漱石作品の中で、学生の頃に読み損ねてしまった一冊でした。晩年あたりの作品は、漱石の心身の病気なども相まって暗澹とした作品が多いけど、登場人物の心理描写はこまやかですし、手垢のつかない美しい比喩、卓越した文才には唸ってしまいます。
漱石はやはり古い文士だな~とつくづく思いました。
とくにこの作品は、明治時代の夫婦関係、男と女、女の置かれた社会状況などが如実に描かれていて、読んでいても痛々しいほど。
「どんな人のとこに行こうと、嫁にいけば、女は夫のために邪(よこしま)になるのだ。そういう僕がすでに僕の妻をどのくらい悪くしたかわからない。自分が悪くした妻から幸福を求めるのは押(おし)が強すぎるじゃないか。幸福は嫁に行って天真を損なわれた女からは要求できるものじゃないよ」
神経症気味の一郎のこういったセリフが、作品中でいくつも散見され、これは少々物議を醸すだろうな~とヒヤヒヤしながら読了すると、やはり、宮本百合子(1899~1951)が痛烈な批評をしていました。
「夫婦関係における夫と妻との位置のへだたりが、妻を奴隷的なものに追い込み、夫に対して自然を失わせ、「弱者としての人間的堕落の象徴」たる欺瞞性を身につけるに至る事情を、漱石は十分認識していない。もし夫のために邪になり、女が欺瞞に満ちたものになるならば、その考えを深く追求するべきでった。二郎に向かった時のお直の自然な感情の流露を、ただでない男への自覚されない自然性、夫への欺瞞の裏返ったものとして扱っているところに、漱石のリアリズムの限界がある」
なかなか核心を突いた批評だな~と興味深く読んだのですが、果たして漱石はどこまで考えていたのかわかりませんが。男の見栄や軟弱さ、勇気のなさから己をさらけ出すこともできず悶々とし、結果、もっとも身近な女にさえ理解されない、という憐れな一郎の自虐的吐露のようにも思えます。確かに、妻を萎えさせてしまう夫というのはいますよね(もちろん、その逆もあるでしょうけど…笑)。
男性の作者に時代の古さも相俟って、低い身分や地位にとどめられた女性の心理描写が浅く、リアリズムに欠けるのは仕方ないのかもしれません。この作品がこれから50年先、100年先まで果たして読み継がれているのか不安は残ります。でも、そういった限界を突破し、女も男も人間自体の天然な内奥の描写に挑戦しようとしたのが、もしかすると遺作「明暗」だったのかもしれない……と勝手な想像をしながら、これはこれで楽しく読了です。
- 感想投稿日 : 2017年2月1日
- 本棚登録日 : 2017年1月27日
みんなの感想をみる