【感想】
幕末騒乱期を長州藩の視点によって描かれた物語。
龍馬伝でもお馴染みの「吉田松蔭」「高杉晋作」が中心となる長編の第1巻は、吉田松蔭の青春時代を中心に描かれていた。
好奇心旺盛で、打たれ強く、粘り強く、幾度の失敗でさえ決して折れず、子どものように目を輝かせて夢を追い続ける吉田松蔭はこれまで抱いていたイメージとは大いに異なる印象だった。
やや危なっかしいところも多いが、あのように自分の夢のみ懸命に追いかけれる人間はとても眩しい。
また、他と違って相手をリスペクトした上での「攘夷」は、読んでいて非常に爽快!!
実際周りにいると大変そうだが、非常に参考になって魅力的な吉田松蔭。
次巻からは高杉晋作も登場するのでとても楽しみだなー
【あらすじ】
時は幕末。
嘉永六(1853)年、ペリーの率いる黒船が浦賀沖に姿を現して以来、攘夷か開国か、勤王か佐幕か、をめぐって、国内には、激しい政治闘争の嵐が吹き荒れる。
長州萩・松本村の下級武士の子として生まれた吉田松陰は、浦賀に来航した米国軍艦で密航を企て罪人に。
生死を越えた透明な境地の中で、自らの尊王攘夷思想を純化させていく。
その思想は、彼が開いた私塾・松下村塾に通う一人の男へと引き継がれていく。
松陰の思想を電光石火の行動へと昇華させた男の名は、高杉晋作。
身分制度を超えた新しい軍隊・奇兵隊を組織。
長州藩を狂気じみた、凄まじいまでの尊王攘夷運動に駆り立てていくのだった……
骨肉の抗争をへて、倒幕へと暴走した長州藩の原点に立つ吉田松陰と弟子高杉晋作を中心に、変革期の青春群像を鮮やかに描き出す長篇小説全四冊。
吉川英治文学賞受賞作。
【内容まとめ】
1.吉田松陰のアグレッシブさと屈託のなさ、数多くの失敗にまみれても尚動き続ける粘り強さはまるで少年のよう
2.後年あれほど名を連ねた吉田松陰は実は遅咲きで、ペリー来航後の数年まで大きな活躍や他人からの尊敬などを成していなかった。
3.長州藩は若者に対して実に甘く、この事が幕末の騒乱にて若者に藩論を牛耳られてあわや藩解体にまで追い詰められる原因となった。
【引用】
「中国者の律儀」という言葉が、戦国期に流行った。
正直をむねとし、人を騙さない。
少なくとも毛利氏の外交方針はその律儀を建前としたがために同盟国に信頼され、威を上方にまで奮った。
関ヶ原という大変動期を切り抜け損ね、敗北者側に味方したため、広島を追い出されて防長ニ州(今の山口県)に閉じ込められて、幕府に窒息寸前にまで追い詰められた。
「とうてい家を維持できない、これならばいっそ城も国も幕府に差し上げます」と絶望的な訴えをしたが、幕府は無視した。
p102
後にあれほどの感化と影響力をその後輩に与える松蔭が、同輩に対しては何の影響も与えず、彼らにからかわれることはあっても、後に彼が後輩から得た尊敬のかけらほども、得ていない。
他藩士の間でも、松蔭の評価はその程度だった。
p130
「われ酒色を好まず、ただ朋友をとって生(いのち)となす。」
人間の本義のため、友との一諾を守る。
p135
長州藩の上司の風として、若い者に対し実に甘い。
この藩が幕末騒乱期にあって若い過激派によって牛耳られ、あやうく藩が解体する寸前まで加熱したのは、この藩の年長者たちのこういう寛大さに原因している。
p225
不思議な性格で、いつでも自分の前途には楽しいことや頼もしいことが待ち受けているように思い込んでいる。
だから松蔭には暗さというものがない。
p243
ここ数年、日本中を歩き回って、海岸を見、山岳を見、国防の事を考え続けた。
日本中の人物という人物には、あらかた会ってしまったような思いがある。
しかしながら、ついに回答を得ない。
(この上は、国禁を破って外国に渡る以外にないのではないか?)
非常な暴挙である。
p256
松蔭は、違っている。
海を越えてやってきた「豪傑」どもと、日本の武士が武士の誇りの元に立ち上がり、刃をかざして大決闘を演ずるという風の攘夷であった。
敵を豪傑として尊敬するところが松蔭にはある。
p301
「長崎へ行ってみたところ、惜しくもロシア艦は去った後であった。」
別に落胆の様子はなく、顔色も声の張りもいきいきしている。
このあたりが松蔭の特徴であった。
失敗すればまた新たな企画を考えるというたちで、このため失望や退屈をする暇がなく、今ももう次の行動企画に心を沸き立たせていた。
p308
「自分はどうも人の悪が見えない。善のみを見て喜ぶ。」
「人生において大事をなさんとする者は、和気がなければなりませぬ。温然たること、婦人・好女のごとし。」
- 感想投稿日 : 2018年1月10日
- 読了日 : 2018年1月10日
- 本棚登録日 : 2018年1月10日
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