古代から中世の日本では、紛争解決の手段のひとつとして「神判(しんぱん)」が存在していた。神に誓った上で沸かした湯、熱した泥、火にかけた鉄などを紛争当事者の代表たちに触らせ、無傷ならその主張は正しく、怪我すれば誤りだとするやり方だ。時代によって細かいところは違うが、この本では室町時代に流行した「湯起請(ゆぎしょう)」を主題として扱う。
従来の説では「中世日本人は信仰心篤く、それゆえに神判も有効とされていた」となっていたが、著者はその逆ではないかと唱える。古代から中世、近世へと移り変わる時代の中、神に誓うだけでは足りないと考えたからこそ、その証を過激な手段を使ってでも求めたのではないか、という論には説得力がある。
一方で、ただ信仰心のみを問題にしていたわけでもない。理性や常識、利害関係や上下関係、感情といった現代人と変わらない要素も重要な判断基準であり、実際の神判もしばしばそういった要素に左右されるものだった。
それでも信仰は現代の(一般的な)日本人よりははるかに比重が高く、中世日本人にとって大事な物差しのひとつであり続けた。その効力が薄れ、ほかの要素がより前に出てきたのは近世に入ってから。権力と権威が分散、並立していた中世から、それらが一元化されていった近世へ移り変わっていったのと、軌を一にしている。
読書状況:読み終わった
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カテゴリ:
歴史
- 感想投稿日 : 2016年1月10日
- 読了日 : 2016年1月3日
- 本棚登録日 : 2016年1月9日
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