コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書) (ちくま新書 800)

著者 :
  • 筑摩書房 (2009年8月8日発売)
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感想 : 75
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コミュニティを問いなおす

非常に面白い本であった。改めて広井先生の社会福祉論の面白さに触れた。前半は増田四郎などに触れ、中世ヨーロッパの知見を援用し、社会学的な考察を行ったのち、広井先生の持論であるストックの再配分などに触れ、最後に多様な人々を結びつける共通基盤としての思想、哲学に議論が及んでいく。1冊の本の中で3冊分の知見を得たような気もする。

前半の日本社会論は非常に明快であり、個人的にも納得した。社会には都市型と農村型、テンニースの言うゲゼルシャフトとゲマインシャフト的な二分法がある。都市型は異なる人々が、規範をもとに個人をベースにした公共性の高いコミュニティを形成する。一方、農村型は情緒的なつながりであり、ある意味で自他の隔たりが緩い共同性の高いコミュニティである。日本はどうかと言えば、戦後の日本では急速に都市化が進んだものの、実は都市化されたのは外観だけで、中の人々はカイシャという農村型コミュニティで温存されてきた。そういった意味で、日本には都市型コミュニティは未だにない。家庭と終身雇用の会社を行き来し、情緒的なつながりを基調に生きる一方で、一歩その外にでると、他人とは全く話すことはない。コンビニで店員と談笑しているような人はあまり街では見かけないのである。そう言った意味で、日本社会が閉鎖的と言われるゆえんは未だに確立した個人と個人の公共的な触れ合いというものがほとんどないからである。街中で人々が道徳的にふるまうのは、近所の誰かが見ている可能性があるという意識であり、決して公共性や規範によるものではない。これまでの日本は拡張され、引き伸ばされたウチがあり、結局のところ相手の個性を認めたうえで対等にコミュニケーションするというソトのコミュニティはないのである。ここが前半の面白い部分であった。さらに、少し話はずれるが高齢者と子供は土着性が強いゆえに、これからの社会は高齢者比率が高くなるにつれてより地域性が重要になるという考察も頷けた。

また、2章ではコミュニティの意味や目的について話が上がるが、「コミュニティは外部と接するためにある」というキーワードが興味深かった。古来よりコミュニティが存在する場所は、寺院・神社、学校、商店街、公園、介護・医療関連施設であるが、寺院・神社は死者(彼岸)の世界という外部を持ち、学校は新しい知識と言う外部を持つ、商店街は商行為を媒介とした他のコミュニティとの接点であり、公園は自然と言う外部がある、最後に介護・医療関連施設は老い・病という外部をもつ。今あるコミュニティには外部が存在するという知見はこれからコミュニティを形成する上で、何を外部とするかという形で落とし込みができるのではないかと考えた。企業も、何を外部(社会課題・ペイン)とするかを設定し、それを解決することを企業理念とするという形で考えればコミュニティという意味では分かりやすい。

中盤では、フローの社会保障からストックの社会保障というテーゼが打ち出されている。これまで私が触れてきた社会保障論では税や社会保険を財源に、困窮者に手当や保険金を支払うというフローでの思考が非常に多かった。一方で、住環境であったり、初期の教育環境というストックにより注目することで、都市計画などの別の形での社会保障論が垣間見える点は非常に面白かった。
日本はヨーロッパなどに比べて圧倒的に公営住宅というものが少ない。実際に家計をやりくりしてみてわかることであるが、福利厚生で考えてみてもいくら住宅手当と言うフローの保障があったとしても、社宅のようなストックでの供給の方がありがたい。今では社宅など死後に近いが、困窮している層に対して、住環境のストックでの保障というものは、今後高齢化が進む中でどうしてもフローの社会保障論では限界がくる中で、有益な視点であると感じた。再分配という文脈でもストックへの注目はしかるべきであろう。これまでの修正資本主義の考え方では、最初は自由経済でどんどん進めて、ひずみが出れば解決するというものであった。しかしながら、昨今では教育環境やそもそも家を持っているか否かなど、機会の不平等が進んでいる。そう考えた場合、フローへの課税だけでなくストックへの課税をもとにしたストックでの再分配は今後のトレンドとならざるを得ないと考える。
また、人生前半の社会保障という考え方もストックへの社会保障という考え方の一つの面白い視点である。これまで、人生におけるリスクは退職後という人生後半に集積していた。それは、終身雇用と核家族という強固なセイフティネットにより、見えない社会保障が機能していたからである。しかしながら、終身雇用も現在では崩れ始め、さらに人々はどんどん孤独化していっている。もとい、失われた30年とは、終身雇用は限界を迎えているのにもかかわらず、非正規雇用という外部を生み出すことでギリギリ終身雇用を維持してきた期間であった。その間に、非正規雇用は終身雇用のような見えない社会保障から外れ、非正規雇用は消費することもなく、さらには金銭的な理由から結婚もできずに孤独化していくという道筋をたどってきた。非正規雇用という外部と、正規雇用の流動性の低さという日本労働社会の潮流は、2021年の今まさに変化を迎えようとしている。同一労働・同一賃金や厚生年金への一部の非正規雇用者の適用など、一度セイフティネットから外れた人々を、なんとかより戻そうという流れがきている。それは、一方で正規雇用の流動性の向上により、むしろ労働市場はストック的な思考からフロー的な思考へ変化して言っている。その意味で、この本が書かれた2009年からさらに日本は沈み、過渡的な状況にあるともいえる。

また、最近、脱・成長という言葉も流行っているように思えるが、広井先生はかなり昔から定常経済の概念を提唱していたと記憶している。今後、経済成長が止まっていく中で、成熟した社会を構想する上では、空間への志向が考えられる。なぜなら、これまでの経済成長は時間への志向であったからであろう。今日よりも明日の方が経済が成長するという基盤のもと、現在価値や将来価値という言葉は金融論の初歩的な言葉としてカウントされてきた。今の1万円は1年後の1万円よりも価値が高いのである。しかしながら、定常社会では今の1万円も1年後の1万円も価値は同じなのである。ここに、時間が価値を生むという根本的な原理が通用しなくなり、人々は時間への興味を失っていくと考えられる。そうした場合、時間の対概念である空間の比重がこれまで以上に重要視されるのではないかということが広井先生の提言である。

終盤ではかなり歴史的・哲学的な話に広がっていく。これまでに歴史を概観するに、定常化と成長のサイクルを広井先生は見出している。そして、キリスト教や仏教、ユダヤ教などの世界宗教の多くは定常化した状態で勃興する。そこには、物質的な拡大から内面への深化、際限なき欲望の抑制という宗教的・哲学的な思考が深まるのは、拡大や際限なき欲望がかれ果てた定常化した社会なのである。今後、定常化した社会の中で、自省的で内面的な思考がトレンドとなるということは文化的な側面でも考えられるであろう。一方、もう一つの見方とすれば、空間的な拡大の果てに多様な人々をむずびつける共通基盤が必要となり、そこには長い時間軸を持った宗教的・普遍的な思考が不可欠であったという見方もある。いずれにしても、今後の文化は普遍性の高い概念への深化のフェーズを迎えているのであろう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2021年8月4日
読了日 : 2021年8月2日
本棚登録日 : 2021年8月2日

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