- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000072847
感想・レビュー・書評
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過去の自分のしたことに思い悩みながらひっそりと生きていくことの生きづらさ。いろいろあっても愛する妻がそばにいたらいいではないかとツッコミながらようやく読了。
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2015.5.21夏目漱石の三部作の最後。親と友情を捨て、社会から出て行くことと引き換えに、地獄の業火のような愛を選んだ末路は、真っ黒な焦げと灰色の世界であり、その中でお互いが唯一の灯火であるようだった。読んでる間、まるで冬の木枯らしに吹かれてるような淋しさを感じずにはいられなかった。そして2人がそのような行為に至った時、2人とも自分の頭が確かかを疑ったこと、逃げるように社会の外れで暮らしていたのに安井と遭遇しそうになったことなど、運命はかくも残酷で残忍に悪戯するもんだなと思った。誰かに恋したとしても、様々な理由で諦めることなどよくある話、それなのに、親や友情を裏切り、社会に背かないと手に入れられないような恋をどうしてしてしまったんだろう。恋心はコントロールはできない。自分の意思の外にある力である。誰に恋するかも、運命が決めることなのかもしれない。だとしたらなぜ運命は、全てを失わないと手に入らないような恋を、そしてそれにも関わらず手放せない恋を与えたのだろうかと思う。御米の子どものことも含め、運命に翻弄された夫婦の罪と罰の物語。そして救いを求めて座禅を組んでも、悟りの門は開いてくれなかった。故に、門。
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バケツは馬尻
今の小中学生には漱石はもう古典だと聞きましたが、このごろの作品ばかりを読んでいるワタシにとっても30年ぶりの漱石は23頁まではアレレというかんじでした。
昔の日本の美しい言い回しや夫婦の有り様は心を和ませます。明治日本文学の素晴らしさを改めて想いました。
バケツは馬尻と書いていました。
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三四郎、それからに続く三部作の最終作品。
大きな門をくぐりぬけることによって救済を求める、深い罪を背負った宗助の姿は、誰しもが成りえる、人間の恐ろしい可能性である。
それを、傍観者に徹した状態で描く技量は、漱石先生ならでなのだろう。
結末の宗助の台詞は、二人の人生に永遠に暗い影が落ちていることを暗示しているようだ。 -
『それから』に続く前期三部作、最後の作品。
宗助は仕事に追われる公務員。外套を新調するのもためらうほど経済的には苦しいが、御米とは「一所になってから今日まで六年ほどの長い月日をまだ半日も気不味く暮した事はなかった」という仲の好さだ。
叔父夫婦にまつわる財産の問題、弟小六の若さからくる一途さ、大家の坂井との交流、立ちはだかる安井の存在……そして10日間の参禅。悟りは開けないまま山門をあとにする宗助だが、かろうじて小康状態を保っていく。
有名な「門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人」の場面は、さすがに覚えていた。今回は「己ももう一返小六見たようになって見たい」という述懐に注目した。
連作としてとらえる意味を再認識した。ワイド版は読みやすい。
作成日時 2008年05月18日 10:04