第一章「学びからの逃走」で著者は、今の子供達は、生まれてはじめての社会体験が(家事のお手伝いなどの労働ではなく)買い物であり、「まず消費主体としての人生をスタート」させるのだという。これによって、等価交換が適正に行われること、すなわち経済合理性を追求する性癖が染みついてしまうから、学校の授業についても、「先生、これは何の役に立つんですか?」等という問いを発し(役に立つかどうか判断できない)勉強を嫌悪してしまうのだ、と説いているが…。
これはさすがに穿ち過ぎなのでは。思うに飽食の時代、恵まれ過ぎていて生活のために働かざるをえないということがめっきり少なくなってきた。汗水垂らして働く機会が少ないから、働くことの喜びや充実感を感じられなくなっている。そうすると勉強する目的も見失い、刹那主義的になってしまう、と言う単純なことなんじゃないかな。
また、著者は「消費行動は本質的に無時間的な行為」だとも言っている。学びというのは時間的なプロセス。等価交換原則で生きる人間には時間を勘案することができないから、「学び」のように瞬時に明確な評価が下せないようなものは無価値なものとして排除してしまうのだという。即物的、拝金主義的な傾向が強まっているってことだろうか。この点については頷けるところもある。世の中、寛容さが失われてギスギスしてきている。成果主義、管理の厳格化、厳罰主義、モンスターペアレント、クレーマー。これら全て、等価交換原則で説明できるってことかな。
全編読んでみて、第一章を含め著者の言わんとすることが何となく分かってきた。ニート問題を掘り下げていくと、所得の少ない家庭にニートが多かったりと物事はかなり複雑。結局、事象を読み解いていくと、幼児の頃に染み付いた消費者マインドによる等価交換原則に行き着く、ということなのかも。でもかなり消化不良。
なるほどと思ったのは、「リスク社会とは、そこがリスク社会であると認める人々だけがリスクを引き受け、あたかもそれがリスク社会ではないかのようにふるまう人々は巧みにリスクをヘッジすることができる社会」という部分。要するに、どんな社会でも努力を惜しまない人が勝ち組になる、ということなんだけど、社会階層によってリスクの感じ方が違う(成功している階層ではリスクをあまり強く感じない)から、階層化が一層進んでしまうらしい。これは一理あるな。
- 感想投稿日 : 2020年10月14日
- 読了日 : 2020年10月14日
- 本棚登録日 : 2020年10月12日
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