車谷長吉の人生相談 人生の救い (朝日文庫)

著者 :
  • 朝日新聞出版 (2012年12月7日発売)
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感想 : 49
4

相談してはいけない相手。相談しても無駄な人。っていう人がそれぞれいると思う。
車谷長吉は、絶対に相談なんかしちゃいけない奴だと私は思う。

教え子の女子生徒が好きで好きで堪らず、「情動を抑えられません。どうしたらいいのでしょうか」という40歳の高校教師の深刻な悩みに、
「破綻して、職業も名誉も家庭も失った時、はじめて人間とはなにかということが見えるのです。あなたは高校の教師だそうですが、好きになった女生徒と出来てしまえばよいのです」
と、とんでもない、不道徳極まりない解決策をけしかけている。
こんなのが毎週朝日新聞の別刷りの紙面に連載されていたんだそうな。それが一冊にまとめられたのがコレなのだが、天下の朝日新聞が呆れたもんだ、などと言うつもりは、ない。
だって、痛快ではないか。
先の高校教師への回答は、
「そうすると、はじめて人間の生とはなにかとういことが見え、この世の本当の姿が見えるのです」
と締められている。
『人生の救い』というタイトルは、逆説的なタイトルではなくて、真に「人生」と大上段に構えるだけの深みがある気がする。こういう突き抜けた説法を目の当たりにしてしまうと、凡百の人生相談などはたんなる処世上の薄っぺらな解決策の安売りに見えてしまう。

車谷長吉は、西村賢太が現れるまで我が国の私小説作家の最後の生き残りだった。田山花袋以来連綿と生き伸びてきた私小説作家という絶滅危惧種の最後の一人が、それこそ人に知られずに埋もれた存在だったのを発見し、世に最初に知らしめたのは稀代の目利き白洲正子だった。彼女は、奈良や三重あたりの山奥だとかから、ゴミ扱いされていた能面やら古磁器やらの逸品を探し当てたのと同じ手法で、天下一品の旦那、次郎のことも掘り当てている。その目利きが「私が最初にめっけたんだからね」と、車谷との対談の中で言っていた。鶴川にある旧白洲邸に残されている書斎に、車谷の『塩壺の匙』があった。これは、白洲正子が掘り当てた車谷の最初の傑作で、本棚の一冊は著者からの献本であろう。裏表紙を開いたら、贈り主の名と感謝の言葉が書いてあるはずだ。ただ、傾きかけたその本棚に手を触れることは禁じられているから、確かめることはできなかったが間違いあるまい。

そんなわけで、その人の眼を信頼している目利きが見出したというのだから読んでみるか、と読み始めたのが『塩壺の匙』だ。その毒と棘を持った私小説ぶりは衝撃だった。
ただ、残念だったのは、その「毒」と「棘」は著者の周囲と著者自身を刺す棘でもあり、自らの息の根も止めかねない毒でもあったことだ。
些細な名誉棄損で訴えられ敗訴し、幾つかの作品だけを世に出しただけで車谷は私小説作家としての筆を折った。
その後いったいどうしているのだろう。と、消息を気にしていたのだが、こんな形で「毒」を含みすぎた危ない人生相談で糊口をしのいでいたのだろうか(またしても失礼、おゆるしを)。

たしかショウペンハウエルったと思うのだが、大戦末期のナチス独裁下の知識人の在り方について、面白い箴言を残している。


 国家社会主義(ナチスのテーゼ)的であることと、知的であることと、誠実であることは鼎立しがたい(三つとも同時に成り立たせることはできない)。
つまり、
国家社会主義的で知的でもあるならば、その人は誠実ではない。
国家社会主義的で誠実でもあるならば、その人は知的ではない。
知的でなおかつ誠実であるならば、そのひとは国家社会主義的ではありえない。


 私はこの言い得て妙なロジックの「国家社会主義的」のところを「私小説作家」と言い換えてみると、車谷長吉の私小説断筆宣言の顛末に得心がいく気がする。
なまじ慶應の文学部なんかを出てしまったインテリである彼は、作中暴露してしまった秘事の当事者を傷つけてしまったことをまじめに反省してしまう。つまり知的で誠実であった彼は、私小説を書き続けることができなくて当然だったのだ。

 車谷さんの、時には実名をあげて人の人生の醜さを暴露していたような往時の小説作品の続編を私たちはもう読むことはできない。
だが、「亭主がじじいのくせに浮気しやがって」とか、「父親が女性の下着を集めていて、でも父のことは嫌いじゃなくて」とかの相談が寄せられ、回答者の車谷さんが自らの人生を引き合いに、いっそどん底に落ちてみなはれ、みたいに答える。
かつて、稀代の目利き白洲正子が見出した、類例のない「毒」の魅力を湛えた車谷長吉の文学世界は、しっかりここに命脈を保っていた。

 この一冊で紹介された「悩みのるつぼ」なる連載は、まだ続いているのだろうか。
新聞の定期購読はとっくに止めてしまった我が家だが、来週の土曜、朝日新聞朝刊は買ってみようと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 人生相談
感想投稿日 : 2013年2月3日
読了日 : 2013年2月3日
本棚登録日 : 2013年2月3日

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