誤植が何故発生するのか、発生したらどうするのか、発生した人はどう感じるのかがいくつもの立場で語られる。
もちろん、誤植は無いほうが書き手の意図を正しく伝え、残すために必要だけれども、個人的には誤植は好きだ。人の手を通っている感覚がする。いくつもの障害(校正)をのりこえ、存在する力強さがそこに存在する。息を潜め、隠れていたその誤植はある日、何人もの有識者によってその存在を日の元にさらされる通快感たるや想像を超える。もちろん、これによって迷惑や不利益を受ける人たちもいるのだけれど、誤植があると見つけた自分とその生き残った誤植に万歳をあげたいくらいだ。
世紀の誤植はたくさんあるけれど、ジョジョの奇妙な冒険の「何をするだぁ~」は誤植の中の誤植であり、とうとう擦りなおされたけれど、作者も認める「あれはあれでよかったんじゃないの」の典型例だ。
誤植を否定するなかれ、誤植を認め、人が万能ではないことを改めて確かめることは、つまり人間らしさの発露でもあると思うのだ。
読書状況:読み終わった
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評論
- 感想投稿日 : 2013年7月7日
- 読了日 : 2013年7月7日
- 本棚登録日 : 2013年6月30日
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コメント 2件
だいさんのコメント
2013/07/14
libraさんのコメント
2013/07/16