P.27より引用
「『考え、議論する道徳』と言うのであれば、本来、そもそもルールとはいったい何なのか、どのようなルールであれば従うべきで、どのようなときにそれは変えられるのか、変えるべきなのか、新たにつくるべきなのか、といったことを議論する必要があるはずです。いついかなる時もルールに従えなんて、むしろ非道徳的な教育と言うほかありません。」
とかく、道徳の授業というのは、模範的な児童生徒が模範的なことを言ったり、自然の美しさ、伝統を守ることの大切さについて理解したり話し合ったりすることが多い。
そして、巷間言われている「考え、議論する道徳」も、その域を出ていないことが多い。
苫野氏の主張するように、本来の意味で、よりよい社会をつくっていくためには、ルールの有用性を理解するとともに、その適用性やその適時性などを話し合っていくことが、不可欠である。社会に出て、前例だけに囚われたり、間違った組織の論理(違法なことを組織の一員としてさせられても従ってしまう同調圧力のようなもの)に従ってしまったりすることは、ありがちなことであるが、それだけでは間違いなくよい社会人にはなれない。
きちんとなぜそのルールがあるのか、なぜそうするのか、なぜ校則があるのか、学校に携帯電話を持ってきてはいけない理由(逆に持ってきて良いとした場合にどんなルールを作ればよいか)などを話し合い、その中でよりよいものをつくり出すことこそが、これからの社会の一員として求められる、「生きる力」なのではないだろうか。
そんなことを考えた。
- 感想投稿日 : 2020年4月29日
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- 本棚登録日 : 2020年4月25日
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