さながらそれは、モリアーティ教授のように、彼は《ゲーム》を心から愉しんでいる。
塗仏、宴の始末。前巻宴の支度では逮捕された関口の被害者が明るみに出され、終わってしまった。
そして始末をするべく焦点があたったのは、村上貫一と名乗る下田署の刑事。飛躍した物語は、彼の家庭環境の苦悩から始まる。
隠された秘密、隠された村、隠された方法、隠された目的とまあ、混乱させるような事象が立て続けに起こった前巻につづいて、宴の始末ではさらにそれらがてんわやんわに絡まっていく。
それでこそ、さなかの祭りのように。
ワッショイワッショイと騒いでみんな浮足立っている。まさにその真っ只中から、収束までを描いた「始末」でした。
ほとほと感心してしまうのが、常人を遥かに超えた記憶量だ。追いつかない。というか、辛うじておぼろげ程度にしか記憶にとどめられない私のキャパシティゆえだが、これは、シリーズ一巻にあたる「うぶめ」から「じょろうぐも」まで登場人物を、せめて主要人物だけでも網羅していないと少しわかりにくい。というか、わからない自分が口惜しい。
さんざん広がった大風呂敷の中心には、中禅寺がひっそり立っていた。
そもそもこのシリーズこそ、関口君が頑張ってはくれているがいつも始末をつけ終わりを作るのは中禅寺だ。
京極堂が、堂島に背中をつつかれて矢面に立たされて、「私が主人公だッ!」と言わされているような巻、とも言えるかもしれない。
それゆえなのか、関口君の影の薄さよ。本当に彼は傍観者であり、巻き込まれる側で、中心にはなれない人なのだというということがわかって、不幸でならない。
波の中心が起こした大きな揺れよりも、とても弱くて儚い水面のそよぎに負けてしまっている彼は、無事なのか、いや、無事なんだろう。だって榎木津探偵も京極堂も、始めっから壊れているものが壊れようがないだなんて、なんて頼もしいことを言ってくれていたのだから。
ひとつの家族を中心に多くの人を巻き込んで散々に壊して散り散りにして行われたあるひとつの《遊戯》。それを見てある男はほくそ笑む。
射竦めるような眼、小豆色の羽織を被ったこの人は、観客で終わらせるつもりだったが主役となる全ての覚悟を決めた中禅寺と対峙する。
種明かしの部分はあまりにもあっけなくて、これまでの長さと比べたらとてつもなくあっさりとして味気のないようにすら感じた。催眠も、言霊も、これまで散々練りに練って説明してくれたものは、たった一度シーンとして表出されてしまえば、あまりに歴然とした事実として横たえられて、それだけで理解できてしまう。
全ては嘘だったのだと。
幻だと。
夢だったのだと。
その簡潔さは、まるで記憶の上を揺らぐ船のような意識を、「不思議だ」と言い切って認めてしまったことのよう。日常の中で当たり前に安置されていると勘違いしている家族のよう。
あまりに滑稽で単純明快な事柄にしてしまう。
けれどその結末だけではなく、それまでの盛り上がりこそが祭りなのだ。
夏祭りなんかも、全ての花火が打ち上がった後ほど味気なくそそくさと、これまでのことは全て嘘だと言いたげなよそよそしさはないだろう。
あれほど多くの人が声をあげて喜んだものも、言ってしまえば物が燃えているだけなのだ。
毎日見ている火や光となんら変わらないのだ。
けれど、それに気付く前の高揚感、騒がしさ。その全てが、同じ根っこが枝分かれして毛先が一緒になった塗仏が作り出した「宴」に他ならない。
- 感想投稿日 : 2013年6月6日
- 読了日 : 2013年6月6日
- 本棚登録日 : 2013年6月6日
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