歴史学の名著。
内容は表題のとおり「歴史とは何か?」に対する問いである。
19世紀にマルクスは「世界は合理的な自然法則によって支配されている」という立場から歴史を語ったが、本書ではそのような立場はとらない。
歴史が神学化する事の危険性を次の言葉で批判「歴史的事実の意味を探るにあたり、歴史上の問題に対してトランプのジョーカーを差し出すように宗教で決着をつける」。
又、歴史が文学化する例としては、意図も意味もないストーリーや伝説の話に歴史が堕落させてしまう「歴史学者の姿勢」そのものを批判している。
本書は「歴史とはなにか?」という率直な問いに対して、様々な学説を交えながらその究極の問いに対する答えを極めた一冊といえる。
二十世紀に入り歴史学は、現在の眼を通して現在の問題に照らすことによって、過去を見るところに成り立つという視点を得るようになった。
そこで歴史家には、記録する事よりも、歴史的事実をどう評価するかということが重要になる。
「すべての歴史は現代史である」クローチェ(イタリア 哲学者)
「歴史上の事実というものは、歴史家がこれを創造するまでは、どの歴史家にとっても存在するものではない」
カールペッカー(アメリカ 歴史家)
「歴史哲学は相互関係における両者を扱うもので、すべての歴史は思想の歴史である」
コリンウッド(イギリス 哲学者)
これらは歴史の重心が過去にあるか?それとも歴史の重心は現在にあるか?という見解に対する答えである。
歴史家は現在の一部であり、歴史的事実は過去に属しているために、過去と現在の相互関係というのがクローズアップされたのである。
これらを踏まえて、本の著者であるE.H.カーの「歴史とはなにか?」に対する答えが紹介される。
その、あまりにも有名なその一節はこうだ。
「歴史とは歴史家と事実との相互作用の不断の家庭であり、
現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」
また、本書では歴史学を科学的なアプローチで追求する方法も紹介されている。
「歴史的事実というのは、それ自体が特殊性を帯びた事実である。この特殊な事実に対して歴史家は一般性を見いだすことによって科学となりうる」と。この手法によって歴史的事実から解釈をうみ出すのは他の科学的手法と何らかわらないと説いている。
この考え方は、自己意識の発展を説いたデカルトの言葉になぞられる。
「人間というものを、ただ考える事が出来るだけではなく、自分自身の考えについて考える事ができる存在として、観察の動きをしている自分を観察し得る存在」
歴史が神学・文学にならないためにも、歴史と自己に対する二重の客観性が求められるのが歴史学といえる。
そして、歴史が過去と未来との間に一貫した関係を打ち樹てる時にのみ、歴史は意味と客観性とをもつことにり、過去の諸事件と次第に現れて来る未来の諸目的との間の対話へと発展させることができるという。
私たちがどこから来たのかという信仰は、わたしたちがどこへ行くのかという信仰と離れがたく結ばれており、これこそが歴史に問い続ける我々の究極的目的なのではないだろうか?
本書でE.H.カーは、「未来に向かって進歩するという能力に自信を失った社会は、やがて過去におけるみずからの進歩にも無関心になってしまう」と歴史を学ぶ意義を逆説的に説く事で、歴史という遺産が未来へどう活かされるかを端的な言葉で表わしている。
最後に、本書で印象深かったクローチェの言葉を引用しておく。
「非難する時に我々が忘れてしまうのは、我々の法廷は現在活動している危険な人々のために設けられた法廷であるのに、被告たちは既に当時の法廷で審されて、二度も有罪とか無罪とかの判決をうけることはできないという大きな違いである。〜中略〜歴史の物語するという口実で裁判官のように一方に向かっては罪を問い、他方に向かっては無罪を言い渡して騒ぎ廻り、これこそ歴史の使命であると考えているひとたちは、一般に歴史的感覚のないものと認められている。」
本旨とは関係ないのだが、大衆の非合理性を理解し利用して目的を達成する場合の方法として、オスカーワイルドが名づけた「知性より下のところを狙う」は非常に興味深かったです。
- 感想投稿日 : 2012年11月3日
- 読了日 : 2012年11月3日
- 本棚登録日 : 2012年11月3日
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