バカの壁 (新潮新書)

著者 :
  • 新潮社 (2003年4月10日発売)
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【感想】
自分の頭の中に入ることしか理解できないor理解しない、自分の考えと違うことにはそれを「無かったもの」「間違ったもの」として存在を拒むという態度は、令和の時代にも数多く見られる。

本書が書かれたのは平成15年だが、当時と今では時代が違う。情報の量が圧倒的に増えた。
情報の絶対量が増えれば、その質を見極めるための鑑識眼が必要になる。この能力がなければ、自分に都合のいい情報だけを選り好んで取捨選択するようになる。知識や情報に誰しもが簡単にアクセスできるようになった現代では、脳内に「バカの壁」を築く人が多くなっているのは間違いないだろう。

ただ、情報を見極めるというのは難易度が高い。何を信じるかによって情報の濾過の仕方も変わってくる。
本書では情報と個性の関係性について論じており、情報は「不変なもの」、個性はその情報を取り入れながら「流転していくもの」だと定義している。大切なのは「揺るぎないファクト」であり、一次情報に対してどれだけ柔軟に価値観を変えられるかによって、その人の賢さが見えてくる。バカの壁の中に籠ることなく、ダメな情報と良い情報を切り分けながら、自らのフィルターを高機能にさせていくことが求められている。

「日本には、何かを『わかっている』のと『雑多な知識が沢山ある』というのを別のものだということがわからない人が多すぎる。常識を雑学の一種だと思ってしまっている」
「そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と『自分たちは現実世界について大概のことを知っている』または『知ろうと思えば知ることが出来るのだ』と勘違いしている」
令和の時代においては、この言葉に一層耳を傾けながら「理解すること」を深めていかなければならないと思う。知識は文字や動画として吸収するだけで足りるのか、それともアクションを起こし身体に浸透させてこそ完成するのか。言わずもがな後者であり、私も頭でっかちにならないように気を張って行動していきたい。

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以上、本書の中から現代に通ずるものをピックアップしてみたが、これは本書の中でもごく一部分であり、全体としては、価値観が古く読むに堪えうるものではない。書かれたのが約20年前なので致し方ない部分もあるが、そもそも内容自体が筆者の観測範囲の中のごく狭い箇所を切り取ったエピソードトークに終始していること、主張の大部分に科学的根拠がないこと、主張がセンテンスごとにぶつ切りになっており本全体として何が言いたいのか分からない&言いっ放しになっていることなど、2003年当時としてもだいぶ怪しい。一つひとつのトピックを抜き出せば納得のいく主張はあるが、さすがに20年も経っていると手垢がつきまくっており、目新しい記述はない。平成で一番売れた新書というが、令和では参考程度にとどめておくのがよいと思う。
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【まとめ】
1 知識は常識ではない
結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。それを「バカの壁」と呼ぶ。また、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。これも一種の「バカの壁」である。

知識と常識は違う。知識を知っていても、本当は何も知らないこと、経験していないことはたくさんあるはずなのに、それを見ずに「分かっている」と言ってしまう。
日本には、何かを「わかっている」のと「雑多な知識が沢山ある」というのを別のものだということがわからない人が多すぎる。常識を雑学の一種だと思ってしまっているのだ。
現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と勘違いしているのだ。


2 個性
人間の脳というのは、出来るだけ多くの人に共通の了解事項を広げていくことで進歩を続けてきた。本来、意識というのは共通性を徹底的に追求するものであり、その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。

今の若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところだ。「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているが、組織が期待するパターンの「個性」しか必要無いというのは随分おかしな話である。

一般的には個性=揺るぎない自己、というイメージがあるが、それは違う。不変なのは情報のほうであり、人間は流転していく。
知るということは、自分がガラッと変わることだ。それが昨日までと殆ど同じ世界でも、世界の見え方が全く変わってしまう。
だから、若い人には「個性的であれ」なんていうふうに言わないで、人の気持ちが分かるようになれというべきだ。 むしろ、放っておいたって個性的なんだということが大事であり、みんなと画一化することを気にしなくてもいいのだ。


3 学習とは身体的アウトプットを伴う行動
身体を動かすことと学習とは密接な関係がある。脳の中では入力と出力がセットになっていて、入力した情報から出力をすることが次の出力の変化につながっている。「学習」というとどうしても、単に本を読むということのようなイメージがあるが、そうではない。出力を伴ってこそ学習になる。それは必ずしも身体そのものを動かさなくて、脳の中で入出力を繰り返してもよい。
ところが、往々にして入力ばかりを意識して出力を忘れやすい。赤ん坊は、ハイハイや手で触って、自然と身体を使った学習を積んでいく。学生も様々な新しい経験を積んでいく。しかし、ある程度の大人になると、入力はもちろんだが、出力も限定されてしまう。これは非常に不健康な状態である。


4 脳と賢さの関係性
脳の形状とか機能で特に個人差があるわけではない。
では、利口とバカを何で測るかといえば、結局、言語能力の高さといった社会的適応性でしか測れない。すると、一般の社会で「あの人は頭がいい」と言われている人について、科学的にどの部分がどう賢いのかを算出しようとしても無理なことだ。
賢さについては、このように脳から判別していくのは非常に難しいのだが、他方、昨今問題になっている「キレる」という現象については、実はかなり実験でわかってきている。結論から言えば、脳の前頭葉機能が低下していて、それによって行動の抑制が効かなくなっている、ということである。


5 教育
若い人をまともに教育するのなら、まず人のことがわかるようにするべきだ。
学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業である。そこの能力が、最近の学生は非常に弱い。 逆に、いったん情報化されたものを上手に処理するのは大変にうまい。これはコンピュータの中だけで物事を動かしているようなものであり、すでにいったん情報化されたものがコンピュータに入っているのだから、コンピュータに何をどうやって入れるかということには長けている。

情報ではなく、自然を学ばなければいけない。人間そのものが自然だからだ。ところが、それが欠落している学生が多い。どういうものであるかというのを自分で体験してみようという考えをもった学生が、どんどん少なくなっている。


6 バカの壁の中に籠もる
バカの壁というのは、ある種、一元論に起因する。
バカにとっては壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠の無い思い込みがある。その前提に立たないと一元論には立てない。なぜなら、自分自身が違う人になってしまうかもしれないと思ったら、絶対的な原理主義は主張できるはずがないからだ。

安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのはすぐだ。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになる。それは一見、楽なことだ。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなり、話は通じなくなるのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年1月9日
読了日 : 2022年1月6日
本棚登録日 : 2022年1月6日

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