- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006022716
作品紹介・あらすじ
殺、掠、姦-一九三七年、南京を占領した日本軍は暴虐のかぎりを尽した。破壊された家屋、横行する掠奪と凌辱、積み重なる屍体の山。この人倫の崩壊した時間のなかで人は何を考え、何をなすことができるのか。南京事件を中国人知識人の視点から手記のかたちで語り、歴史と人間存在の本質を問うた戦後文学の金字塔。
感想・レビュー・書評
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1937年の南京事件に遭遇することになった、中国人・陳英諦の手記というかたちで書かれた作品です。
妻の莫愁、息子の英武をうしない、日本軍の蛮行が収束したあとのことを冷静に見つめていた従妹の楊嬢も、身体と心に深い傷を負うことになります。
そんな状況にもかかわらずみずからの利己心を満たすために奔走する陳の叔父や、知識人の弱さを見せる陳の家を接収した桐野中尉などの人物が脇役として登場し、イアン・ブルマが「人間の想像力の限界が試される事件」のなかで、彼らがどうしようもないほどに「人間」であることを、そのふるまいによって示します。
「いまわたしは鬼子という言葉をつかった。が、もう使うまい、……この逆立ちした擬人法は、長い時間のあいだには、必ずや人々の判断を誤り、眼を曇らせるであろう。彼等は鬼ではない、人間である」と、著者は主人公に語らせています。そして主人公自身も、妻子を殺され、世界の蝶番がはずれてしまったような当時の南京において、「人間」的な思惑から逃れることはできません。本作の最後で著者は、登場人物の一人である「K」に、「そうか、非人間的、なんてあまり口に出すべきじゃないな」と語らせていますが、そのことにかえってこの世界に対する絶望の深さを読者に教えるとともに、そのような絶望をくぐり抜けたことでようやくかいま見える希望が暗示されているのかもしれないと感じました。 -
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内容(「BOOK」データベースより)
『殺、掠、姦―一九三七年、南京を占領した日本軍は暴虐のかぎりを尽した。破壊された家屋、横行する掠奪と凌辱、積み重なる屍体の山。この人倫の崩壊した時間のなかで人は何を考え、何をなすことができるのか。南京事件を中国人知識人の視点から手記のかたちで語り、歴史と人間存在の本質を問うた戦後文学の金字塔。』
冒頭
『一九三七年十一月三十日
兄を下関の海軍碼頭までおくりにいって来た。
甲板の上にまで溢れ出た多数の船客のなかには、兄のつとめ先である司法部の役人とその家族が多勢まじっていた。政府の移転する漢口へと落ちてゆくこれらの人々の顔は、いずれもみな埃にまみれ、平生は法服に威儀を正し、司法官としての威厳を保つことに心を砕き、人を死刑にする時にもとりみだしたりはしない筈なのに、今日は、鼻の両脇に黒いものをためて平然としている。』
『時間』
著者:堀田 善衛(ほった よしえ)
出版社 : 岩波書店
文庫 : 288ページ -
ショッキングな内容ですが、受け入れなければいけない本です。この時代に書いたことがすごいです。日本人の堀田さんが、中国人の目線で事件を描いています。
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辺見庸の「1★9★3★7」を読んで以来読まねばと思っていた1冊。歴史修正主義の動きがあまりにひどい昨今こそ、こうして被害者側の目線になって当時を日本人を描いた本書の意義は大きいだろう。本書が書かれた1950年頃は東京裁判の後で南京虐殺の存在が国際的にも知られていたことから現代の感覚で想像するほどセンセーショナルなものではなかったと辺見庸はあとがきで書いているが、それでも「戦時中のことで仕方なかった」と片付けたがる日本のメンタリティの中で、行為と向き合うのは勇気のいる執筆だったはずだ。今の時代こうした作品が発表されることはほぼ不可能と思うと、なんと日本人は歴史から何も学ばず、事件を矮小化しようとすることで直視を避ける情けない道を選んでしまったかと俯かずにいられない。
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まず思ったのは、昔の日本のインテリの男性がいかにも書きそうな文章だな、ということ。
物語自体は、南京大虐殺を、知識階級にある中国人が語るという斬新なもので、ちょっとしたどんでん返しもあるし、ぐっとくる場面もあるのだが、いかんせんインテリ語りが長いので、物語が寸断されたように感じてしまうし、内容の衝撃度が薄まって、非常に観念的なものを読まされているように感じる。辺見庸みたいな、昭和のインテリ男には面白いのかもしれないが。
1955年に刊行されたが、かなり売れたにもかかわらず、マスコミから無視され、話題にもならなかったというようなことが解説に書かれているが、それは「大声で論ずるのはためらわれた」からだけでなく、通読した人が少なかったからではないかなんて邪推をしたくなる。
衝撃的なテーマを、まだそれを実際に知る人たちが生きている時代に発表することは、勇気があるとも思うし、日本人でありながら、中国人を語り手にしてこれだけ書けたのだから成功と言えるかもしれないが、まあ、もうちょっと読みやすく、物語自体にパワーを割いてくれたら、と、インテリでない私としては思わずにはいられない。
とはいえ、竹内好とも交流のあった著者なので、主人公が周作人(魯迅の弟)を尊敬していたり、結びの文章が、なんとなく「故郷」の文章に似ていたりするし、そもそもインテリの中国人が政治と戦争に翻弄されるという物語自体が、「阿Q正伝」の裏返しのようにも思える。そういう意味では非常に意欲作だったのだろう。
こういう分野に興味のある人にしかすすめられない本ではあるけれども。 -
自分の浅学菲才ということもあるのでしょうが、多分・・・時代に無視されたのでしょうね。
それだけ、1955年にはまだまだ生々しく、関わった人たちも多かったのでしょう。無かったことにしたかったのでしょうね。 -
辺見庸『1★9★3★7』で知り、読むと決めた矢先の復刊。南京大虐殺をなかったとする歴史の改竄が平然と罷り通ろうとしている今、この復刊の意義は大きい。「到底筆にも口にもできない」ほどの蛮行を書かずにいられなかった堀田の決意を素通り躱してはならない。主人公に被害側である中国知識人を据え、戦争だから仕方がなかったなど勝手な言い分は許されぬことを知らしめる。「自分自身と闘うことのなかからしか、敵との闘いのきびしい必然性は、見出されえない」記憶の恥部を暴き出し自身に問いかけ考え続けること。何をなすことができるのか。