- Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003330814
作品紹介・あらすじ
従来の仏教を、出家者中心、自利中心と批判、在家者を重視し、利他中心の立場をとろうとする、紀元前後のインドで起った仏教革新運動を大乗仏教という。この大乗仏教の根本教義を理論と実践の両面から手際よく要約した本書(5、6世紀頃成立)は、中国・日本の仏教者に愛読され、大きな影響を与えてきた。改版にあたり新たに現代語訳を付す。
感想・レビュー・書評
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開始:2023/10/3
終了:2023/10/10
感想
一切は心が作り出している。そこに主観もなく客観も存在しない。それはどこか空恐ろしい。だけれども。全てから離れることで永遠の安楽を得る。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
①現代語訳で読んでいる。
心の真実のあり方(真如)は、言語では表せず、心に思い浮かべることもできない。この「思い浮かべることもできない」というのがおもしろい。思いうかべられる対象もないということを「うけいれる」と言う。これを「悟った」、というのだ。これでわりと「あっあのことね」と分かってしまうところがある。
つづいて、その言語では表せないことを表してみよう、と来る。これが超論理的で抜群におもしろい。「真如の本性は有るとも、無いとも言えず、有ることも無いとも、無いのでもないとも言えず、有ってかつ無いとも言えない」。有るとも言えず、無いとも言えず、有ることも無いとも言えない、までなら普通だが、「無いのでもないと言えず、有ってかつ無いとも言えない」とまで言われると、この「無い」という否定する心の作用がストップする感覚をおぼえる。
これを日常の言葉に落とし込めると。「あれじゃない、これじゃない、少しはわすれて」ということになるだろう。ブルーハーツの歌詞である。「ああしなきゃとかこうしなきゃとかもううんざりだよ」ということになるだろう。どちらも真島昌利の歌詞である。
いずれにしても、思考がストップして、感覚に研ぎ澄ますようになる。これを読んだあと、川沿いを歩いていると、風景がクリアに見えるようだった。「観」の感覚。「考えるとは目の病気だ」とフェルナンドペソアが言っていたのを思い出す。
とにかく、こんなすごい本があったのかと驚く。とはいえ、瞑想を実際にしないと読んでもわからないなあ、とも思う。概要書ではなく、実用書のたぐいなのだ。
古代ギリシャのパルメニデスの「存在は存在する、それゆえに、無である。」の自己同一についてとか、ヘラクレイトスの「同じ川にわれわれは入っていくのであり、入っていかないのである」の矛盾と重ねてみても、「無いのでもないと言えず、有ってかつ無いとも言えない」というのは、すさまじい。これを「空」と言う。