失われた時を求めて(13)――見出された時I (岩波文庫 (全14巻))

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (656ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003751220

作品紹介・あらすじ

懐かしのタンソンヴィル再訪が明かす、幼年時代の秘密。数年後、第一次大戦さなかのパリでも、時間は、容赦なく人びとと社会とを変貌させる。新興サロンの台頭、サン=ルーの出征、「破廉恥の殿堂」での一夜……。過去と現在、夢と現実が乖離し混淆するなかで、それを見つめる「私」に、文学についてのある啓示が訪れる。(全14冊)

感想・レビュー・書評

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  • 「そう、われわれはディレッタンティスムに憂き身をやつしていた」

    「死よりも先に真実に出会った人たちは幸いなるかな!」

    "最初は無関係に思われた想い出の縦糸のあいだに歳月の軽快な杼が横糸を織りこんでゆく"。
    戦争とともにうつりゆくひとびとの心情や流行。時代の奔流のただなかで、目まぐるしくながれてゆく彼らの生活を眺めていた。新聞(SNS)に踊らされる市民たちはいまもかわらない。戦禍でも催されるヴェルデュラン夫人のサロン。戦争におけるシャルリュス氏の見解と秘めていた狂気。
    壮麗な月光がそそぐ夜の路地。異国の兵士たち。暗闇でひかりを纏う男娼館。爆弾のふりそそぐ業火のなか、快楽にふけり、身売りをする善良な兵士たち。夜な夜なダンスパーティーをもよおし、ひとびとはかわらない生活をしんじていた。なんと退廃的な美しさだろうか。日常となった貧窮と恐怖と荒廃のなかで、美しい灯火がまたたいていた。
    過ぎ去った歳月や戦争で、「私」のなかの詩人は死んだのではなく、ただ、そのときを待って眠っていたのだとおもう。そうして「私」は少年時代をかいま見ることのできる、記憶の最深部へと旅をする。描いていた理想(夢)と突きつけられた現実とのあわいで、じぶんじしんの能力と折り合いをつけてゆく、そんな人生の真理と憂いが閉ざされた扉をたたく。

    幼少期に慣れ親しんだ風景がすこしの悲哀をつれてくるのはなぜだろう。目のまえの風景のなかにあった過去の幻影を眺め、哀しみの残滓がわたしにふれてくるけれど、ときどき吹きぬける歓喜の風を、胸いっぱいにすいこむ。それは、いつかの想いがどこかで閉じ込められた瓶のふたが、開いた瞬間なのかもしれない。まるでアロマオイルみたいに。そう考えると(「私」の思索を読むと)、アロマオイル精製時、幼少期にえる感覚が、さきの人生の豊かさのためにいかに大切なのか、人の感性を形づくるすべてがその幼少期の体験に含まれているようにおもった。その歓び(刺激)によって「私」は生きることに強い意欲をいだくようになったのだから。失われた「時」を見出すことが幸福の湧く源であり、そこにあらたにうまれた美しい想念が満ちてゆく。その源である泉(わたしたちに失われた時を見出させてくれるもの)のひとつを創造するのが、芸術家なのかもしれない。
    事物に宿る記憶と当時の想念。わたしの本棚の本たちの背表紙にもたくさんの記憶がやどっているな、と想い出された。「私」が大切な記憶を織りこんだ本を頻繁に眺めたくない気持ちは、わたしがだいすきになった映画や本を(もう二度とといったら大袈裟だけれど)あまりもうみたくないという感覚に、言葉をあたえてもらったようにおもった。映画をこれほどまでに愛する以前から(最近はほとんど観れていないけれど)本に虜になっていた幼少期のことを思い出し、"映画を観るように本を読んでいる"のだとおもっていたけれど実は、"本を読むように映画を観ていた"のかもしれないと気づかされみたい。
    「映画的ヴィジョンは真実だけを捉えようとしてなおのこと真実から遠ざかる」とプルーストはいっているけれど、必ずしもそうではないとおもうから。"(こうした)感覚と回想とのある種の関係" は芸術的映像によっても呼び覚まされることも可能だ、なんて生意気にもおもうのでした。当時はそんな映画(映像)はなかっただろうし。
    「この不毛な愛好家たちは、コンサートからコンサートへと通いつめて一生を送り、髪の毛がしろくなるころには気むずかしい欲求不満の男となるほかなく、豊かな老後とは無縁の、いわば芸術の独身者になる。」この皮肉は傑作。「実際この愛好家たちは、芸術において真に栄養となるものを消化吸収しないから、言わば過食症に悩まされてつねに芸術的歓喜を必要とし、けっして満足することがない。」ですって。いるいる(わたしだって)。なんて可笑しくってすき。
    "ほんとうに存在したものがわれわれに知られぬまま横たわる深淵への回帰"である 芸術(芸術家が取り出してくれた真実) に、日々すくわれている。それがある種、幻想の破棄であるのに、なんだか矛盾しているようだけれど、日々世界が放つ幻惑に、わたしは騙されていたくないのかもしれない。というより、
    「肉体にとって健康にいいのは、幸福だけだからである。しかし精神の力を強化してくれるのは、悲嘆である。」 哀しみをこころと身体できちんと知覚してわたしは、強く、優しく、ありたいだけなのかもしれない。



    「アルベルチーヌへの恋心には、なんと浩大な海の広がりが含まれていたことだろう!」

    「私はひとりひとりの人間を形づくる数知れない低俗な面を覚えていた・・・・」

    「人間の価値を評価する能力に欠ける連中ほど、そのランクづけをするのに流行の尺度を採用する」

    「嘘がつけず、ドイツに小麦や牛乳がはいるのを妨げている、この非の打ちどころのないイギリスなるものが、なんとなく名誉を重んじる人や名だたる介添人や決闘の審判者のごとき国家に見えるのにたいして、ドストエフスキーのある種の登場人物のように欠陥を備えた破廉恥漢のほうが優れている場合があることも承知していた。」

    「そんなふうに戦争にまつわる人間や事物について新聞の報じることによってのみ判断をくだしている世間の人が、自分自身で判断をくだしていると想いこんでいることですな。」

    「これら人間の乗る流れ星がわれわれに感じさせた最大の美的印象は、ふだんめったに見上げることのない夜空をじっくり眺めさせた点にあるのかもしれない。」

    「わらわれが愛する人たちのなかにはある種の夢が内在していて、わらわれはかならずしもそうと見分けられるわけではないけれど、その夢を追い求めずにはいられない。」

    「これまでの人生において、現実があれほど何度も私を失望させたのは、私が現実を知覚したとき、美を享受しうる唯一の器官である私の想像力が、人は不在なものしか想像できないという避けがたい法則ゆえに、現実にたいしては働かなかったからである。」

    「このうえなく美しい想念は、まるで一度も耳にしたのとがなくても心にとり憑き、耳を澄まして書きとろうと努める音楽の旋律のようなものである。」

    「芸術家はいかなるときも自分の本能の声に耳を傾けるべきで、そうしてこそ芸術はこのうえなく現実的なものとなり、人生のこのうえなく厳格な学校となり、真に最後の審判となるのだ。」

    「かくしてどれほど多くの人が、芸術の独身者として、自分の印象からなにひとつとり出さないまま、役にも立たず、満足することもなく、年老いていくことだろう!」

    「芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。」

    「真の書物は、真昼の光とおしゃべりから生まれるのではなく、暗闇と沈黙から生まれるものでなくてはならない。」

    「自分の奥底にこうした神秘的真実がからわれなくなった作家たちは、えてしてある年齢をすぎると、しだいに力を増してきた自分の知性にのみ頼ってものを書くようになる。こうした作家の円熟期の書物は、それゆえ青年期よりも力強いものではあるが、もはや同じようなビロードの光沢を備えていない。」

    「そして苦痛こそ人生で出会える最もすばらしいものだと悟ると、人はまるで解放を想うかのように、激しい恐怖を覚えることなく死を想うことができるようになる。」

    「平穏な幸福は、世界を水準の低い平坦なものにしてしまう」

  • 戦時も平時も、本質は変わらない貴族の浅ましさ。

    ゲイと戦争。そんな視点があったなんて新鮮。
    SMシーンに続いての、シャルリュスの老いの描写はみごと。

    この巻の最後の100頁余りの記述は、文学の存在する根拠を示す。
    作品のクライマックスである。
    主人公が文学を、生の意義を取り戻す瞬間は、息をのむようだ。
    「真の楽園は、失われた楽園だからである」。

  • 最終篇「見出された時」の前半。書名と対応する副題の通り「失われた時を求めて」全体の解決編。作家をこころざしながらうだうだやってた主人公がようやく文学の何たるかに気づいて、やっぱりうだうだ語っている。解決編でも平常運転。
    さて、いよいよ次で最後の巻です。

  • 以前読んだときよりも、自分が年をとったせいか今回は面白い部分がたくさんあり、今後の生き方を考えさせる内容であった。昔は読解力がなかったとつくづく思う。翻訳者の表現によって、気になる箇所が違う。私は読者として自分自身の本を読んでいるのだろうか?
    ○は吉川一義訳 ●は井上究一郎訳 △は鈴木道彦訳
    ○私は、一人きりでいなければ注意深く耳を傾けるすべもじっくりと見つめるすべも心得ぬのを隠したことはない。
    ●私はこれまでに、自分がもはやひとりではなく誰かといっしょだと思うとすぐに、注意してきくこともできなければ、じっくりながめることもできなくなるということを、自分に認めなかったわけではなかった。
    △なるほど、これまで常に認めてきたように、私は他人といっしょだと、注意して聴くことも見ることもできなくなってしまう。
    ○読書は人生の価値を高めることを教えてくれる、われわれは評価するすべを知らずにいた人生の価値がいかに大きいかを書物によってはじめて悟るのだ。
    ●読書は、われわれが人生の価値を評価するすべを知らない場合や、人生の価値がいかに大きいかを書物によって理解するしかない場合には、逆に、人生の価値をひきあげることをわれわれに教えるものであると。
    △読書は逆に人生の価値を引き上げることを教えており、それまでよく評価できなかった人生の価値がどんなに大きなものであるかということを、私たちはただ本のみによって理解した、と結論することもできるからだ。
    ○そんな別の時から霊感を得た美しい文章を読めば、そのことが実際に納得できるだろう。
    ●そのような過去のある時間から霊感をえている文章の美しさというものを、われわれは実例をによって知ることができる、
    △具体的にはそこから生まれた美しい文章によって、その事情を理解することができる。
    ○思いあがりと間抜けとは紙一重であること、飾り気のなさはあまり目立たないけれど心地よい味わいがあること。
    ●気取は愚劣と隣りあっていること、率直は一見目立たないけれども快い味わいをもっていること。
    △勿体ぶった態度が愚かさと隣り合っていることや、率直さはあまり目立たないが気持ちのよい味わいを備えていること。
    ○人は目隠しをしたまま新聞を好き勝手に読んでいるのであって、事実を理解しようとしているのではない。
    ●人は、まるで恋をしているときのように、目かくしをして、新聞を読んでいるのだ。事実を理解しようとはつとめない。
    △人は新聞を、目かくしをしたまま自分の好きなように読むもので、事実を理解しようなどとはしないのだ。
    ○どう考えても非現実的に思われる戦場から兵士たちは、実際に戻ってきたのみならず、じつは市の岸辺から一時的にわれわれのもとは戻ってきてふたたび市の岸辺へと戻ってゆく。
    ●彼らは、単に非現実的なところのようにわれわれに思われた場所からやってきただけではなくて、彼らがひとときわれわれのところに帰ってきたのは、死の岸辺からなのであって、ふたたびそこにもどらなければならなかったのだ。
    △彼らは単にそうした非現実の場所からやってきただけではなかった。彼らは、また死の岸辺から一瞬私たちのあいだに戻ってきて、ふたたび市の岸辺に引き返していこうとしていたのであり、
    ○将校というのは、なんらかの作品や本を書こうとしている作家と似ていて、その本自体が、こちらでは予想外の手立てをあらわにするかと思えば、あちらでは袋小路を提示するといった具合に、あらかじめ構想していた計画から作家を途方もなく逸らしてしまう。194
    ●将軍というのは、ある作品、ある本を書こうとする作家のようなものだよ、作家は、まえもって自分が立てていたプランから、書かれる本自体によって著しく逸脱させられるもので、期待もしていなかったうまい方法がある場所でふっとひらめくこともあれば、また他の場所では袋小路に行きあたる、というわけだからね。
    △一人の将軍というのは、何かの作品、何かの本を書こうとしている作家のようなものだ。その本自体が、ここでは思いがけない可能性を明らかにしたかと思うと、あそこでは行きどまりになって、あらかじめ考えたプランから作家をすっかりそらせてしまう。
    ○人間の価値を評価する能力に欠ける連中ほど、そのランクづけをするのに流行の尺度を採用するからだ。
    ●功績を判断する力に最も欠けている人間自身は、功績を評価しようとして、流行の尺度を最大限に採択するからなのだ。
    △人間の値打ちを判断する能力のない人ほど、人間を分類するのにきまって流行の見方を採用するからだ。
    ○しかし相反する佐用がはたらき、われわれは自分の安楽にかんすることは何倍にも拡大する一方、それに関係しないことは何分の一にも縮小するので、知らない人が何百万人も死んだところで屁とも思わないし、むしろすきま風のほうを不快に思うほどである。220
    ●しかし一種の逆作用というものがあって、われわれはやすらかな生活に関係することはひどく過大視し、それに関係しないことは著しく過小評価するものなので、未知の死者が幾百万あっても、われわれにはすきま風ほどの感触もなく、ほとんど気にならないのである。
    △しかし相反する作用があって、私たちの快適さにかんすることは何倍にも拡大するのに対し、それと無関係なことはとんでもないほど割引するので、未知の人が何百万人死んだところで私たちは蚊がとまったほどにも感じないばかりか、それよりはほとんど隙間風の方が不快に思われるくらいだ。
    ○その哲学の根底には、スワンが「人生」に見出していたような多少の好奇心が存在したのかもしれない。
    ●その哲学の根底には、スワンが「人生」のなかに見出していたあの好奇心に類する何物かがあったのかもしれない。
    △その根底には、スワンが「人生」のなかで見出したようなつまらない好奇心があったのかもしれない。
    ○戦争にまつわる人間や事物について新聞の報じることによってのみ判断をくだしている世間の人が、自分自身で判断をくだしていると思いこんでいる。255
    ●戦争下の人間や事件を新聞だけでしか判断していない大衆が、自分の意見でそれを判断していると思いこんでいる。
    △大衆はこんなふうに戦争にかんする事実や人物を新聞だけで判断しているくせに、自分で判断していると思いこんでいる。
    ○たとえばかなりの高齢または若年で世を去った両親を持つ人は、ほとんど否応なく同じ歳で死ぬように定められていると思われる場合が多く、長寿をえて大往生した両親をもつ人は百歳まで癒せぬ悲哀と病魔に悩まされるのにたいして、若くして他界した両親をもつ人は、幸せで健康的な生活を送っていたにもかかわらず、まるでそれが死の実現に必要な手続きであったとしか思われぬほど折悪しく偶然訪れた病気によって避けられない早すぎる期日に命を奪われる。
    ●たとえば、親が非常に高齢、または若くして死んだその子が、親とおなじ年齢で死ななければならなくなっているといってもいいように思われる場合がよくあるもので、高齢で死んだ親から生まれている子は、不治の病と悲しみを百歳までひきずって生き、若くして死んだ親からうまれている子は、幸福で健康な生活をたのしんでいるにもかかわらず、死の実現に必要な方式としか思われないほどあつらえ向きで偶然なわざわいによって、どうしても避けられない早い時期に、人生からうばいさられるのである。
    △たとえば非常に高齢で死んだ親、またはごく若いときに死んだ親から生まれた子供は、ほとんど否応なしに同じ年齢で世を去らなければならない、と。前者は百歳まで悲しみや不治の病いを引きずってゆかねばならず、後者は幸福で健康的な生活を送っていたのに、まだ早すぎる時期に避けることもかなわず、病に奪い去られてしまう。
    ○私は、喜びを常に異なる女のために浪費していた。それゆえ、運命がたとえ私にさらに百年の生を、それも身体の障害に見舞われない生を余分に与えてくれたとしても、それは長くつづく人生につぎつぎと延長期間をつけ足すだけにすぎず、そんな人生が延長されることに、ましていつまでも延長されることになんの利点があるのだろう?
    ●そうした快感を私はいつもちがった女性のために浪費するだけであった、ということを。だから、運命が、この上百歳の年齢を私にさずけ、私が病弱から救われたとしても、ひとつの寿命の上に、ただその長さがつぎたされてゆくだけであったろう、そうなら、人は、寿命がのびること、ましてやそれがいつまでも長くのびてゆくことに、関心をもちさえもしないはずだ。
    △私はこれまでに、ときおりあれこれの快楽を経験したかもしれないが、しかし毎回それを違った女のために浪費してきたのだ、と。したがって、たとえ運命が私にさらに百年の命、それも健康な命を与えてくれたとしても、すでにだらだらとながくつづいてきた一つの生涯、これ以上引きのばしても、ましてやなお長いあいだ引きのばしてもなんの取柄もないような一つの生涯に、延々と延長期間を加えていく結果にしかならないだろう。
    ○ところが、転ばぬよう身体を立て直そうとして、片足をその敷石よりもいくぶん低くなった敷石のうえに置いたとたん、それまでの落胆は跡形もなく消え失せ、私はえもいわれぬ幸福感につつまれた。これはほかでもない、わが生涯のさまざまな時期に、たとえばバルベックの周辺を馬車で散策していたとき以前に見たことのある気がした木々の眺めとか、マンタンヴィルの鍾塔の眺めとか、ハーブティーに浸したマドレーヌの味とか、そのほかこれまでに語った多くの感覚が私に与えてくれたのとおなじこうふくかんで、その感覚は私にはヴァントゥイユの晩年の作品に総合化されているように思われたものだった。
    ●ところが、すばやく立ちなおろうとして、まえのならびからすこし落ちこんでいる一つの敷石の上に片足を置いた瞬間に、私のすべての失望は幸福感のまえに消えうせた、その幸福感は、私の人生のさまざまな時期に私にあたえられたそれとおなじもので、バルベックの周辺を馬車で散歩したときにどこかで見たことがあったように思った木々のながめとか、マルタンヴィルの鍾塔のながめとか、煎じ茶にひたしたマドレーヌの味とか、その他私が語ってきた諸感覚、ヴァントゥイユの最後の作品がそれらの総合をしていると思われた諸感覚によって、私にあたえられた幸福感だった。
    △身を立て直そうとして、その敷石よりもやや低いもう一つの敷石に片足をのせたとき、私のいっさいの失望は、ある幸福感のまえで消え去った。それは私の人生のさまざまな時期に与えられた幸福感、バルベックの周辺で馬車に乗って散歩しながら以前に見たと思った木を認めたときや、マルタンヴィルの鍾塔の眺め、お茶にひたしたマドレーヌの味、そのほか私が語ってきた―そしてヴァントゥイユの晩年の諸作品がそれらを綜合しているように思われた―数多くの感覚、そうしたものの与える幸福感とおなじものだった。
    ○というのもわれわれは、なすべき仕事よりも自分が演じているうわべの役割を優先させる。
    ●というのも、我々は内心に抱えている仕事よりも、いま演じている表向きの役目のほうをいつも先にすませる。
    △というのも、私たちはなすべき内的な仕事よりも、自分の演じているうわべの役割を常に先行させる。
    ○さらに私は、人生がときにすばらしいものに見えても、結局はつまらないものと評価されがちなのは、人生とはべつに、人生をなんら含まないイメ―ジに基づいてそんな評価を下し、人生の価値をおとしめているからだということも理解していた。437
    ●また人生が、あるときはじつに美しいものに見えても、結局つまらないものと判断されたのだったとしたら、そのつまらなさというのは、人生それ自身とはまったくべつのものによって、人生を何一つふくんでいない映像によって、人生を判断し、人生を貶めているからであることを理解するのであった。
    △そしてまた私は人生が、そのいくつかの瞬間においてあんなに美しく見えるのに、結局はつまらないものと判断されるわけも分っていた。それは私たちが人生を、それとはまったく別のもの、人生のかけらさえ含んでいないイメージによって判断したりけなしたりするためなのだ。
    ○そうなのだ、想い出は、忘却のおかげで、想い出と現在の一刻とのあいだにいかなる絆を結ぶこともいかなる関連を設けることもできず、ひとえに元の場所と元の日付にとどまり、ほかのものとは距離を置き、ある谷間の窪みやある頂の先端などに孤立していたからこそ、突然、われわれに新たな空気を吸わせてくれるのだ。
    ●そうなのだ、回想は、忘却のおかげで、それ自身と現在の瞬間とのあいだに、なんの関係をむすぶことも、どんな鎖の輪をなげることもできなかった、回想は自分の場所、自分の日付にとどまったままだった、回想はいつまでもある谷間の窪道に、ある峰の突端に、その距離、その孤立を保ってきた、というのが事実であるにしても、その回想が、突然われわれにある新しい空気を吸わせるというわけは、その空気こそまさしくわれわれがかつて吸ったある空気だからである。
    △そうなのだ、思い出は忘却のために現在の時間とのあいだにいかなる絆を結ぶことも、いかなる鎖の環を投げることもできず、その場所、その日付にとどまり、谷間のくぼみや峰の頂にあって他から遠く離れたまま、孤立を保っていたのである。それでも、そうした思い出が、不意に新しい空気を呼吸させるのは、まさしくこれがかつて私たちの呼吸した空気だからだ。
    ○その目まいがするほどのためらいは、眠りにはいる際の言うに言われぬ幻影を前にしてときに覚えるためらいとそっくりなのである。
    ●ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしてときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられるのである。
    △私たちの全人格を呆然とよろめかせるのだが、それは人がいよいよ眠りこもうとする瞬間に、言うに言われぬ幻覚を前にしてときおり覚える不確実な感覚に似たものなのだ。
    ○友人なるものは、われわれが人生の途中でとり憑かれるあの甘美な狂気においてのみ友人になっているにすぎず、われわれはその狂気に身を委ねていながら、明晰な頭の片隅では、これは狂人が家具を生きものだと信じて家具とおしゃべりをするにも等しい過ちであると心得ている。
    ●友達といっても、それはわれわれが人生の途中で陥るあのやさしい狂気のなかで友達になっているだけで、われわれは一時そのような狂気に身をまかせるが、理知に徹底して考えれば、そんな狂気は家具を生きもののように信じて家具と言葉を交わす狂人の錯誤だとわれわれは知るのである。
    △友人が友人であるのは、私たちが人生において抱いているあの甘美な狂気のなかでの話にすぎず、私たちはその狂気にふけりながらも、知性の奥底では、それがまるで家具を生き物と思いこんでその家具相手に会話する狂人のおかすような過ちであると知っているのだ。
    ○私が感じたものを考え抜くことによって、つまり私が感じたものを薄暗がりからとり出してその精神的等価物に転換するよう努めることによって、ひとつひとつの感覚をそれぞれの法則と思考を備えた表徴として解釈しなければならなかったのである。455
    ●問題は、考えることを試みながら、言いかえれば私が感じたものを薄くらがりから出現させてそれをある精神的等価物に転換することを試みながら、それらの感覚を通訳して、それとおなじだけの法則をもちおなじだけの思想をもった表徴(シーニュ)にする努力をしなくてはならない、ということであった。
    △いずれの場合にも思いをこらし、つまりは暗がりから私の感じたものを引き出して、それを精神的な等価値のものに変えようとつとめながら、感覚をそれに応じた法則や観念の表徴(シーニュ)と解釈するように努力しなければならないのだった。
    ○というのも本能は義務を果たすよう強いるが、知性はその義務を回避するさまざまな口実を提供するからである。
    ●なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ。
    △というのも、本能は義務を果たすことを命じるのに、知性は義務を回避する口実を提供するからだ。
    ○われわれが記した文字ではなく、象徴的な文字からなる書物こそ、われわれのただひとつの書物である。
    ●われわれの文字で跡づけられるのではなくて、象形的な文字であらわされた書物、それこそがわれわれの唯一の書物である。
    △私たちが記した文字ではなく、形象化された文字によって書かれた書物、これこそ私たちの唯一の書物だ。
    ○知的な精神による仕事の到達した高みを測ることができるのは、美学上の種類ではなく、使われている言語の質なのかもしれない。
    ●知的で精神的な仕事が、どんな高さまで達したかを判断することができるのは、おそらく美学の様式(ジャンル)によってであるよりも、むしろ言語の質(カリテ)によってであろう。
    △知的で精神的な仕事の到達したレベルをはかることができるのは、美学的な種類(ジャンル)ではなくてむしろ言語の質によってだろう。
    ○事物には精神のはいりこめる多くの穴が開いていて、あまりにも多くの精神を浸みこませていることを、私は知りすぎているからである。
    ●なし
    △あまりにも私は知りすぎているのだ、物には精神の入りこめるたくさんの穴があいていて、精神をたっぷり吸収してしまうことを。
    ○一時間はただの一時間ではなく、さまざまな香りや音や計画や気候などで満たされた壺である。
    ●一時間は、一時間でしかないのではない、それは、匂と、音と、計画と、気候とに満たされた瓶である。
    △一時間はけっしてただの一時間ではない。それは香や、音や、さまざまな計画や、気候などのつまった壺である。
    ○芸術的な歓びを求めるのは、その歓びが与えてくれる印象のためであるにもかかわらず、われわれはその正体を言いあらわしえないものとして当の印象そのものについてはできるだけ早々に考えないようにし、その印象の楽しみを深く突きつめずとも味あうことができるもの、つまりその楽しみをほかの愛好家にも会って伝えることができると思わせてくれるものに執着する。
    ●人が芸術的なよろこびをもとめるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれるものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好家たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。
    △芸術的な喜びを、人は本来それが与える印象のために求めているのだが、しかしこの場合でさえ私たちは大急ぎでやりくりをして、まさに当の印象そのものは表現不可能なものとしてこれを放置し、ただ表面的に楽しさを感じさせてくれるもののみにしがみつく。その楽しさは、会話の可能な他の愛好家たちにも伝えられそうに思われるが、それは私たちが自分自身の印象を支える個人的な根っこを抹殺して、他の愛好家たちにとっても私たちにとっても同一な事柄ばかりを話題にするからだ。
    ○努力することをあまりに困難だからとあきらめて、そのかわりに交響曲の演奏をふたたび聴いたり教会を再訪したりするうち―それを直視する勇気がないせいでわれわれ自身の生から遠ざかり、博識と呼ばれる逃避行為をつづけるうち―、われわれは音楽や考古学のきわめて博識な愛好家と同じように詳しく、同じような流儀で、その交響曲や教会を知るようになるだろう。
    ●ひどく困難をおぼえる、しかもわれわれはシンフォニーをふたたび演奏し、教会を見にふたたびその場所を訪れる、そしてついには―本来の生活を直視する勇気をもたず、そこから逃避して博識と呼ばれるもののなかに走り―音楽や考古学に精通した愛好者とおなじ方法で、おなじ程度にまで、それらについての知識をえるだろう。
    △心に穿たれた小さな溝は、見つけようと思っても容易に見つかるものではない。やむなく私たちは交響曲(シンフォニー)をふたたび演奏し、ふたたび教会を見に引き返す。こうしてしまいには―このように自分本来の生を直視する勇気もなく、それから遠く離れて博覧強記と呼ばれる逃避行をつづけながら―私たちは、音楽や考古学の最も学のある愛好家と同じように、これらのものを熟知するようになるだろう。
    ○非の打ちどころのない精神の持ち主、真に生き生きした心の持主に、巨匠の立派な思想が与える喜びについていえば、もちろんその喜びは完全に健全なものである。とはいえ、その喜びをほんとうに味わう人間がどれほど貴重な存在であろうと、結局その喜びはそうした人間に他者というものを十分に認識させることにしかならない。
    ●ところで、申しぶんなく正しい精神の持主、真に生き生きしている心情の持主が、ある巨匠の美しい思想からあたえられる悦楽についていえば、なるほどそういう悦楽は、いたって健全であろう、しかしそんな悦楽を真に味わう人たちが、どれほど貴重な存在であろうとも、結局その悦楽は、単に他者、つまりその巨匠への、全的な認識に彼らをみちびくことにしかならない。
    △非のうちどころのない正しい精神や、本当に生き生きとした心に、巨匠の美しい思想が与える快楽について言えば、それはおそらくこの上もなく健全なものだろう。だが、それを本当に味わう人たちがどれほど貴重であろうとも(いったいそんな人が二十年間に何人いるだろう?)その快楽は結局のところ彼らに他人を充分に意識させるだけの話である。
    ○われわれの思考や生活、つまりわれわれにとっての現実を構成しているのは、記憶によってすこしずつ保存されたものとはいえわれわれが実際に感じたものをなんら残していない一連のあらゆる不正確な表現であり、このような虚偽を再現することに終始するのが自称≪実録≫の芸術である。
    ●われわれの思想を、われわれの生活を、つまり現実を、われわれのために構築するのは、不正確な表現を全部一つにつなぐ鎖で、その鎖はすこしずつ記憶に蓄積されてできたものだが、不正確な一つ一つの表現のなかには、われわれが現実に感じとったものは何一つ残されていないのだ。そしていわゆる「体験の芸術」(アール・ヴェキュ)なるものは、そのようなうそを再現するにすぎないだろう。
    △私たちの思考、私たちの生活、いわゆる現実などを構成するのは、少しずつ記憶に保存された不正確な多くの表現の連鎖だが、そこには私たちが本当に現実に感じたものなど何ひとつ残っていない。自称「体験された」芸術なるものは、そうした嘘を再生産するだけにすぎない。
    ○文体とは、世界がわれわれにあらわれるそのあらわれかたの質的相違をあきらかにするものであり、この相違は、意識的な直接の手立てでは明らかにできず、芸術が存在しなければ各人の永遠の秘密にとどまるだろう。われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界はわれわれの見ている世界と同じものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じようにわれわれには未知のままにとどまるだろう。
    ●文体とは、この世界がわれわれ各人にいかに見えるかというその見えかたの質的相違を啓示すること、芸術が存在しなければ各人の永遠の秘密におわってしまうであろうその相違を啓示することなのである。しかし、直接的、意識的方法をもってすれば、その啓示は不可能となるであろう。芸術によってのみわれわれは自分自身から出ることができる、そして他人がこの宇宙をどう見ているかを知ることができる、その宇宙は、われわれの宇宙とは同じものではなく、その風景も、月世界にありうる風景のように、われわれには未知のままであるだろう。
    △文体は、この世界が私たちの前にあらわれる仕方の質的な違いを明らかにするもので、直接の意識的な方法ではそれは不可能であり、もしも芸術がなかったとしたら、その違いは各人にとって永遠の秘密になるだろう。芸術によってのみ、私たちは自分自身からぬけ出して、ひとりの他人がこの宇宙をどんなふうに見ているかを知ることができる。それは私たちの宇宙とは同じではなく、その風景は月世界のそれのように私たちには知られずに終わるところだった。
    ○なによりも私が遠ざけるべきは、精神を待たずに唇がつい選んでしまうことばであり、人が会話のなかで口にしがちなことばであり、しかも他人と交わした長い会話のあとも自分自身にわざとらしく語りつづけ、われわれの心を嘘で満たす、ユーモアあふれることばである。
    ●何にも増して私が遠ざけるべきものは、精神をさしおいて唇が選ぶあの言葉、会話で人がよく口にするようなユーモアたっぷりな言葉、他人との長い会話のあとで、人が自分自身に向かってわざとらしく発しつづける言葉、そしてわれわれの精神をうそで満たすあの言葉の数々である。
    △何よりもまず私が遠ざけるのは、精神よりもむしろ唇の選ぶ言葉、会話のなかで言われるようなユーモアたっぷりの言葉、他人と交した長い会話のあとで取ってつけたようにつづけて自分自身に向ける言葉、私たちの精神を嘘で満たす言葉である。
    ○画家にもまして作家は、量感や存在感や普遍性や文学的現実感などを獲得するために、ひとつの教会を描くにも多くの教会を見ておく必要があるように、ただひとつの感情を描くにも多くの人物を必要とする。
    ●ところで、画家以上に、作家にとっては、量と質、普遍性、文学的現実を把握するには、ただ一つの教会を描くにも多くの教会を見ていなければならないように、ただ一つの感情のためにもまた多くの人間観察を必要とするのである。
    △画家とちがって作家は、量感や密度や普遍性や文学的な現実感を獲得する上で、たった一つの教会を描くにもたくさんの教会を見なければならないように、たった一つの感情のためにも多くの人を必要とする。
    ○実際には、ひとりひとりの読者は、本を読んでいるときには自分自身の読者なのである。作家の書いた本は、それなくしては読者が自分自身のうちに見ることのできないものを識別できるよう、作家が読者に提供する一種の光学器械ほかならない。書物の語っていることを読者が自分自身の内部に認めるという事実は、その書物が真実を語っている証拠であろう。その逆もまた成り立つが、それはある程度までにすぎない。
    ●実際には、本を読むとき、読者はそれぞれ自分自身を読んでいるので、それが本当の意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきりと見わけさせるのである。
    △実を言えば、一人ひとりの読者は本を読んでいるときに、自分自身の読者なのだ。作品は、この書物がなければ見えなかった読者自身の内部のものをはっきえいと識別させるために、作家が読者に提供する一種の工学研究科器械にすぎない。書物の語ることを読者が自分自身の内部に認めるのは、その書物の真実性の証明だが、少なくともある程度まではその逆も成り立つ。

  • 全14巻が予定されている『失われた時を求めて』、岩波文庫版はとうとう本書で13巻まで到達した。残すところあと1巻。な、長かった……。1冊1冊を読んでいる限りは楽しいのだが、全14巻を一気に読むのは苦行だろうなw
    この長大な作品も終盤ともなると、作中でも時代は流れるし、登場人物も歳を取る。そして人間、歳を取ればやがて誰でも棺桶に入るわけで……。
    本書と、最終巻である14巻は、『老い』というものを強く感じさせるものになりそうだ。

  • 今では多くの登場人物が亡くなっている為、社交としての会話が激減し、「私」の空想的思考が大半を占めていて読み疲れた。
    主にシャルリュスかフランソワーズしか「私」と親しくする者が居なくなってしまったのは、時代の流れと言うべきだろうか。
    「私」が唯一信頼している(と感じられた)サン=ルーが亡くなってしまったのは残念だった。
    見せ場はジルベルトが「私」への嘗ての恋心を打ち明ける場面である。
    もし「私」がジルベルトの言動を誤解しなければ二人は恋人同士になっていたと考えると何とも残念だ。
    第1巻の幼い二人の交友が一層輝かしい記憶として心に甦った。
    病死や事故死と違い戦死程無惨な別れはないだろう。
    ジルベルトの台詞からは華が感じられた。
    オデットかジルベルトが次巻でも登場してくれたら恐らく退屈しないで読めると思う。
    最終巻がどの様な結末を迎えるのか楽しみである。

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