- Amazon.co.jp ・本 (335ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003313817
作品紹介・あらすじ
数千年来の常民の習慣・俗信・伝説には必ずや深い人間的意味があるはずである。それが記録・攻究されて来なかったのは不当ではないか。柳田の学問的出発点はここにあった。陸中遠野郷に伝わる口碑を簡古かつ気品ある文章で書きとめた「遠野物語」、併収の「山の人生」は、そうした柳田学の展開を画する記念碑的労作である。
感想・レビュー・書評
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1910年の『遠野物語』と1926年の『山の人生』を1冊にしたもの。
桑原武夫が解説で指摘しているように、『遠野物語』はあくまでも「今日」や「近頃」の話として語られているのが、興味を惹かれる。実際、「西洋人」の風習や1896年の三陸大津波に関する話も収録されているし、マッチ工場も登場する。家産が傾く話も目立つが、これも明治期のことのように思われる。伝説や民話集としてだけではなく、幕末~明治期の急激な社会変動のなかでの人びとの記憶としても読める作品なのだろうと感じた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
遠野物語:1910年(明治43年)。
日本民俗学の開拓者・柳田国男の代表作。陸中遠野郷(岩手県の遠野盆地近辺)に口承で伝わる民話を柳田が編纂したもので、本邦民俗学の発展に多大な貢献をしたとされる名著である。民間伝承を、その原型を尊重し余計な装飾を排して聞いたままに記したとされるが、簡素ながらも気品のある美しい文語体で綴られており、日本民俗学の記念碑としてのみならず、その文学性も高く評価されている。
土の匂いのする物語だ、と思った。混沌が、混沌のまま残されている。のどかな民話集かと思って読むと、結構な衝撃を受けるだろう。座敷童、天狗、マヨイガなどノスタルジックな怪異譚も多いが、神隠しの話などは超常現象ではなく何者かによる拉致監禁ではないかと疑われる節もあるし、息子による母殺しという明らかな刑事事件も混在しているし、お伽話として片付けるにはあまりに生々しく泥臭い。閉鎖された寒村の心の闇をのぞいてしまった気がして、ちょっと背筋が寒くなった。「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」という序文の言葉は、あながち誇張でもないようである。
しかし、慣れてしまうと妙に心惹かれるものがある。お酒に例えるならば、泉鏡花などに代表される純文学としての怪異譚は大吟醸で、こちらは地元の民家で作られるドブロクという感じだろうか。最初は飲みにくいが、いったん慣れると癖になる。これが民俗学という学問の「味」なのかもしれない。好き嫌いが分かれると思うが、私はこの味が嫌いではない。それを発見できたのが本書を読んでのささやかな収穫だった。折をみて、この分野のほかの本も読んでみたいと思う。-
「地元の民家で作られるドブロク」
上手い表現ですね。
学生の時、「宮澤賢治」「奥の細道」「遠野物語」を巡る旅を考えたのですが、纏まらずに断念...「地元の民家で作られるドブロク」
上手い表現ですね。
学生の時、「宮澤賢治」「奥の細道」「遠野物語」を巡る旅を考えたのですが、纏まらずに断念。今思えば欲張り過ぎずに、どれか一つにしておけば良かった。。。2012/04/12 -
文学を巡る旅は面白そうですね。確かに、学生で独身のうちしかできない贅沢な旅ですね。
柳田国男の他の著作も読みたいですが、柳田とくれば折口信...文学を巡る旅は面白そうですね。確かに、学生で独身のうちしかできない贅沢な旅ですね。
柳田国男の他の著作も読みたいですが、柳田とくれば折口信夫も読みたくなります。また、宮本常市の「忘れられた日本人]という名著もあるようなので、そちらも読んでみたいです。2012/04/21 -
「柳田とくれば折口信夫も読みたくなります」
折口(チョッと難しい)、柳田、宮本は、文字に残されるような偉いコトをした訳じゃない私達庶民を書...「柳田とくれば折口信夫も読みたくなります」
折口(チョッと難しい)、柳田、宮本は、文字に残されるような偉いコトをした訳じゃない私達庶民を書いていて素晴しいですよね。。。
久々に「死者の書」読みたくなっている。。。2014/04/07
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100分de名著で「遠野物語」を読んでいる。その第二回について、こちらに書く。
三人の女神が統べる遠野三山(早池峰山、石上山、六角牛山)は、女神の嫉妬を恐れて女性は登らない。反対に男性の成人儀礼の山となっている。
面白いのは、他の山は男の神様が統べるようになっている。混沌とした神様の体系。ギリシャの神々ともまた、違う。恐ろしい部分と豊かな部分を見せる。まさに自然そのもの。
里や家の中に神様がいる。
オシラサマ、座敷童。
家に福をもたらす神様。
実際にあった豪農の盛衰を語る。孫左衛門の家のことが繰り返し語られる。
柳田は神様は本当にいたと思っていたか。
「不思議であることをそのまま認めていた」
九六 遠野の町に芳公馬鹿とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾い、これを捻りてつくづくと見つめまたはこれを嗅ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ち留り、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事を免れたる家は一軒もなしといえり。
知的障害の人々にも人を超えた能力を持つ人がいる。経済原理のの中の合理主義ではなく、居場所をもたせる。この白痴の男の嗅覚は非常に高かったのか、それともたまたまいつもの奇行が火事の家に当たり、それに尾ひれがついたのか。それはどうでもいい。ともかく、それが人々に語り継がれて、「許されている」しかも本人が去年まで生きてる、ということに、日本人の「人智を超えたもの」との付き合い方がある。
しかも、この男の能力は火事を防げなかった。人間の能力を超えたものは防げない。自然災害に対する日本人の諦めの良さはここから来ているだろう。
自然に対する態度は、それでいいと思う。私だってミサイル程度で殺されるゴジラは見たくない。神々とつながる人々はどうか。白痴の男は、共同体の中では人智を超えた者になった。共同体の中の居場所を与えていることは素晴らしい。しかし彼は自然そのものではない。白痴の人間は、一方では毎日家族が世話をしていた人間だっただろう。しかし、遠野物語の中では自然そのもののように扱われている気がする。神々と人々との付き合い方ではなく、人々と人々との付き合い方はどうするか、その答えを求めるのは、遠野物語の任務ではないのかもしれない。
明治から昭和にかけて、日本は史上稀に見る変革期を迎えた。政治体制の変化だけではなく、生活、民俗の変化が著しかった。その中で失われたものを大切にし、そのエッセンスはもしかしたら、現代に脈々と受け継がれているかもしれない。いや、受け継がれているのである。だからこそ、そこから得るものを探して行きたい。
ずっと昔、常民文化研究会の指導教官だった高桑守史先生との「論争」を、今しきりに思い出している。
(2014.6.17記す) -
河童とか座敷童のでてくる遠野物語読んでみたかったのですが早池峰山とかは一度登ってみたいとおもいました。
山の人生の方は神隠しとか山の神に嫁入り、山姥とか奇怪な事例と考察があっが平地に暮らす人々とは違う文化や暮らしぶりが窺われた。サンカのことにも少し触れていましたが流浪の民が日本にもいたことにロマンを感じました。
けれども飽きてしまい最後まで読めませんでした。 -
前段の「遠野物語」はいつか読んだ。でも後段の「山の人生」と合わせて読むことで、改めて感心せざるを得ません。
興味ポイントは2つあります。
ひとつは、山に、実際に人がいたという事実。古くに渡来民族に追いやられたと思われる日本の先住民族ではないかという指摘です。彼らは顔赤く、背が高く、目が爛々と光る異人であった。
かれらが、里人とある時には接触したり小ぜりあいを起こしたり同化したりしつつ、やがて「山姥」「河童」「デェラボッチ」「天狗」の伝説に昇華していったと推論するわけです。
「山の人生」というタイトルはよくつけたもので、山にあった異形のものでも、それはかつて「普通の人間」であったという示唆ですね。
もうひとつは、この書が書かれた大正から昭和にかけての時代…まだ神隠しやらが「実際に」起こっていた同時代に、伝承や民間の文書をたんねんに冷静に読み解くことで、その裏に潜む「事実」をあぶりだそうという、柳田国男の先見性というか、科学の萌芽への驚きです。
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ところでちょっと突飛な連想ですが、次のようなことを思う。
ときは現代。
むかしのような迷信はなくなったろうか。実は今もあるんじゃないか。
ある種の都市伝説とか、スピリチュアル系・宗教系のもろもろとか、あるいはチェーンメールとか、「祟り」のような不思議譚や恐怖譚は今も事欠きませんやね。
そういう怪異系に限らず、インターネット上でささやかれる数多の情報、データ、ウワサは本当にそれと信じていいものかどうか。
山の魑魅魍魎と、情報の海の魑魅魍魎…人間は大して進歩していないんじゃないかしら。
それらを読み解くリテラシーというものを、当時の柳田国男以上に、現代人こそ持つべきなのかも知れません。-
考察が面白かったです(^^)
人類の誕生した20万年前から、ヒトなんて大して変わらないだろうと私も思います。
いくら科学技術が発展しようと、...考察が面白かったです(^^)
人類の誕生した20万年前から、ヒトなんて大して変わらないだろうと私も思います。
いくら科学技術が発展しようと、法が整おうと、残虐で動物的で、不可思議なことに惹かれる性質は変わらないですよね。
妖怪や怪奇現象は、姿形を変えながら今もかわらず存在していると思います。
長文失礼いたしました。2022/02/04 -
2022/02/19
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我々が空想で描いて見る世界よりも、 隠れた現実の方が遥かに物深い。柳田国男『遠野とおの物語』1910
諷刺の笑いというのは淋しいもので、それの出しゃばる時世はきっと明朗でないのだが、 また一方に牽制するところがあって、我がおろか(愚か)を棚へ上げている者を自粛せしめる。柳田国男『不幸なる芸術』
魂になってもなお、生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人である故か、私には至極楽しく感じられる。『魂の行くへ』
仏教が新しい考えを日本にもたらしたというより、日本固有のものが仏教に触れて変質していった。柳田国男
まれびと。海のかなた、別世界から村にやってきて人々に恵みを与えて去っていく。折口おりくち信夫しのぶ『まれびと(稀人)の歴史』1929
「しぬ」の漢字は「萎ぬ」。生気が無くしなしなになること。その逆は活く(いく)。折口信夫
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○付喪神つくもがみ。道具は長い年月が経つと精霊が宿る。
○道祖神どうそしん。外から悪いものが村に入ってこないよう守る。 -
ごく短い物語ばかりたんたんと続くのだけれど、読み進むうちに不可思議な酩酊感に襲われる。文語のリズムが心地よい。京極夏彦のリミックス版と平行して朗読してみたら面白いかもしれない。例えば宮沢賢治との関連を読み解きながら。
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前々から読んでみようと思っていて、長らく手を付けてなかった。
民俗学はキライではないけれど。
今回読了に至ったのは、
此度、父親の故郷である岩手県釜石市に父母が墓参りついでに観光で遠野迄足を伸ばすとのことで、急遽読んでみた次第である。
遠野物語を読んでいて、佐々木姓がふんだんに登場したとき、岩手って、本当に佐々木姓が多いんだなと今更ながら思った。父は婿養子だが、婿養子になる前は佐々木姓である。
繋がりがもしあるのであれば、辿るのも面白そうだと思うが、父の実家は既にない。おそらく家系図などもないだろう。歴史的背景を調べられないのは非常に残念だ。-
「おそらく家系図などもないだろう。」
戸籍(除籍)謄本を取り寄せて、調べると言う方法がありますが、、、役所って協力的かどうかは判りません。。...「おそらく家系図などもないだろう。」
戸籍(除籍)謄本を取り寄せて、調べると言う方法がありますが、、、役所って協力的かどうかは判りません。。。2013/05/07
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「願わくばこれを借りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ」
近代化への憂いと山人文化への期待が、序文のこの二文から強く感じられる。リズムもよくてとてもかっこいい!
実際読んだのは青空文庫の序文だけで概要や時代背景は別の本や動画を参考にした。
メモ代わりに投稿させてもらう
結局山人文化の思想は崩れることとなったが、遠野で怪奇的な体験が生まれ、伝わり、広まったことは「現在の事実」だった。
今もなお文化を継承したいという想いから遠野市で遠野物語が語られていることは、事実である。
西洋文明が中心の現代でも、実証できない主観的なものは文明の発展に役立たずに思われてしまうがそうではないのだ。
大切なものは合理性も客観性もないところにある。どんなに主観的であり得なそうな現象や想いにも、今を読み解くキーがある。
人の想いだってほとんど主観的で自分から見れば他人は理解し得ないことばかりだが、他人を意味が分からないと撥ね退けることをせず、その人の主観に寄り添う生き方をしていきたい。
世界は単純なものではなく、神秘的な偶然の出会いが常に作用し続けている。合理性よりも直観を大切に生きていきたい。