ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

  • 岩波書店 (1967年4月16日発売)
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「神は死んだ」――神の死を伝えるために、彼は下界へと降りていく。そして、彼は大衆から蔑まれののしられる。彼が、彼らの抱く善に反しているという一点において彼は排斥される。やがて、彼は大衆へと神の死や、超人へと至る道程を語ることをやめて、旅の道連れを捜し求める。

「誰にでも読めるが誰にも読めない書物」
恐らくはニーチェの思想によって、深い構成を経ずにしてつづられたある種の純文学であるのではないか?それによって、この著書はまるで得体の知れぬものと成り果てている。

「愛の中には常に幾分の狂気が在る。しかし、狂気の中には常にまた幾分かの理性が在る」――キリスト教の教えからはまるで考えられない理屈であるくせに、この言葉は真理をついている、いや、真理をついていると思わせるだけのなにかを背後に持ちえている。

彼は、善、徳、悪、様々な言葉へと観念的に追求している。しかし、その際に彼の言葉はあまりにも平易なのだ。哲学書だと思わせぬくらいの平易な言葉で、しかし、誰よりも難解な内容を描いているという逆説。彼の怒りの矛先が向けられるのは、彼が度々絶望するのは、キリスト教徒が抱く「絶対的な価値観」なのではないか、彼はその価値観に疑義を呈しては、嘆き悲しみ、内省を重ねている。

彼が説くのは、恐らくは一つのことだ。その一つのことをうまく言葉にするのは困難であるが、しかし、彼は様々なその一つによって様々な事柄を批判していく、それにおっておぼろげに見えてくる彼の考え方の根幹とは――「神の死」なのだろうか。絶対的な存在、真理が死ぬ時点で、耐えず批判が生じ、我々のものの尺度は一つでは測りきれなくなる。彼は隣人すらも批判する。「隣人はあなたにたかる毒蠅なのだ、だから、孤独になりなさい」と彼は説く。

「孤独は長い間、1かける1だが、それが長い間には、2になってくる」――ニーチェ。わたしとわたしとの対話。そして、さらに第三者の存在。コルクの浮子。

「人は神にはなれないが、超人にはなれる」「神は死んだ。人に、同情したがために死んだ」「原罪を持っていると思うことこそが原罪なのだ」「救い主はもし私くらい歳を経ていたらならば、間違いなくその考え方を変えたであろう」――この言葉はもはや凄まじすぎる。彼の超克精神は凄まじい。また、彼は、更に、一部の終盤にて弟子たちと決別している。それは、弟子たちは彼の考えの受け売りを持っているだけであり、彼を信仰している存在に過ぎないからだ。彼らは自ら彼の考えを持たねばならず、また、友を失うという悲劇を彼自身も経験しなければならなかった。しかし、それは再会を誓う別離なのである。

「力への意思とは、ありとあるものを思考可能としようとすることであり、力の意思こそが真理への意思の正体なのだ」――ここでは批判される、力への意思だがこれはやがて肯定的に捉えられていくらしい。
「善と悪とは絶えず、自らを超克していくことである」「常に自分で自分を超克していかねばならない」――絶えず繰り返されるのはこの内容。


二番目に好きなひとと結婚するべし、というのは、実は女性だけではなく男性にも当たる言葉なのかもしれない。これは単に二番目っていう意味よりは、むしろ、一緒にいて身を滅ぼしたくなるくらい好きなひとと一緒にいて破滅するよりは、遠くからそのひとを思いなさいってことなのかもしれない。逆に一緒にいて破滅する気配がないならば、それはたぶん、二番目に好きなひとなのだ。一番目と出会っていないというだけであって。それは真理に近しいのかもしれない。「愛と破滅は表裏一体」とはニーチェもよく言ったものだ。

ツァラトゥストラの上巻の内容としては、自己を超克していくための徹底したニヒリズムが語られている。繰り返される自己否定、更に自己否定。規制的な価値に縛られ盲人と化している人々との間に軽蔑され彼は孤独になりながらもやがて彼の仲間を得る。仲間を得、更に離別して彼は孤独へと至り、仲間たちもそれぞれの思索を得ようとする。彼らはまた再会し、そして、また離れる。第一部における離別は、彼のためであり仲間たちのためであったが、第二部における離別は人間のためだ。彼は序説においておよその人間に見切りをつけてしまったわけだが、それではいけないと二部の終わりにて彼の中の内なる彼によって啓示を受け、泣く泣く再度孤独へと落ちていく。平易な言葉で難解に綴られる哲学書と文学の両方の性質を持ちうる突然変異的な本著が訴えているのはしかし、酷く一貫している。絶対的な価値観の否定し、自己を超克する。だが、自己はまた自己という殻に埋もれる。つまり、超克は絶えず行われなければならない。そして、絶対がない以上、終着は見えない。彼は終着を神ではなくて超人だと定義づけている。しかし、絶対はないのだ。真理を彼は否定している。第三部以降の展開がいくらか気になるところではある。彼はとうとう超人になるのか、破滅して死ぬのか、一般大衆=彼が軽蔑していた存在すらをも味方につけてしまうのか、はたまた、弟子にとってかわられてしまうのか。終わりなどない。彼は宗教者ではないのだ。彼はあくまで一つの路を説くだけだ。しかし、それは絶対ではない以上、弟子たちはそれぞれの路を開かねばならず、彼らはあくまで、自己の考えを持った結果として身を寄せているというだけに過ぎない。永遠の思索。しかし、その永遠の思索こそが力への意思であり、権力を求める意思であり、我々を縛り付ける正体である。とはいえ、気力的に下巻を読むのは日をしばし空けよう。


追記。解説を読み、自分の解釈が少し不安になってきたが、しかし、誰かが下した解釈が絶対だなんてことはありえず、自分は自分の解釈を持てばいいのだと思う。誰かが下した解釈を持つということはつまり、追従しているだけに過ぎなくて、それはニーチェの言う超人の路を断念したことになりはしないか?なので、個人的にはニーチェをニヒリストでありロマンチストであり、ナルシストであると肯定的な意味合いで定義する。個人的にニーチェは好きだ。思考はくるくると回り続けるだけかもしれないが、回れば回るほどに必ずなにかが集積されていく。それが悪く働くこともあるかもしれないが、自己との対話による強烈な自己否定と自己肯定の精神があれば、必ず自分なりの終着にたどりつけそうな気がするのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 外国文学(哲学、思想)
感想投稿日 : 2011年4月26日
読了日 : 2011年4月26日
本棚登録日 : 2011年4月26日

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