作品には、主人公と他の登場人物の名前が記されていない。
最初から物語は存在しないということか?唯一記されている人物は、アレクサンドル・アリョーヒンという。
物語上では、伝説の人物となって「盤上の詩人」という呼称である。
物語は、少年の生い立ちから始まり、その後の人生を決める出来事に出くわす。七歳になったばかりの少年は、祖母と弟の三人でデパートへ出掛けるのをささやかな喜びとしていた。
彼は、遊具に何の興味も示さなかった。屋上にベンチがあり、前には立札が立っていて、「本デパート開業記念として、インドからやってきた象のインディラ臨終の地。子象の間だけ借り受け、動物園へ引き渡す約束だったが、あまりの人気に返却期間を逸し、インディラは大きくなり、屋上から降りることが出来なくなった。以来三十七年間、子供たちに愛嬌を振りまきながら一生を終えた」
ある日少年は、バス会社の独身寮の裏手に迷い込んだ。廃車になった回送バスが停まっているのを見つけ恐る恐る中に入ってみると、男性から声を掛けられた。手作りの菓子とチェスをこよなく愛していた。男に「チェス」をやってみないか、と誘われたことがきっかけでチェスにのめりことになる。しかし、男はただの平凡なチェス指しではなかった。チェスの本質的な真理を心で掴み取っているプレイヤーだった。
チェスと出会って以来、男を「マスター」と呼ぶようになった。少年の祖父は、家具修理の職人で、自宅寝室の天井にチェス盤の模様を描いてもらった。駒を持たずとも頭の中に盤面が浮かぶようになった。チェステーブルで、マスターとチェスをする少年の足下にはいつもポーンと名付けられた猫がいる。対局中は猫を撫で盤面を見ないでチェスをする習慣がついた。寧ろ、見ないで対局する方がリラックスできるのだ。四年の歳月が過ぎた頃、マスターの盤面に美しい蜘蛛の巣の模様があり、一箇所に綻びを発見することができた。そこから冷たい一筋の風がマスターのキングに吹き付けている。「チェック」少年はクイーンを滑らせ、マスターは、自分の黒いキングの駒を倒し「坊やの勝ちだ」と。
少年は十一歳になっていた。狭い回送バスの中での出来事、他の人と対局したことがない。だからといって広い場所で対局したいという願望はない。伝記上のプレイヤーで尊敬する人物から“リトル・アリョーヒン”と命名され“盤下の詩人”と呼ばれることになった。
彼は決して名声が欲しい訳ではなく、ただ駒を動かしたいだけだという。全くチェスを知らない人や国際マスタークラスの人ともチェスを通して、語りあい美しい詩(棋譜)を書きプレゼントした。
読書は楽しい。
- 感想投稿日 : 2022年5月9日
- 読了日 : 2022年5月7日
- 本棚登録日 : 2022年2月14日
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