99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)

著者 :
  • 光文社 (2006年2月16日発売)
3.38
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本棚登録 : 4844
感想 : 643
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いきなり、この本の感想ではなく、別の本の感想というのもなんだけど(^^ゞ
この間、たまたま本屋で別の新書(日本史を総ざらいしたような本)を立ち読みしていて感じたのは、最近の新書って、なんだか、いわゆる意識高い系の人に「この本を読む俺/私って賢いよね」と自己満足してもらうためのモノになってない?と(^^ゞ

いや、たまたまその本の内容が、いちいち「この本を書く俺って賢いよね」書いているようでw、そう感じたのかもしれないが。
でも、出版社と書き手が「あなたは全部正しいんですよ」と大衆にすり寄ってくる今の世の中は、いつぞやの風景のようで、なんとも気味が悪い。


そこで、この「99.9%は仮説」だけど、いや。著者は「サイエンスZERO」でずっと見ていて親しみがあるので、あんまり悪くは言いたくないw
というか。この「99.9%は仮説」で著者は、なかなか面白いことを言っている。
でも、自分は根性が曲がってるんで(爆)
読んでいて、頷くばかりだからで、な~んかエキサイティングじゃないだよなぁー、みたいな?w
いやいや。内容はいいと思うのだ。
この本は、実は「いいね」をくださった方の本棚にあって、その感想を読んで興味を持って読み始めたのだが、
その人は著者の説明の用例の引き方に反感をしていたようだけれど(想像)、自分は特にそうは感じなかった。
ていうか、安直に正しいor正しくないではしゃいでいる、世の情報信仰の危険性をちょっと皮肉っぽく書いているという意味でいいんじゃないかと思うのだ。
ただ、著者もこの本をひねくれて書いているから。
同じく、ひねくれた人が読むと、ひねくれられないからツマンナイんだと思う(爆)


そういえば、去年。年号が変わって、すぐだったかな?
ある朝、友人が「TVの情報番組は、もう絶対信じない!」と憤慨しているので。
聞いたら、平成の30年間で変わった常識、みたいなことを紹介する番組の中で、“煮込み料理は煮込んだ後、冷える時に素材に味が染み込む”というのは間違いで。今は、“煮込んでいる最中に味が染み込むが常識”と言っていたのを見て、「冷える時に素材に味が染み込むって言ってたの、ついこの間じゃない!」と、思わず怒髪天を衝いてしまったのだと(爆)
いや、それを聞いたら、自分も怒髪天を衝いていたのだが(^^ゞ

とはいえ。
TVの情報番組でやってることなんて、どーせそんな程度だよ、とも思ったw
だって、今はニュースですら、ほぼそんな感じだもん。
まともにニュースやっていたら、チャンネル変えられちゃうからと、「なぜでしょう?」と引っ張ってみたり(「なぜ」を連呼するのは、ニュースの最近の流行りw)
ニュースだと思って見ていたら、いきなり記者の主観で構成されたドキュメンタリーになっちゃって。
その中では、取材されている一般人が、TVカメラが自分を撮影しているというのに、パソコンやスマホ見たり、土手を散歩したりしている映像が“必ず”流れる。
もし、自分がN●Kに取材されたら、ずっとカメラを見ているだろうけどなー。間違っても、取材されている時にパソコンやスマホは見ないけどなーと思うのだが、
どうもN●Kのニュースを見る限り、世の人はN●Kに取材されている時にパソコンやスマホを見たり、散歩したりする方が普通みたいだw

とはいえ、世の中って。所詮はそんなもんだと思うのだ。
誰もがもっともらしいこと言ってたり、正しさや公平さを装っているけど、一皮剥けば、全ていい加減。←言いすぎw
個人的には、世の中の人がみんな同じことを言っていたら、それは間違い。間違っているから、みんなが同じことを言っているんだと、思うようにしているw
もしくは、自分に耳障りのいい意見は大体間違っている。間違っているから耳障りよく聞こえるんだ、みたいな?(^^ゞ

ただ、それって、面倒くさいんだよね。
拠り所がなくなっちゃうというか、アイデンティティーがワケわかんなくなってくるというか。
そういえば、ロックファンの人なら誰しも、自分がいいと思っているミュージシャンを他の人が「いい」と言った途端、そのミュージシャンがダサいように感じてしまって、聴く気が失せてしまうという経験があると思うのだがw
つまり、みんなが言っていることは正しい、耳障りのいい意見も正しい。他の人が「いい」と言ったからって、そのミュージシャンが嫌いにならない方が、生きていて楽だし。
何より、その方が楽しいと思うのだw

それを救ってくれる考え方が、第7章にある「間主観性」ということなのかなーと。
ここで著者は、客観と主観を、自分の認識とは微妙に違う形に定義している。
“客観とは、世間の誰もが白に近いと認める仮説に従うこと”、“主観とは、世間とは関係なしに自分だけが白と認める仮説に従うこと”と。
それは、どっちがいいということではなく、“より大きな視点”である、二つの間の「間主観性」が大事なのだと。

とはいえ、それって、具体的に何なんだ?ってことになるのだが。
ただ、自分はそこは、意外とスルっと飲み込めた。
というのは、ずいぶん前、「アメリカの面白い会社」みたいなタイトルの本を読んだことがあって。
その本はもう手元にないので、うろ覚えなのだが、その中に、“常に自分を笑えるようにしておかなければならない”と、“どんな時でも自分を笑えるということは、あらゆる悪徳からあなたを救ってくれる”というのがあって。
読んだ時、パッと目が覚めたような気がして。思わず、クスッとしてしまったのだ。

そういえば、中島みゆきも、「時刻表」という曲で次のようなことを歌っていた。
評論家みたいな人たちは、悪いのは誰のせいで、どうしたらそれが改善されるかを書くことで生計をたてている。
世の人は、その評論家みたいな人たちほど頭のいい人はいないと思って、その人たちの言う通りにすれば、自分も幸せになれると思う。
でも、評論家みたいな人たちは、自分言っているソレは自分がお金を稼ぐためのタテマエにすぎなくて。
ソレをしたところで幸せになんかなれないよ、と心の中で舌を出して、稼いだお金で優雅に暮らしている。
その評論家の言ったことを信じている人より、はるかにいい暮らしを。

歌詞をそのまま書けないので。意訳して書くと、見も蓋もなくなっちゃうんだけどねw
つまりだ。評論家みたいな人たちやTV、ネットが言っていることというのは、世のため人のため、あなたのためではなくて。
それを言うことで、お金を稼ぐために言っているのだ。
でも、言っているそれは、世の人に広く受け入れられなければ、お金は稼げない。
だから、世の誰もが受け入れやすい、タテマエやキレイゴトだけを言う。
ゆえに、ダイエット法はどれも「毎日〇〇を食べれば…」や「毎日3分××をすれば…」なのだろうw

そういえば、著者は第4章で、“科学がどんなに進んでも完全な予言などできないし、永遠に真理に到達しえない”と書いているが。
今の世に何となくある、ビッグデータやAIは未来のご託宣をくれる万能のモノという変な信仰は、「あるある大事典」と同じってことなんだろう(^^ゞ

自分はオバケのようなものを見たことがあるので、「オバケなんていない」と断言する科学者は科学者として認めないことにしている(爆)
(ただし、大槻義彦氏は大ファンだw)
だって、「オバケなんていない」と言うけれど、その「いない」と言う“オバケ”が何なのか?、今の科学は絶対!説明できないんだもん。
ていうか。「オバケなんていない」という科学者ほど、その「オバケ」を“死者の魂”と勝手に定義づけて「いない」と言っているような気がするんだけどw
そもそも、オバケは“いない”って、勝手にオバケを擬人化するな!って話だ。←唐突に何に怒ってるんだ!?(^^;

「超常現象を科学する」でも書いたけど、超常現象に興味がある理系の人は、大学や会社で「超常現象なんかに興味持っていたら出世できないからやめろ」と言われるらしい。
それは他の人からも聞いたことがあって、どうも理系の世界ではある程度普遍的なことらしいのだ。
それを踏まえると、科学や科学者が「オバケなんていない」と言い張るのは、出世できないと困るからということになる。
出世できないということは、お金が儲からないということで。お金が儲からないということは、食えないってことだ。
つまり、科学者が「オバケなんていない」と言うのは、中島みゆきが歌う、評論家やカウンセラーが世の人に受け入れられることだけ言っているのと同じということになる。
いや。だからって、科学や科学者をバカにしたり、軽蔑したりはしない。その人がその人の疑問を追求し続けるその姿勢は素晴らしいと思う。
でも、科学者だって人間だ。お金は欲しいし、出世もしたい。科学者だからこその自己承認欲求だってあって、世間で“映え”たいんだと思う。
だからこそ、日●学術会議のメンバーから外されたら、困るのはお金がもらえないことなのに「学問の自由の侵害だ」と論点をすり替えて大騒ぎするんだろう(^^ゞ
というか、そういう話じゃなくて、科学を利用する側の自分たちが、科学者=偉い人、科学=正解不正解を教えてくれる便利な“情報源”と、短絡的に思い込まないことが大事ということなんだろう。
たまたま見たTVだけど、北海道大学の高橋幸弘教授(といっても、YMOとは無関係らしいw)という人が、“子供の頃、「太陽はこうだよ」、「惑星はこうだよ」と本に書いてあっても、何がわからないのかは書いてなかった。それが不満だった”と言っていた。
繰り返すけど、科学や科学者を馬鹿にする気はない。馬鹿にする気はないけれど、でも、今、世に満ち溢れている科学情報というのは、(わからないことは明かさずに)わかることだけ言って、「正解」を押し付けているだけのような気がしてしょうがない。


おまけのツッコミw
著者は、第5章P167で、“「なんらかの知的生命体が生命の種をまいた」みたいな話は、グレーゾーンの仮説としてはアリ”と書いているが。
「サイエンスZERO」がUFO現象を扱った回では、「宇宙人の乗り物のとしてのUFOは、もちろん信じてませんよ」と言ってなかったっけ~(爆)
ただ、それはこの本の出版より後のことだから。著者が、新たな仮説にたどり着いたのかもしれないし。
ていうか、TV番組ということは台本があるわけで、台本に「そう言え」と書いてあったのかもしれない、とは思うw





このブクログで「いいね」をくださった方が書いている感想を読んで、興味を持って読んだこの本。
出版されたのが2006年とあるから、例の「あるある大事典」のインチキが話題になっていた頃だからこそ書かれた本と思うんですよ。
「あるある大事典」は、その信奉者がどこにでもいて。
メシを食ってたりすると「それが正しい」「そうしなきゃダメ」と、あるあるネタがとにかくうるさくて、とにかくウンザリだった記憶があります。
とかいって、自分もニガリを買って。炊飯器に1、2滴たらしてたんですけどね(爆)

つまり。実はあの時、誰しもの心に「あるある」にはウンザリ!というのがあったから。
出版社は著者と相談して、科学の盲信を叩くという大衆ウケを狙って、わざとちょっと過激チックに書いた面が多分にあるんじゃないですかね。
そういう意味でいえば、著者と出版社が、その大衆ウケのために“わかりやすさ”重視、あるいは、わかりやすくするために“煽った”面はあるのでしょう。
感想で書かれてましたように、その煽りに乗じちゃう人も、もしかしたらいるのかもしれません。
でも、その程度の“煽り”にのってしまうような自分本位の人は、著者のそれがなかったとしても、それをしまう口実を何としてでも見つけちゃうように思うんです。

批判されていた“そのこと”というのは、実は意外とまともに考えたことのない人が多いようで。
ネットなんかでも、「なぜ“そのこと”をしてはいけないのか、誰も答えられない」みたいに、“そのことをしてはいけない理由は古今東西誰も答えられないことなのだ”と、半ば得意気に書いているのを見かけることがあります。

でも、そのことをしてはいけない理由がわからないと言うのは、その人が、“人がそのことをしてはいけないワケ”ちゃんと考えたことがないからにすぎないと思うんです。
だって、そのことが絶対いけないことなんだというのは、ちょっと考えれば誰でも納得出来る答えが見つかることなわけですもん(ちゃんと考えさせれば、幼稚園児だってわかるはずです)。
にもかかわらず、“それをしてはいけない理由は古今東西誰も答えられない”と思い込んでいる人はいます。
そんな風に、“それ”をしてはいけないことは誰でもすぐわかることなのに、“それをしてはいけない理由は古今東西誰も答えられないことなのだ”という、どこからか持ってきた“回答(情報と言ってもいいかもしれない)”で安直に済ませている人が意外と多いことを考えても、それが「99.9%の仮説」(というか、それは問いかけになるのか?)なのだということを考える機会を、(この本に限らず)もっと設けた方がいいように、自分は思うんですよねぇー(^^ゞ

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年12月21日
読了日 : -
本棚登録日 : 2020年12月21日

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