私は今までこの本を読むのをやせ我慢しておりました。ついに手に取って読むようになったのは、とうとうやせ我慢が馬鹿らしくなってしまったからです。
何をやせ我慢してたかというと、つまりは、いきなりこの本からニーチェに入るのが嫌だったっていうことですよね。ニーチェに自ら直に触れて感じたことをまず打ち立てることが、私なりにですが誠実にニーチェに向き合う上で大事なことだと、どこか直観し、どこか貫き通したいと思っていたからです。
ところが、今になってどだいそれは無理だということがはっきりしてきた。
ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』から始まって色々読みましたが、さっぱり自分の中に入ってこなかったというのもそうです。
ただ、それ以上に何よりも——これはこの本を読んではっきり「やっぱりそうか」と自覚出来たことでもあったのですが——私はニーチェからしたら敵そのものです。自分が「超人」ではなく「乗り越えられるべきあるもの」の側、奴隷道徳にまみれた「弱者」の側であることが、自分の中ではっきりしたように思えた。そしてそのことが、どういう訳か落ち着いた気持ちでもってニーチェの言葉を迎え入れる準備にもなっていたように今は思っています。
道徳の系譜を探る第一空間から、力への意志そのものを問う第二空間、そして永遠回帰の襲来と意志そのもの、生きることの意味そのものを問う第三空間へ……永井流のニーチェの受け止めとしても、そこで問おうとしていることはまさしくニーチェにしか問い得ない問いだということは、読んでいて非常に感じるところでありました。
そしてまた、そうであるからこそ、私自身に嘘、偽り、ごまかしが沢山、いやそれこそ無数にあることもまたはっきりさせるような、そういう恐ろしい本でもあったことも間違いないと思っています。無論、何が恐ろしいと言って、永井さんというかニーチェそのものの恐ろしさなのですが。うまいこと社会生活を曲がりなりにもやってしまっていて、嘘、偽り、ごまかしを糧とし、人の弱さを養分として生きているうちの一人であるということを、およそニーチェが生きた問いの空間(こう言って良ければニーチェが身をもって示してきた哲学)からは全くもってかけ離れた身であることを突きつけられるような体験をしたように思います。
まぁ、だからこそ私としては惹かれるんですがね。
とにかく、
「徹底して自己に誠実であるとはどういうことか?」
「なぜ真理を求めてしまうのか?」、いや、「何が私に真理を求めさせるのか?」
「この人生を肯定できるとしたらどこで肯定できるのか?」
等々、ニーチェを読んで私なりに疑問を持ち、課題にしていたことの多くがこの本を読みながらある程度氷解されてきたのを感じています。
にしても、徹頭徹尾、徹底的にニヒリストであったニーチェですが、彼は一体どこに向かおうとしていたんでしょうかね。。。
それとはまた別に(いや、つながっているのかもわかりませんが)、読んでいていくつか幼い頃の生と死に関わる原体験、あるいはふとよぎってくる虚しさや心許なさの原体験が掘り起こされるような感覚も覚えました。それについてはまた、これから改めてニーチェを読む中で深く問うてみようと思います。
- 感想投稿日 : 2018年9月8日
- 読了日 : 2018年9月7日
- 本棚登録日 : 2018年4月18日
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