- Amazon.co.jp ・本 (210ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004308010
感想・レビュー・書評
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小学生の子供が通信教育や音読の教材でお世話になっている斎藤孝さんの本だったので、読んでみました。ずっと自分を高めてくれる本を読みたいと考えていましたが、何を読めばいいのか分かりませんでした。この本を読んで、何を読めばいいのか、どのように読めばいいのかよく分かりました。ブックリストをもとに、今後4年間で文庫100冊、その後の2年間で新書50冊を達成したいです。我が子の道しるべになれるような私の本棚を作ろうと思います。
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読書は、「経験していないことでも力にできる」。
限りある人生を豊かに過ごすためにも、読書によって世界を広げたい。
また、著者の言っているように、読書はスポーツと同じで鍛えられる。読書力とは、あらすじを人を話せること。読んだ本を糧にできるように、読んだらすぐに人に話していきたい。やはり、アウトプットが重要。
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読書をすることの意義について書かれた本。著者の本への純粋な愛が伝わってくるので、この人のオススメする本なら読んでみたいという気持ちになる。共感する部分が多く文体や言い回しも肌に合うため、他著作も読んでいきたい。
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●読んで得るもの
読書の必要性と活用法
●感想
読書の必要性を知るために「この本を読む」ということが腑に落ちない。
おそらくこの本を読む人は読書習慣がある人。そもそも読書が嫌いな人はこの本も読まないかも。
読書が好きな私にとっては、前半半分に書かれている序章と第Ⅰ章から得られるものは少なかった。
第Ⅲ章が読書の活用法として参考になった。 -
読書を習慣にしようと多くの本を読む前に読めて良かった本。
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精読と多読は矛盾しない。
それどころか、多読している方が精読できる。
なぜか。
読書とはそれぞれの本がバラバラに独立してあるものではなく、
読書の森という知のネットワークで繋がっているからだ。
その隠れたつながりを見つけることこそ、
読書の醍醐味であり、
その暗黙の知は読書量の蓄積によって益々脳内に露わになってくる。
それが深く読むことに直結する。
多読することは精読に直結するのだ。
さぁ、今日も森林浴ならぬ読書浴をしに出かけよう。 -
読書はトレーニング。
身のある読書をしようと思いました。 -
良書。自己形成やコミュニケーション力の向上のために、緊張感を持って本を読み、自分を鍛えたいと思った。日本人の読書習慣の歴史については初耳。江戸から明治時代にかけての識字率及び読書の質の高さ、大正時代の教養主義、昭和四十年代後半からのサブカルチャーの台頭。そして昔と比べて読書量が激減し、読書の質も低下している現代。わたし自身、難しい本を敬遠してきたけれど、今後は自己をつくる本をもっと読みたい。齋藤孝の本は、読むたびに読書欲が刺激されるので好き。
p14
新書は、より大きな知識体系への入り口になっている。一冊を読めば、よりレベルの高いものを二冊、三冊と読みたくなる。そうした吸引力がある。
p15
私は本を読むときに、その著者が自分ひとりに向かって直接語りかけてくれているように感じながら読むことにしている。高い才能を持った人間が、大変な努力をして勉強をし、ようやく到達した認識を、二人きりで自分に丁寧に話してくれるのだ。
p16
書き言葉になると、自分から吸収しなければいけない面があるので、精神的な緊張を要求される。しかし、この書き言葉に慣れてしまえば、書き言葉ならではの栄養価の高さに充足感を覚えるようになる。書かれた言葉を苦にせずに読めるという「技」が、自分の世界をとてつもなく広げてくれるのである。
p38
本を読んでいるといっても、「自分をつくる」、「自分を鍛える」といった観点での、読む本の質が問題なのである。
p39
たとえ子どもの時代にそれほどの読書をしていなくても、中高生時代に適切なきっかけがあり、大人の読書へ踏み込めば、後は問題なく進んでいくのいうことはよくある。
p39
江戸時代の日本の識字率が、当時の世界水準と比較して、著しく高かったことはよく知られている。
江戸から明治へかけては、識字率が高かっただけではなく、読書の質も高かった。漢文を中心にした難しい書物が教科書とされていた。福沢諭吉の『学問のすすめ』は、当時として爆発的な売れ行きを示したベストセラーであった。現在読んでみればわかるように、決してやさしくはない。それでも福沢は、多くの人に読まれるように、極めてやさしく書いたと言っている。漱石の小説も、多くが新聞連載小説である。当時の庶民は、難しい漢字に対するアレルギーが、現在よりはずっと少なかった。
p42
総ルビ文化が、この質の高い読書を助けていた。難しい漢字があっても、ルビが振ってあるので庶民にも読める。かつての雑誌や読み物には、ルビが振ってあり、子どもでも大人が読むレベルのものを読むこともできた。
p43
現在の七十代以上の方にうかがうと、子どもの頃に名作全集を読んだことのある人が多いので驚いた。とくに世界文学の影響は大きい。ゲーテやスタンダールといった世界文学を、現在年齢の高い方ほど多く読んでいるのだ。
p44
読書は向学心そのものであり、向学心をよりいっそう加速させるものでもある。誰でもが高い読書力を持っている国は、潜在力があるし、迫力がある。情報処理能力もさることながら、読書を通じて自己形成をしていたり、読書を基礎にした高いコミュニケーション能力を培っていたりすることは、日本に対する長期的な評価を高めるものである。
p46
先頃、英米文学を中心とした古書店の下井草書店の店主さんと話していた際に、日本には聖書のような唯一絶対の本、すなわちthe Book of Booksがないから、たくさんの本を読む必要があった、という話が出てきた。これは、おもしろい観点だ。
唯一絶対の価値を持つ本があれば、場合によってはその本一冊を読めばよいことになる。しかし、そういったthe Bookと言われる特別な本がないとするならば、できるだけ多くの本、つまりBooksから、価値観や倫理観を吸収する必要がある。
日本では、大量の読書が、いわば宗教による倫理教育の代わりをなしていたと言えるのではないだろうか。倫理観や志は、文化や経済の大元である。素晴らしいものをつくりたい、世の中をよくしたいといった強い思いが、文化や経済活動を活性化させる。その大元になるある種の倫理観や人間理解力を、日本人は多量の読書を通じて培ってきたと言える。唯一絶対のものを持たないが故に、それをいわば逆手にとって、雑多とも言えるほどの大量の読書を積極的に行ってきたのではないだろうか。
p51
読書の幅が狭いと、一つのものを絶対視するようになる。教養があるということは、幅広い読書をし、総合的な判断を下すことができるということだ。目の前の一つの神秘にすべて心を奪われ、冷静な判断ができなくなる者は知性や教養があるとは言えない。
p52
矛盾しあう複雑なものを心の中に共存させること。読書で培われるのは、この複雑さの共存だ。自己が一枚岩ならば壊れやすい。しかし、複雑さを共存させながら、徐々にらせん状にレベルアップしていく。それは、強靭な自己となる。
思考停止するから強いのではない。それは堅くもろい自己のあり方だ。思考停止せず、他者をどんどん受け入れていく柔らかさ。これが読書で培われる強靭な自己のあり方だ。
日本では教養というと、今は幅広い文化的な知識のことをさすが、自己形成のための教養という考え方が幅広く共有されていた時代があった。とりわけ大正時代に教養主義といわれる風潮が旧制高校生を中心として隆盛していた。
教養主義の代表的なものは、大正三年刊行の阿部次郎『三太郎の日記』、大正六年の倉田百三『出家とその弟子』、大正八年の和辻哲郎『古寺巡礼』、大正十年の倉田百三『愛と認識の出発』、西田幾多郎『善の研究』(復刊)といったものだ。
p54
トルストイやドストエフスキーやゲーテ、カント、ニーチェなど、文学と哲学を中心として、人格形成に大きな影響のある書物が当然の教養として位置づけられているのが、教養主義であった。
p57
大学生が本を読まなくなったと指摘されて、すでに久しい。日本のような資源を持たない国では、教育こそが資源だ。大学生が読書力をもたないということは、日本の確実な地盤沈下を意味する。大学生における教養主義が衰退したこの二十五年間ほどの気のゆるみが、現在の日本の苦しい状況の要因になっている。
p59
人間の総合的な成長は、優れた人間との対話を通じて生まれる。身の回りに優れた人がいるとは限らない。しかし、本ならば、現在生きていない人でも、優れた人との話を聞くことができる。優れた人との出会いが、向上心を刺激し、人間性を高める。
p72
本は、本の連鎖を生む。一冊読むと次に読みたくなる本が出てくる。それが読書のおもしろさだ。
p73
一人の著書がきっかけで、本の網の目がどんどん広がっていく。関心も微妙にずれて広がりを持っていく。これが世界観の形成に役立つ。
p84
本を読んでいて「自分と同じ考えの人がここにもいた」という気持ちを味わうことは多い。まったく生まれも育ちも違うのに、同じ考えを持っている人に出会うと、自分の考えが肯定される気がする。
p85
暗黙知という言葉がある。自分ではなかなか意識化できないが、意識下や身体ではわかっているという種類の知だ。言語化しにくいけれども何となくからだでわかっているような事柄は、私たちの生活には数多い。むしろそうした暗黙知や身体知が、氷山でいうと水面の下に巨大にあり、その氷山の一角が明確に言語化されて表面に出ている、という方がリアリティに即しているだろう。本を読むことで、この暗黙知や身体知の世界が、はっきり浮かび上がってくる。自分では言葉にして表現しにくかった事柄が、優れた著者の言葉によってはっきりと言語化される。
p86
読んでいると「そうそう、自分も実はそう考えていた」と思うことがよくあるが、多くの場合、そこまで明確に考えていたわけではない。言われてみると、それまで自分も同じことを考えていたと感じるということだ。しかし、この錯覚は問題ない。あたかも自分が書いた文章のように他の人が書いたものを読むことができるというのは、幸福なことだ。
p131
唐木によれば、明治維新前後に生まれ、幼少期に四書五経の素読を受けた世代、例を挙げれば、鷗外、漱石、幸田露伴、二葉亭四迷、内村鑑三、西田幾太郎、永井荷風といった人々の世代と、明治二十年前後に生まれ、大正時代に教養派として活動した者たちとの間に明確な一線を引くことができる。
p153
では、脈略のある話し方は、どのようにしてできるのか。
それは、相手の話の要点をつかみ、その要点を引き受けて自分の角度で切り返すことによってである。通常、人の話には幹と枝葉がある。しっかりと相手の言っていることの幹を押さえて、それをより伸ばすように話をするのが会話の王道だ。この幹をつかまえる力は、読書を通じて要約力を鍛えることによって格段に向上する。
p155
言い換えにはコツがある。抽象的なものは、具体的なものに少し直し、具体的な発言に対しては、少し抽象度の高い言い方で言い換える。
一般的な発言に対しては具体例を、具体例を相手が挙げれば、それを一般化する。こうしたやりとりによって、幹を失わない、しかも起伏のある会話ができる。
会話をしていて相手が喜ぶのは、自分のいった話が無駄に終わらずきちんと相手に届いて、しかも生かされていると感じる場合だ。それが具体的にはっきりするのは、相手の話の中に自分の言ったキーワードが入り込んでいるかどうかである。自分の発言の中でも、重要だと自分が感じていた言葉(キーワード)を相手が使ってくれれば、それだけでも会話に勢いが出てくる。
読書経験が生きてくるのは、五分前、十分前、二十分前に話された相手の言葉を引用して会話に組み込める技においてだ。現在の文脈そのものには出てこない、いわば、すでに地下に潜ってしまった水脈を、もう一度掘り起こすのである。
その言葉を話した当人でさえも、今の時点では意識していない言葉を、もう一度舞台に上げる。すると、相手は自分の過去に話した話と現在の話とが結びつくのを感じ、自分の中に脈略ができたことを喜ぶ。もっとも気が利いているのは、話している相手がつながっていないものをつなげてあげるということだ。こうしたことができるためには、相手の言葉をしっかりと押さえておく必要がある。
p167
読書の修練を積んだ人には、どこか冷静な知性の香りが漂う。もちろん気質の問題は大きいが、それでもなお冷静に自分の主観とは独立して物事を論じる客観的な構えが読書をするほど身につきやすい。
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齋藤孝さんの本は初めてですがかなりおもしろかったです。
この著者に言わせれば、僕は読書好きではあるけれどまだまだ読書家とは言えないのかなと思いました。
本を読んだということは要約が言えることであってオリジナルの感想を言えなくても良い
というのはなるほど!と思いました。
いろんな本で言うところの自我を捨てて読むだとか著者との対話という部分に繋がりました。
3色ボールペン方式は子どもにやらせてみたいですね。
「広く深く」は読書の場合、現実的に可能だ!
読書を通じてもっともっと自分の思考や言葉を豊かにしていきたいです。