- Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003101070
感想・レビュー・書評
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1909年(明治42年)。
国語の教科書のイメージが先行しているせいか、文豪作品は優等生的で退屈と思われがちだが、読んでみると必ずしもそうではない。最初こそ文体が堅苦しく感じられるかもしれないが、慣れてしまえば大したことはない。というか文体に慣れてしまえば、実はいわゆる古典的名作こそ、その中身は反社会的で、病的で、自意識過剰で、ひねくれていて、だからこそ面白い、ということに気づく。むしろ、書店で平積みにされているベストセラー本の方が、文体がくだけていて読みやすいというだけで、中身は「仲間を大切にしよう」「努力することは素晴らしい」「成功こそ人生」など、教科書以上に教科書的な内容だったりする。
『それから』はというと、そういう「友情・努力・勝利」といった前向きな価値観に対し、徹底的にノーという小説である。まず、主人公・長井代助の設定が「大学を卒業しているのに定職に就いていない30男」であり、高等遊民というと聞こえがいいが要するにニートである。金がなくなれば実家にもらいに行き、親から説教されてものらりくらりとかわすだけで、世間の価値観に染まらない自分こそ上等な人間であると内心誇りに思っている。のみならず、実業家としてがつがつした生活を送り、かつ、がつがつすることこそ成功者の証と信じて疑わない父親のことを、心の貧しい気の毒な人間だと考えている。当然、そんな了見で一生やっていけるはずもなく、やがて親友の妻・三千代と道ならぬ恋におち、父親から勘当され生活費の支給が途絶えて、軽蔑していた社会に孤立無援で出ていかざるを得なくなる。
この反道徳的な小説が、明治42年の朝日新聞に連載されて人気を博していたという。今よりもはるかに同調圧力の強い時代に、よくこんな脱力系の小説が受け入れられたものだと感心する。年代的には、日露戦争の記憶も生々しく、日韓併合を目前に控えたマッチョな時代だったはずだが、光が強ければそれだけ影も濃くなるということだろうか。富国強兵が国是の時代にあって、少なくとも朝日新聞を読んでいた人々の間には、精神の均衡を保とうとする本能が無意識のうちに働いたのかもしれない。
「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟にいうと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。」
「日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。」
「こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事はできない。悉く切り詰めた教育で、そうして目の廻るほどこき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、ただ今の事より外に、何も考えてやしない。考えられないほど疲労しているんだから仕方がない。」
「日本国中どこを見渡したって、輝いている断面は一寸四方もないじゃないか。悉く暗黒だ。その間に立って僕一人が、何といったって、何をしたって、仕様がないさ。」
『それから』より100年後の私達は、代助が働かない理由を、負け犬の遠吠えだと笑いとばすことができるだろうか。ともかくも、漱石に端を発する近代以降の日本文学が、進歩思想に対する徹底的な懐疑とともに始まったという事実は、記憶しておいていい。 -
明治版三十歳ニート男の変容する姿を、前〜中盤の徹底したユルさと、後半の転げ落ちるような怒涛の展開というメリハリ効果を使って今から100年以上も前に描き切った夏目漱石の手腕は、すごいと思う。
話の筋自体は、正直なんてことはない。
親友の妻への道ならぬ恋ゆえに、金をたかっていた実家から勘当を言い渡されたニート男が、それまで馬鹿にしていた社会に出て働かざるをえなくなるまでを、かくしゃくとした文体で描いています。
三分の二くらいまでは、ストーリーが全く動かず、ニート野郎の社会に出ない言い訳みたいなものが延々と続くので、正直、何度か途中で挫折しそうになったくらい。
でも、その単調な中にも、明治後半期の事情が事細かに描いてあって、興味深い部分もあったりする。
維新の動乱に参加し、時代が改まって後はがむしゃらに努力して一財を成すことに成功し、その価値観のまま次世代にあれこれを押し付けようとする父親と、西洋化と成長の時代が一通り終わって後の景気後退期に閉塞感を抱えて生きる息子世代の埋められない世代間ギャップやら、政略結婚と自由結婚の過渡期についてだったり。
なんだか、より近い時代の、第二次世界大戦を経験した後に成長や豊かさを疑うことなく享受できた世代と、祖父母や親世代の姿を通してその飛沫だけは感じるのに、恩恵には浴せず閉塞感を感じる世代の姿に通じるような気がして、いつの世にも、世代間ギャップやら時代の波やらはあるんだなあ、と妙な関心をしてしまいました。
ニート男の主人公・代助と、その父・得の間には、二世代くらいの開きがあり、二人の間に属する世代の登場人物として、代助の年の離れた兄・誠吾、そして嫂の梅子がいるのだけど、彼らは前時代的な家父長制に疑問を持たず、社会の恩恵もまだまだ十分に受けられた層なので、代助を嫌っているわけではないのだけど、その心持ちを十分に理解できている訳ではなく、その点でも代助は最初から孤立している。
そして、そんな息苦しさから無意識に逃れるように、ニートになって社会から距離を置いていた代助が、初めて自発性を出して行き着いた先はというと、はたから見たら、破滅の道であり、それまで軽蔑していた社会へ出ざるをえないというもの。
まあ、親に依存するニートって、いつの時代も、いざって時、やっぱり立場弱いのね…。
普遍的にリアルな人間、そして社会を描き切った漱石の視点の鋭さと構成力には、感心してしまいます。
そして、読み終わってみると、『それから』という僅か4文字の味気ないくらいの響きのタイトルに漱石が込めたものの重さや奥深さを感じ取り、さらに驚かされます。
代助とその想い人で人妻である三千代を取り巻く、満ち満ちた悲壮感や、厳しさ、そして、それでも大河の一滴のように混ぜ込んだ一握りの希望が込められており、描かれなかった代助たちの未来、まさに「それから」について、想いを馳せずにはいられないのです。
時代が時代なら、番外編なり、第二部なりと銘打って、二人のその後が書かれたでしょうに、流石に明治の時代にはそんな仕組みはなかったもよう。
続きが気になってしょうがないです。
これまで、それぞれの個性と方向の違い故に、主題や文体には優劣つけ難くとも、タイトルの妙については漱石より森鴎外が勝る、と勝手に思っていたのだけれど、今回、撤回します。 -
古典的名作という事に騙されてはいけない。内容はかなり先鋭的。今現在でも充分通用する主題を描いてます。もちろん時代が時代なので、それなりの古臭さや時代錯誤的なところはありますが。
なにせ主人公の徹底したパラサイトぶりががすごい。プラス徹底したニート(高等遊民という便利な言葉はあるが)。しかも、姦通罪というおどろおどろしい法律があった時代の不倫なので、不倫に向き合う二人の深さがなんとも言えない。
現代の薄っぺらい恋愛物とは一味も二味も違う。あらためて、古典の凄さを感じた次第です。若い人にぜひんで欲しい。 -
主人公は数えで30になる青年「長井代助」。
彼は裕福な家に生まれており、実家のお金で一人暮らしをして書生を置き、読書をしたり演奏会に行くなど、働かずに自由気ままに生きています。
夏目漱石の作中でしばしば登場する高等遊民と呼ばれる人々の代表格として挙げられることが多い人物です。
代助は作中、友人の平岡の「何故働かない」という問いに「日本対西洋の関係が駄目だから働かない」と答えます。
曰く、「西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がなく碌な仕事ができない」、「悉く張り詰めた教育で目の廻るほどこき使われるから揃って神経衰弱になる」と、そして、「働くなら生活以上の働きでなくちゃ名誉にならない」とも述べています。
ただ怠けたいから働かないというわけではない、人は麺麭のみにて生くるものに非ずの精神が本書では述べられていて、高等遊民という生き方に関する考えが本作では読むことができます。
放蕩家の長井代助は過去に「平岡」と「菅沼」という友人がいた。
菅沼には「三千代」という妹がいて、代助は三千代を深く愛していた。
ある日、菅沼の母がチフスにかかり、その看病にあたっていた菅沼もチフスで、母と共に亡くなってしまう。
菅沼の父は止事無き事情により北海道で困窮しており、後に残った三千代を心配した代助は、銀行に就職した平岡に仲立ちし、二人は夫婦になる。
仕事もせず嫂に甘えて親の金で遊び歩く代助は、父親の説得も聞き入れず、財閥の令嬢との縁談を勧められるがそのつもりもなかった。
一方で三千代は結婚後に子供を亡くし、体調も崩してしまう。また、平岡は職を失い多額の借金をしていた。
自分が身を引いたことで三千代が幸せになることを固く信じてていた代助はそれが裏切られる結果となったことにショックを受ける。
物語はそんなところから開始となります。
夏目漱石の前期三部作の2作目ですが、前作の三四郎とは重ねるところはなく、誠実で一本気な三四郎がどう成長しても代助にはならないです(そう望んでいます)。
結局のところ代助は、今で言うところのニートのダメ人間で、そのくせ友人の奥さんに恋慕を抱いてしまうという、概要を書くと非常にひどい物語と言わざるを得ません。
ラストも大団円となるわけはなく、主人公は前向きなスタートをすることとなり、一つの完結ではありますが、結局いろいろな問題が未解決のままとなっていて、明るい未来が見えないというのが正直な感想です。
ただ、後半の盛り上がりはすごく良かったです。
序盤は情報も少なくて雰囲気も暗く、とっつきにくいと感じますが、後半の代助が男を見せるシーンは大変良かったです。
面白かったです。今は「門」を読んでますが、こちらも期待です。 -
「自然」でありたいと希望し、近代の論理に抗って三千代を選ぶ代助。しかし、後半の代助の心の動きは「自然」ではないように感じるところがある。柄谷行人はそれは姦通を扱ったから、無意識の発露であるからという。漱石は「拙」であっても「自然」であることを目指していたが、むしろ「自然」であるためには「拙」になってしまうのかもしれない。中世に戻りつつある現代において漱石を読む意味はこの辺りにあるのか。
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なんてお洒落なタイトルをつけるんだろう。
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当たり前だけど略奪愛に対して世間や家族はいい思いはしないのはわかっていても応援したくなる。代助のだらけ格好悪いところも嫌いになれない。人はなかなか決心できず、行動できないものだと再確認させられた。門を早く読みたいと感じた。
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著者:夏目漱石(1867-1916、新宿区、小説家)
『それから』は未読で、先日読了した『三四郎』に引き続きそのうち読もうと思っていたのですが、佐藤...
『それから』は未読で、先日読了した『三四郎』に引き続きそのうち読もうと思っていたのですが、佐藤史緒さんのレビューを読んでますます読みたくなりました!
とっても面白そうですね!
当時からすれば退廃小説という趣なのでしょうかね?(笑)
古典的名作の話はまさに仰る通りで、自分も最近は古典ものの読書がめっきり増えました。現代作品を読むにしても、百年、二百年後にも残るような、時代の課題を追究する作品や物事の本質を抉る作品に出会いたいものです。
私は『三四郎』をまだ読んでいないので、今度読もうと思ってます。あと『門』と...
私は『三四郎』をまだ読んでいないので、今度読もうと思ってます。あと『門』とで前期三部作コンプリートですね。それにしても漱石を久しぶりに読むと、「漱石先生、つくづく体育会系のノリがキライだったんだな。個人的に嫌な思い出でもあるのかな」と思えて笑えます。退廃文学の本家のフランス近代小説などに比べれば全く健全な範囲内だと思いますが、当時の真面目な日本人からみたら、ケシカラン小説だったかもしれませんね(笑)