博士の愛した数式 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (2005年11月26日発売)
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登場人物の語る言葉の素直さ(嘘・偽りのなさ)が心地よく、そこに数式の美しさが溶け込んで品の良さを感じることができる作品でした。

完全数、28、江夏の背番号。
約数を足すと、その数になるのが完全数: 28 = 1 + 2 + 4 + 7 + 14
連続した自然数の和で表すことができる: 28 = 1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 (本当だ、美しい!)

素数、11、村山の背番号。
偶数である素数は2だけ。
2以外の素数は 4n + 1 か 4n - 1 のどちらかで表すことができる: 11 = 4 * 3 - 1
前者(4n + 1)なら2つの二乗の和で表せる: 13 = 4 * 3 + 1 = 2² + 3² (これも美しい!)

私は数学も好きなので、博士の語る数式の説明に過剰に反応してしまった。

阪神ファンの博士が集めた野球カードが大切に保管されているくだりを読んで、野球好きな私も収集していた野球カードを何年かぶりに取り出しました。
気が付けばルートが博士に喜んでもらおうと一所懸命に江夏のレアカードを探したように、西武ライオンズを応援している同じ職場のお嬢さんが喜びそうなカードはないかと思いながら見直していました。

数学と野球が好きな人には絶好の作品ですね。

最後まで分からなかったのは、ルートを守るために博士が書いた数式の意味。
その数式は 《 e^(πi) + 1 = 0 》 オイラーの等式(本書ではオイラーの公式と言っている)。
√を守る?ための式。
ルートに関係あるのは 虚数の i (= √-1)だ。
どこかで謎解きがあることを期待するも、最後まで説明されず意味不明でこれだけモヤモヤが残りました。

ただ、博士が最も美しいと感じ愛した数式が《 e^(πi) + 1 = 0 》であり、義姉は確実にその意味することを知っていたということ。
「博士の愛した数式」が言わんとしていることは、読者がそれぞれ自由に考えてみればいいということなのでしょう。

《 e^(πi) = -1 》としなかったのは、0 が必要だったからと想像します。
作品の中で0の発見や0の意味について語っている場面がありますので、間違いないかと思います。
0 は、ゼロであると同時に"円・輪"の意味を持たせようとしたのだと考えると、なんとなく分かったような気になります。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: *小川洋子
感想投稿日 : 2021年2月27日
読了日 : 2021年2月27日
本棚登録日 : 2019年11月18日

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コメント 2件

kuma0504さんのコメント
2021/03/03

こんにちは。小説も読みましたが、映画の時に私が「教えてもらった」のは以下の「解」です。いろんな解釈があるのはいいですね。

月一回、映画好きが集まっておしゃべり会をしている。今日は午後から三々五々やってきて、最終的には老若男女8人が熱心な話をした。本当に映画を好きな人間が思いっきり映画のことを話すことの出来る場所というのは、実はほとんど無い。私の知り合いはみんな私が映画を良く観ていることを知っているので、「今面白い映画ない?」とは聞いてきてはくれる。時には観た映画の感想を交換することはある。しかし、さらにもう一歩突っ込んだ話をしようとすると、「私そこまで真剣に映画は観ていないのに……」という顔をするので、それ以上言えなくなるのである。そのことで失敗もいくつかした。

この会は純粋に自説を30分延々としゃべってもいやな顔はされない。今日は例えば「単騎、千里を走る。」で意見が真っ二つに分かれたけど、しこりは残らない。お互いの意見を尊重するからである。しかも映画音楽に関してはこの人、昔の映画については、ハリウッド映画については、ジョニーデップについては、と、それぞれ得意分野がある人もいて勉強になる。

(というわけで前置きが非常に長くなりましたが)能の話に詳しい女性から「博士の愛した数式」についての講義を伺った。まさに講義だった。何しろ資料を五枚もコピーしてきてくれたのだから。

この映画に関しては映画にうるさい全員が絶賛していた。小泉監督は原作を上手いこと換骨奪胎し、わかりやすく奥深い世界をつくっていた。謎として残されていたのは、最終場面である。浅丘ルリ子の義弟(この呼び方についても「おとうと」と言わないのは意味があるだろう)寺尾聰に対する態度は、非常に複雑なものがある。そこに現れた深津絵里、齋藤隆成親子。深津も実は禁じられた恋の体験者である。そして浅丘には無い子供をもうけている。「潔い足のサイズだ」と寺尾に誉められる深津は足を怪我している浅丘にできなかった行動力で寺尾の心を開いていく。浅丘が中尾と深津親子の仲を裂こうとしたときに出てくるのが、「オイラーの公式」である。

私はこの公式の意味がわからなかった。しかし、とりあえず映画としての意味はすっきりわかった。

オイラーの公式を示された浅丘はなぜか深津親子が中尾の世話を再開するのを認める。その場面の間に出てくるのが、中尾と浅丘が事故をする前に見たという能の場面なのである。

能は「江口」という題目である。諸国一見の僧が江口の里を訪れ、西行法師と遊女とのやり取りを思い出す。そこへ里女、実は遊女・江口の君の幽霊が現れ、そのときのやり取りを回想する。西行法師は一夜の宿を遊女に求め、断られる。しかし、それは遊女が出家に対して世捨て人を思う心からで、宿を惜しんだのではないと弁明する。今江口の君はそのときを回想し、仮の宿であるこの世への執着を捨てれば、心に迷いも生じないし、人との別れの悲しさもないと仏教の悟りを開く。そしてその姿は普賢菩薩と変じ、西方浄土に去っていく。そういう「筋」であるが、講師は「後半は言葉では説明できない。」という。たから少し長いと思える能の場面をじっくり見て感じるしかないのである。

映画で使われた能の場面は後半のクライマックスである。地謡は以下の如し。
思えば仮の宿に、
心となむ人をだに諌めしわれなり
(映画ではここで二人は手をつなぐのである。)
これまでなりや帰るとて、
即ち普賢菩薩とあらわれ、
(能ではここでシテは普賢菩薩になる)
舟は白象となりつつ光とともに白砂の
白雲にうちのりて西の空に行き給ふ
ありがたくとぞ覚ゆる
ありがたくこそは覚ゆれ

オイラーの公式のe(πi)+1=0は調和の0悟りの0でした。
能「江口」はオイラーの公式の「解」だったのです。
悟りを開いたのは浅丘ルリ子です。
だから彼女は「仮の宿」という執着を捨て、木戸を開いたのです。

私はこの説明でものすごくすっきりしました。
言葉では説明できない何かを感じたような気がしました。
0は確かに「無」ではない。博士はこの公式を悲しんだのではない。
やはり愛していたのだ。
興味がある方は能の「江口」でいろいろ調べるといいかもしれません。

Kazuさんのコメント
2021/03/03

kuma0504さん、こんばんは。
詳しい説明、ありがとうございます。
能「江口」は、私にはよくわかりませんが、私が感じたことに近いようですね。
やっぱり 0 が大切な要素だったと言ってくれているので、なんだか少し安心しました。

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