見果てぬ日本: 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦

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  • 新潮社 (2015年11月27日発売)
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感想 : 5
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昔が好きな歴史小説家と現在を見つめる映画監督と未来を語りたがるSF作家。
3人の巨匠の作品を通して過去・現在・未来の志向とそれを裏付ける思想を明らかにし、近現代の日本にあてはめることで、国のかたちをとらえようと試みた内容。

遡上に載せるのはSF小説家・小松左京。国民的歴史小説家・司馬遼太郎。世界のオヅこと映画監督・小津安二郎。


小松左京のSF小説は、日本を存亡の危機へと追い込む。ぎりぎりの瀬戸際へと。「日本沈没」「さよならジュピター」。緻密で精密な科学的見地と、それを方向付ける豊かな想像力で日本と日本人を絶滅の危機へと追い詰める。なぜか。日本人に本気を出させるため。小松の戦争体験がそうさせた。本気を出さなかったからアメリカに敗けた。物も人も全てを戦いに注ぎ込んで、本気を出さなかったから国土が焼け野原になったのだと。戦争で負けた恨みを未来小説で晴らす。小松が夢見た見果てぬものは総力戦への憧憬。

司馬遼太郎の歴史小説は、モンゴル遊牧民のように勝手気ままに自由に海を山を駆け巡る人を描いた。旅人のロマンである。逆に土地に執着した定住民を嫌った。日本人を騎馬民族や海洋民族のように描いた。そこに漂泊と彷徨のロマンがあった。ここに司馬文学の特徴があるという。
しかし、ロマンの行く末にはロシア的(恐外病と外国への猜疑心と征服欲)なものが生まれてしまう。騎馬民族の彷徨も少人数なら良いが大集団ならどうか。海を行く商人も商いが大規模になればロマンでは終われない。共にやがては定住し、巨大システム(帝国や資本主義)ができる。システムは司馬が嫌うものだ。
ロマンの副作用と皮肉を司馬自身も分かっていた。過去のロマンのなかに司馬が嫌う定住が作り出した「現在」につながる大きな要因があったことも。であるがゆえに、ロマンをリアリズムに転化しないように過去を純粋なユートピアとして保とうとした。「司馬のロマンは本質的に悲劇である」という一文はそういう意味だ。


小津安二郎の映画は、ひたすら現在を描く。淡々と飄々とした人物。少ない台詞と僅かなカットで物語る。スペクタクルもなく派手さもない。
中国で戦った小津の戦争体験がそうさせる。前線の兵士は努めて体力を温存しようとする。疲れることはしない。省エネ。なぜか。戦場では体力温存が生死を分ける。肝心なときに力が出ないと死ぬ。突破できる前線が突破できない。だから無駄なことはしない。
でも、それは平時でも非常時でも同じではないか。いつかの最後の決戦に向けて、力を蓄え省力化する。これらが身に沁みた人の佇まいが真に人間らしい。これがモノがない前線で耐えた小津が戦争で得た人間観だった。
戦場で見聞きしたような動作や感情が抑制された無感動無表情にみえる人間を軸に映画を撮れば真に迫るリアルなものができると小津は考えた。舞台セット、美術、音楽、台詞も、カメラの位置さえも省力思想が貫かれている。そのなかで演技する役者も演技の幅を節約する。これで映画に奥行きと意味深長さを表す。だから小津映画には黒澤の三船ではなく笠智衆が必要だった。
いつかやってくる「最後の5分」。いつくるのか分からぬが、やがてくるクライマックスのため、余力を残しつつ持久戦で現在を耐えながら待ち続ける小津の思想。だからこそ小津映画は今日もアクチュアルである。


3人の巨匠の方法を通して見えたきた見果てぬ日本とはなんだろう。
小松左京。司馬遼太郎。小津安二郎。作家が二人で映画監督がひとり。並べても何の話か見通せず、つながりや共通点が見出せないままテーマすら分からず読み進めると、そういうことか。
小松左京の総力戦。司馬遼太郎のロマン。小津安二郎の長期戦。どの考えも、資源がない物がない「持たざる国」日本が近代で直面した問題(国際社会でどのように生き延びるか)に対する解き方だった。前に向かってとにかく本気になって人も物も注ぎ込んで総力を上げるのか。ロマンを夢見て過去に逃げるか。いまを耐えて余力を残し長期で戦っていくのか。
偉大なクリエイターたちの方法を通して日本思想史の断面が不思議と浮き彫りになる構成とまとめ上げる手腕はお見事という他ない。「未完のファシズム」の著者ならではの斬新な視点と発想は新鮮だった。

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: 政治
感想投稿日 : 2016年3月6日
本棚登録日 : 2016年2月2日

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