- Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003109038
作品紹介・あらすじ
敗戦直後の没落貴族の家庭にあって、恋と革命に生きようとする娘かず子、「最後の貴婦人」の気品をたもつ母、破滅にむかって突き進む弟直治。滅びゆくものの哀しくも美しい姿を描いた『斜陽』は、昭和22年発表されるや爆発的人気を呼び、「斜陽族」という言葉さえ生み出した。同時期の短篇『おさん』を併収。
感想・レビュー・書評
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没落貴族の緩慢かつ甘美な破滅を母、かず子、直治、上原の四人の人生を通して描いた作品。かず子の激情(「私の胸の虹は、炎の橋です。」こんなにも激しい恋心があるだろうか)にも上原の刹那的な生き方にも心惹かれる部分はあるが一番共感できたのは直治。
悩みがないのが唯一の悩みなんていう歌詞がどっかにあった気がするけど突き詰めていけば直治のように素面では生きていけなくなって、アヘンとかに手を出してしまうんだろう。いつもクラクラとめまいをして、凶暴になって民衆と共に輪に入れて欲しいけど直治が纏う貴族の雰囲気を民衆は好まない。かといって上流社会に今更戻るのも願い下げ。快楽のインポテンツに成り果てた自分が最後に選んだのは自死の自由。クスリや酒で身をやつして死んでいくことすら自分に叶わぬと知った直治が自死を選んだことこそ貴族のプライドだろう。
粗暴な直治がただ一人母だけは悲しませぬと誓って、自殺を思いとどまっていたのがあまりにも哀しい。 -
2016.2.16
敗戦直後の没落貴族の家庭にあって、恋と革命に生きようとする娘かず子、「最後の貴婦人」の気品をたもつ母、破滅にむかって突き進む思うと直治。滅びゆくものの哀しくも美しい姿を描いた『斜陽』は、昭和22年発表されるや爆発的人気を呼び、「斜陽族」という言葉さえ生み出した。同時期の短編『おさん』を併収。(表紙より)
斜陽、読了。太宰の作品は、走れメロスと人間失格が好きで、他はあまり読んだことがなかったが、改めて、太宰好きだなーと思えた作品。最初、かず子がボヤを起こした時の近所さんからの苦情?で、あんたらは2人してままごとしてるみたいな危なっかしい生活してるから、なんて愚痴愚痴言われてたけど、まさにそんな感じで、ヒヤヒヤさせられるような印象を受けた。本当に子供2人、分別だけ大人になって感受性や神経は子供のままの2人というか。そして直治が帰り、母は死に、かず子は戦闘開始である。直治の夕顔日誌は、中々ガツンとくるものがあった。「学問とは、虚栄の別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である」(p.68)なんてのはもう、そうだよなぁ、そうなのかなぁ。確かにファウストも、散々英知を手に入れた末に、メフィストに、悪魔に魂を売って、盲目のまま墓穴を掘られてることも知らず、勘違いのまま死んだのだ。賢者の不幸の代わりに、愚者の幸福を手に入れた。我々は人間でなくなろうとする、人間であることは辛いからだ、しかし人間でないものにもなりきれず、また人間にもなりきれない。欲望によっては道徳に怯え、道徳によっては欲望に怯えるからである。そう考えたらデカダンも、直治も、人間か超人かの両極において、しっかり人間を生きたのではないだろうかとも思う。かず子は、もうこの物語の前半から、自分の生が腐っていく、穏やかな平和と幸福という虚偽と虚無に蝕まれていくことを感じていた。そして、本当の生を望み、「人間は恋と革命のために生れて来たのだ」(p.118)と結論づける。ロマンティックであり、破滅的である。恋のために、旧道徳を、良心を叩き折り、新たな価値観を、道徳を創る、それが革命だろう。結局、生きたかったのだ、2人とも。真に生きることとは、という問いから目を離せなかったのだと思う。だからこそ彼らの生は一見退廃的で破滅的で、それでいて迫るものを感じるし、美しいと感じるのだろう。私には無理である。私はほどよく苦しんでは欲望に怯えて道徳に逃げ、また虚しさを感じては道徳に怯えて欲望に逃げる人間である。どっちつかずであり、超人にも、デカダンにもなれない。強きものは、極を目指せるのだろう。弱きものは、半端にしか生きれない。真に生きるとは、と、ずっと考えてきたが、やはり放蕩というのはひとつの正解なのか。苦悩の放蕩が、人間の真の生なのか。でもそれって、あまりにも救いがなくないだろうか。また貴族を主人公としていて、現代日本において貴族なんてのはいないわけだけれども、生まれからかくあるべしを求められ、しかしその理想にたどり着けず、べき論が本質論に代わり、私はかくあるべきが、私はかくあるはずだ、に変わってしまった自己愛人間はこのご時世にもごまんと居る。自己愛人間。太宰の作品の歪みはここに始まっている気がするのは、彼自身がそうだったからだろうか。改めて、生きることを考えさせられる。ゆるい幸せは虚無であり、放蕩の快楽は地獄であり、道徳と欲望に引き裂かれ、壊しては作り壊しては作り、あるものは恋を、あるものは承認を求める。単なる満足では満たせない人間の欲望の深さに問題があるのだろうか。最近、酒に溺れるにも才能がいると思った。最近、哲学や道徳や思想があまり私を救ってくれないことを知った。堕落する強さも私にはなく、天上のイデアを目指すことにも満足できないのならば、私はどこを目指して生きればいいのだろうか。正しく生きるものには幸も不幸も薄味で、放蕩に生きるものには幸も不幸も濃厚なのか。濃厚な幸と、薄味の不幸を得るなんていう都合のいい人生は与えられないのか。そのくせして薄味の幸と濃厚な不幸が与えられる人生は存在する不条理は何か。いやそもそも生きることは不条理で、因果応報は人間の理想で、それでも生きるしかないのが人生か。または欲望と道徳に一生引き裂かれ続けろ、これが人間の宿命なのだろうか。人生観を揺すぶられた、私の中の革命の一冊。
2016.2.16
おさん読了。短かったしあっけなかったなー。語られていることは斜陽にも共通のものが多いというか。没落と、革命と、欲深き人と、正しい人と。夫の、なぜ正しい人はまっとうに生きていけるのか、というのは確かに思うところである。鈍感は幸福である。また革命に対しての解釈もより深まった。思えば私の人生も革命だった。今持っているものに満足できず、もっと何か、もっと私を幸福にしてくれる何かがあるはずだと、既存のものを破壊し、新しいものを手に入れようとし、しかし結局何も手に入らず、残ったのは戻れない過去と、何もない今と、それが革命ではないだろうか。得ようとして失うばかり、幸せを求めて不幸ばかり、そんな人が、そんな欲深い人が、破滅への道を歩むのだろう。鈍感は、欲浅きことは、幸福である。先日、沢木耕太郎の「無名」を読んだが、あの父のような生き方こそやはり幸福なのか。大人の生き方はやはり幸福で、子どもの青春は不幸か。それにも、それにもかかわらず、青春に美しさを、懐かしさを、甘苦しさを感じるのは何故か。心の平静を捨て忘我の快楽を夢見るのは何故か。私がまだ子供だからだろうか。斜陽と合わせて、生きることにつまづいた時に、これでいいのかと思ったときに、また読みたい。 -
掲題作「斜陽」読みました。戦後の頽廃的なストーリー、ザ・太宰って感じ。一見まともに見えてどんどん堕ちていく(その自覚がナナメ45度)貴族の娘の姿が、ちょっとぞくっとする。弟の独白から結末に向かうラストスパートは、現代の文学的にもかっこいい!やはり太宰は時代の先を行ってたんだなあ。
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純文学が面白いと感じるのは、戦後の激動の社会という思想の分岐点に立った、自意識を際限なく言語化できる作家たちが、自らの苦悩と向き合ってるのが伝わるからだと思った。滅びる側か、徹底的な革命かに揺れ動く心情が、貴族の哀しい姿と百姓出身の上原との対比に描かれていることに(解説を読んで)気づいて納得した。病気で衰弱していく様子が心痛かった。
かず子は恋に恋していて子供にこだわるのは自分たちの状況への当て付けだと思ってたけど、
「『女がよい子を生む』ということは、どんな時代・社会にかかわらず、戦争や政治や貿易などといったあらゆる人為的なもの、幻想的なものの底にある“自然”である。彼女はむしろそこから「意味」に憑かれた世界を見返している」という解説を読んで、やっとかず子のどこか諦めかけた自嘲的な雰囲気の意味を理解した。
まだ解説読んでやっと理解できること多いな。。
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斜陽:1947年(昭和22年)。
xx年ぶりに再読して吃驚。こんなに面白い話だった? 文章キレイ…。”もうこのひとから離れまい”なんて陳腐な科白も、この文脈で使われると何故かゾクッとする。 -
「しくじった、惚れちゃった」が太宰の本の中で一番好きな一言で、それを見るためだけに何周もしてしまう。話の流れもスムーズで読みやすく、太宰らしい内容で当時流行ったのがとても理解出来る。