは信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に中断することである。
    勉強では「比較の中断」が必要。

    そして中断と正反対の「決断」。
    本書では決断を避けるべきだと考える。
    決断はアイロニーを徹底した場合に起きる。アイロニーは絶対的な根拠を求めるが、到達できずに絶対的な無根拠に直面する。
    絶対的な無根拠こそが根拠という逆転が起きる。要は気合で決めてしまう。
    決断すれば考えていたことはふいになる。決断によって自分なりの「真理」が生まれる。
    これを決断主義と呼ぶ。
    決断とはつまり他者への絶対服従である。ふとつの世界観だけがリアルなのだ。別の生き方をする複数の他者が存在しなくなる。
    決断主義になると無批判な生き方、狂信的になってしまう。他の考えを持つ複数の他者が存在しなくなる。
    決断主義をさけねばならない、それが本書の立場。

    アイロニカルな批判はハンパな状態にとどめておく必要がある。そこでユーモア的な有限へと転回する。
    ユーモア的な有限化、それは複数の他者のあいだで旅しながら考えること。つまりちゃんと考えて比較すること。
    絶対的な結論を出したら比較はふいになる。
    ある結論を仮固定して比較を続ける。日々情報を検討して蓄積する。勉強を継続すること。
    これはエネルギーが必要で環境のノリに保守的に流されたりエイヤで決断してしまったりする。
    そうならないように比較を中断しながら続けること。

    信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。

    享楽的こだわりとは自分のバカな部分の事。バカな部分は変化可能である。
    勉強の視野を広げて自分の享楽を分析しつつ勉強を続けることで、バカから別のバカさへと変化する。
    これが「来るべきバカ」。

    「まとも」な本を読むことが勉強の基本である。
    専門分野の入門書を読む。入門書は比較する。

    読書は完璧にはできない
    ピエール・バイヤール『読んでない本について堂々と語る方法』
    非常に役に立つ本。多様な読書を肯定する。
    バイヤール曰く読書において本質的なのは本の位置づけを把握すること。
    頭の中にブックマップをつくり、書物AはBの影響を受けている。Bの結論はCと対立しているという位置関係を説明できるようにする。
    そうすることである分野の森を見渡すことができるようになる。

    勉強のキリのなさ。深追い方向(アイロニー)と目移り方向(ユーモア)に打ちのめされずある程度で「一応は勉強したことになる」という状態を成立させる。
    情報過剰の現代では有限化が切実なもんだです。

  • シニカルで若者的だが、実践的なハズしかた指南書。

  • 勉強を習慣付ける為に読んでみた。
    前半の部分は、読むのにかなりエネルギーがいるが後半の実用部はスラスラ読める。
    この本自体が専門書と一般書の中間と書かれていた。
    まさにこの構成がそれを示してるのかな。

全237件中 81 - 90件を表示

著者プロフィール

1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。
著書に『意味がない無意味』(河出書房新社、2018)、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』(青土社、2018)他

「2019年 『談 no.115』 で使われていた紹介文から引用しています。」

千葉雅也の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×