- Amazon.co.jp ・本 (122ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003332726
感想・レビュー・書評
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「尼僧の告白―テーリーガーター」中村元訳、岩波文庫、1982.04.16
121p ¥200 (2021.09.30読了)(2016.12.18購入)(1983.04.10/2刷)
【目次】
序の詩句
二つずつの詩句の集成
三つずつの詩句の集成
四つずつの詩句の集成
五つずつの詩句の集成
六つずつの詩句の集成
七つずつの詩句の集成
八つの詩句の集成
九つの詩句の集成
十一の詩句の集成
十二の詩句の集成
十六の詩句の集成
二十ずつの詩句の集成
三十の詩句の集成
四十の詩句の集成
詩句の大いなる集成
訳注
あとがき
(アマゾンより)
『仏弟子の告白』『尼僧の告白』とも、生活・信仰を記録したことに違いはない。だが、尼僧たちは「二本の指ほどわずかな智慧しかない」とさげすまれた女であった。それ故に、愛憎に苦しみ、醜老・孤独にさいなまれたあげく、ブッタに帰依し真摯な修行によって解脱しえた喜びはいっそう大きかった。安住の心境が切々と伝わる詩句集。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
築地本願寺ブックセンターで『仏弟子の告白―テーラガーター』と合わせて購入。同時進行で読み進めていましたが、俄然こちらの方が内容から言っても私の関心から言っても面白い内容だったので一気に読み終わってしまいました。本の厚さから言ってもこちらの方が薄いですし。
仏教を学んでいてもなかなか窺い知ることの少ない、原始仏教教団における「尼僧」自身の信仰や生活について知ることが出来る貴重な記録です。
・最初の尼僧マハーパジャーパティー(お釈迦様の義母)
・「いまだかつて一人も死人を出したことのない家から、芥子の粒をもらってきなさい」とお釈迦様に教え諭されたエピソードで知られるキサー・ゴータミー
なんかが登場する尼僧としては有名でしょうか。
正直『テーラガーター』よりも色々な意味で学びが多い一冊で、もっと一般に読まれるようになって欲しいと切に願わずにはおれません。
『テーリーガーター』に描かれている尼僧の確固たる信仰の目覚めは、実に男性僧侶のそれと何一つ区別の必要がないほどです。ブッダも登場しますが、決して「女性嫌い」と見られてきたようなブッダはそこになく、むしろ女性に対しても平等な目線で接し、彼女の篤信を素直に認め、褒め讃えるブッダがいるのです(『テーリーガーター』三三七詩、p.70)。また、この書物には「女性は一度男性に生まれ変わって、それから仏になる」といった教説や教団内で女性が差別的待遇を受けていたということは一切見られません。むしろ、教えの飲み込みの早さからいっても、修行に対する真剣さからいっても、男性と全く対等と言って良いのではないかと思われます。読めば読むほど、まさに「あとがき」で引用されている、
「インドには驚くべきことがある。そこには女性の哲学者たち(philosophoi)がいて、男性の哲学者たちに伍して、難解なことを堂々と議論している!」(p.120)
というメガステネースの驚きを私自身も驚きとして感じられてきます。
その他にも、
・尼僧には2年間の「見習い」期間があること(『テーリーガーター』第二詩、p.7およびp.99の訳注)
・自身の「老い」を見つめることで、あるいは肉体を不浄と見なすことで、女性特有の肉体の官能美のはかなさを想い、世俗の欲望から離れようとしたこと
・今で言う「バツ三」だったり「風俗嬢」だったり「未亡人」だったり、男性との関係や家庭関係で大変な苦労したりつらい思いをしたりした女性がブッダに救いを求めて出家して尼僧になるケースが多いこと
等、尼僧の信仰や生活について興味深い発見が沢山ありました。
とにかく、『テーリーガーター』を読めば、お釈迦様の時代でも女性ゆえに苦労することって変わらない(男性とのトラブルとか特にそう)し、だからこそ、苦悩を根本から乗り越えようとする仏教はその当初から女性たちを救う教えでもあったことが、ひしひしと伝わってきます。少なくとも、そういう豊かな仏教がある時から女人禁制・男性中心主義の仏教に変質してしまったのは、お釈迦様本人の責任ではなく、むしろお釈迦様よりはるか後の教団が犯した過ちであったということは、言えそうな気がしています。
最後に、私がとても気に入っている詩句を紹介したいと思います。
「理解し難くて、仙人たちのみが体得し得る境地は、二本の指ほどの〔僅かな〕智慧しかない女人がそれを体得することはできない」
これは"悪魔"からソーマー尼に放たれた差別的な罵倒ですが、これに対してソーマー尼はキッパリこう答えています。
「心がよく安定し、知慧が現に生じているとき、正しく真理を観察する者にとって、女人であることが、どうして妨げになろうか。
快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、〔無明の〕闇黒の塊りは、破り砕かれた。悪魔よ。このように知れ、――そなたは打ち敗かされたのだ。滅ぼす者よ。」(『テーリーガーター』第六〇-六三詩、p.20-21) -
いろいろな感情を感じれてとてもよかった。それぞれの時代には、それぞれの苦しみがあるのだろう。しかし、表面的には互いに、その苦しみは違っていても、根本のところでは、確かな繋がりのようなものを感じる。人間の苦しみというのは、何千年も変わらないものかと感嘆してしまう。しかし、その人間の苦しみが根本的に変わらないからこそ、信仰の力は今でも生き残り続けるのだろう。それは、歴史という一つの繋がりの中で、その微細な差異を強調するような言及をすることが、いかに無意味であるかということを思い知らされる。みやすけが思うに、歴史を学ぶということは、その差異を学ぶのではなくて、いつの世も同じという事によって、自分の苦しみや、悲しみなどの存在を大きな所から客観視するというのが、一つの見方ではないか。
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テーラーガーターの女性版。
元々は同じ本だったのを分離させたらしい。
こちらは「夫に尽くしたのに愛されなかった」
「かつては美しかった身体が年と共に醜くなった」
など女性ならではの苦悩が綴られており、
テーラーガーターより読みごたえがあった。 -
◆4、ティッサー(尼)よ。学ぶべきことを学べ。適当な時機が汝のそばを通り過ごすことのないように。一切のくびき(束縛)から解き放されて、汚れ無き者として、この世で日を送れ。P9
◆6、ディーライ(尼)よ。もろもろの想いの静止である楽しき止滅を体得せよ。無上の安穏である安らぎを得よ。P9
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