関ケ原(上) (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1974年6月24日発売)
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【感想】
いつの世も、いくら頭が切れていようが周りを巻き込むことの出来ない人間が日の目を見る事はない。
また、豪放磊落なだけでは天下を取る事は決して出来ないという事も、同時に学ぶことができました。
綿密に計画を練って、冷静に時世を見つめて運気が来るまでは決して不用意に動かず、また立てた計画をしっかりと実行するだけの資本(もとで)を準備した上で、試合が始まる前にはもう既に勝敗を決する。
まだ1/3が終わった段階ですが、なぜ石田三成が敗北し、徳川家康が勝利したのかがわかる内容でした。

ただ、家康のキャラの陰湿すぎる描き方に、筆者・司馬遼太郎はおそらく家康の事がキライなんだろうなという感じが垣間見えましたね(笑)
中巻・下巻が楽しみです。


【あらすじ】
東西両軍の兵力じつに十数万、日本国内における古今最大の戦闘となったこの天下分け目の決戦の起因から終結までを克明に描きながら、己れとその一族の生き方を求めて苦闘した著名な戦国諸雄の人間像を浮彫りにする壮大な歴史絵巻。
秀吉の死によって傾きはじめた豊臣政権を簒奪するために家康はいかなる謀略をめぐらし、豊家安泰を守ろうとする石田三成はいかに戦ったのか。


【引用】
1.斬るには、斬るだけの舞台がいる。
また、斬るにしてもそれがご当家の為になるようにして斬らねばならぬ。その日がいつかは来る。
いま斬ったところで、一時の快をむさぼるだけのことだ。

2.諸大名はもちろん庶民ですら「もう豊臣政権はたくさんだ。太閤は死んでくれてよかった、あのまま外征が続けばどの諸侯の財産もからっぽになった」と思っていた。
加藤清正だけは違っていた。外征の最大の被害者だったが、その憤りのやり場が石田三成ただ一人にしぼられていた。

3.時勢が動くのだ、いろんな役回りの人間が要る。馬鹿は馬鹿なりに使い、狂人は狂人なりに役を与える。それが名将というものだ。


【メモ】
p21
三成は秀吉に仕えて以来、何度かの戦場を踏み、特に秀吉の天下継承戦ともいうべき賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦では、加藤・福島など「七本槍」に次ぐ武功をたてている。
しかし、戦場の血しぶきのなかでいきいきと働く駆け引き上手というわけにはいかない。
彼は自分の欠点を、島左近にて補おうとした。自分の秀才と左近の軍事的才能をあわせれば天下無敵と思ったのだろう。


p36
・竹杖事件
三成を斬るという家臣たちに、家慶の幹部が。
「斬るには、斬るだけの舞台がいる。また、斬るにしてもそれがご当家の為になるようにして斬らねばならぬ。その日がいつかは来る。いま斬ったところで、一時の快をむさぼるだけのことだ。」


p42
おねねは陽気で利発で心が広く、秀吉が卑賤の頃からの妻だから、公私ともに秀吉のよき相談相手であった。
天下をとってからも誰それを大名に、あるいはどの国を与えるなどという時には、おねねは遠慮なく意見を言い、秀吉もその意見をよく用いた。
自然、おねねは単に奥方というだけでなく豊臣家における最大の政治勢力として諸侯から恐れられるようになった。

関ヶ原前夜に、もし彼女が「家康を討て」と諸侯に内命したとすれば、日本史は大きく変わっていたであろう。
が、事態はその逆であった。なぜそうなったかは、この物語の後の進展を待ちたい。


p47
秀吉の側室筆頭である淀殿は、三成らと同じく近江人である。
父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市である。
父の長政は信長に滅ぼされ、その頭蓋骨に漆を塗られ、金粉をまぶして、酒宴の座興に供せられた。
その後、母とともに織田家に戻り、ついで母の再縁先である柴田勝家の元に行ったが、勝家も秀吉に滅ぼされて母・お市は福井の北ノ庄城で自殺した。
やがて秀吉の元に引き取られ、27歳で秀頼を生んだ。


p72
左近は三成とは違い、冷徹に時世をみている。
秀吉は晩年に至って外征を起こし、このため物価は高くなり、庶民は暮らしにくくなっている。
さらにその外征中、建築好きの秀吉は伏見城をはじめ、無用の城や豪邸を盛んに建て、民力を使いすぎた。


p127
・秀吉と家康の関係
信長の死後、明智光秀を討ったという「資格」によって秀吉は織田家の遺産を継承し、それに反対する北陸柴田勝家を討滅し、残る勢力は家康だけになった。
信長の遺児の信雄(のぶかつ)が家康の元に走り、これと同盟して秀吉と対抗したのが、世にいう小牧長久手ノ合戦である。

このふたりの関係は、秀吉もつとめたが、家康も哀れなほどにつとめた。
互いに怖れ、機嫌をとりあい、
(いつあの男が死ぬか)
と密かに思い合ってきたに違いない。


p231
諸大名はもちろん庶民ですら「もう豊臣政権はたくさんだ。太閤は死んでくれてよかった、あのまま外征が続けばどの諸侯の財産もからっぽになった」と思っていた。
加藤清正だけは違っていた。
外征の最大の被害者だったが、その憤りのやり場が石田三成ただ一人にしぼられていた。


p289
(時勢が動くのだ、いろんな役回りの人間が要る。馬鹿は馬鹿なりに使い、狂人は狂人なりに役を与える。それが名将というものだ。)
家康と正信は、同時にそんなことを考えている。


p327
本多正信は、奥の一室にあって、密かに伺っている。
(利家は、おそらく殺されるものと思ってきたであろう。自分が殺されることによって、旗上げの機会を掴もうと思ってやってきたに違いない。なんの、そうはいかぬわ)
徳川家はじまって以来の贅沢な接待も、家康・正信の練り抜いた作戦であった。


p509
(力じゃな。。。)
本田正信老人は、行列の中にまじり、しみじみと思った。なぜこうもうまくゆくのか、と我ながら感嘆する思いである。
(策謀というが、それには資本(もとで)が要るわさ。それが力であるよ)
力無き者の策謀は小細工という。いかに智謀をめぐらせても所詮はうまくゆかない。
それとは逆に大勢力をもつ側がその力を背景に策謀を施す場合、むしろ向こうからころりと転んでくれる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説
感想投稿日 : 2020年7月13日
読了日 : 2020年7月13日
本棚登録日 : 2020年7月13日

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