タイトルどおり、読書と社会科学について書かれた本です。まず「読書会」。そして「読書そのもの」。そして「概念装置」というものについて。
「概念装置」というのは、たとえば自然科学における顕微鏡などの「物的装置」と対になる言葉であるらしく、社会科学を発展させるための、頭の中にある方程式のようなもののようです。(自然科学に「概念装置」が必要でないかと言うとそうではなくて、その二つが入り混じって発展していくそう)
この「概念装置」については、社会人向けのセミナーで語ったと思われる、
Ⅰ章 「読むこと」と「聴くこと」と
Ⅱ章 自由への断章
では一切触れられず、主に社会科学に関わる学生に語ったと思われる、
Ⅲ章 創造現場の社会科学――概念装置を中心に――
において詳細に書かれています。
ではこの「読書」と「社会科学」が完全に分断されているのかというとそうではなく、むしろⅢ章で語られた「概念装置」が、読書にとっていかに重要か、また読書によって如何に取り出され得るかが――本文では明言されていませんが――明らかに章をまたいで書かれています。
第Ⅰ章にある一節です。
――A氏は、こういうふうに考えを展開するくせがあるらしい、するとここはこうなっているはずだが、果てしてどうだろうかといった作業仮説作りも自然身についてくる(この、仮説を作って、それに従う号が本文が自然に読めるかどうか、本文でためすという読み方は、是非じっさいに試して下さい)。同時に、自分の読みに対する信念も――試されることで――謙虚さ柔軟さを加えながら深まってきます。
この「読みに対する信念」という言葉を、よく覚えておいて下さい。
第Ⅲ章にはこうあります。
――既成の概念装置について、それも最新最鋭のものでなくていい、もっとも基礎的なものについて、その代りその概念装置の組み立て方、使い方をほんとうに呑みこんで自前のものとしておれば、それを基礎にして、新しいものを自由に自分で作ることができます。
この2つの文章は、その結果でのインプット、アウトプットの違いはありますが、「読みに対する信念」と「概念装置」は極めて近い、というか入れ替えても文章はきちんと通じます。
その他にも、
第Ⅱ章
――何か安心できそうな他人の眼でなく――心細いながらも現にいま自分が持っている眼にすべてを託して、自分で読んでゆかなければならないでしょう。自分の眼をギリギリ精一ぱい使うよう努力して、作品に体当たりする他ありません。
そして第Ⅲ章には、
――自分の眼をもち、自分のことばをもとうとするその絶望的な努力が、縁もゆかりもない学者の営みを、自分に近づけ、偉大な先達として彼を見、彼と共生することによって、彼の認識手段であったものを自分の認識手段に組みかえようとする。
これは明らかに同じことを、読書に対する姿勢と、社会科学に対する姿勢とに対して書いています。
この本は「社会科学」と「読書」について渾然一体となった、見事な実用書と言えるでしょう。
第Ⅲ章の最後には、法学者ケネーについての講義を通して、実際に読者に「概念装置」を埋め込む試みがなされています。今まで読んできたすべてが結実する瞬間です。この興奮を、是非体験してみて下さい。
- 感想投稿日 : 2018年3月27日
- 読了日 : 2018年3月26日
- 本棚登録日 : 2018年3月17日
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