なぜ私だけが苦しむのか: 現代のヨブ記 (岩波現代文庫 社会 164)

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  • / ISBN・EAN: 9784006031640

作品紹介・あらすじ

幼い息子が奇病にかかり、あと十余年の命と宣告される-理不尽と思える不幸に見舞われたラビ(ユダヤ教の教師)が絶望の淵で問う。神とは、人生とは、苦悩とは、祈りとは…。自らの悲痛の体験をもとに、旧約聖書を読み直し学びつかんだのは何であったか。人生の不幸を生き抜くための深い叡智と慰めに満ちた書。

感想・レビュー・書評

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  • 敬虔なユダヤ教のラビ(ユダヤ教の指導者に当たる立場の人)である作者が、自分の息子を不治の病で亡くしたことをきっかけに、自分が信じる神とは一体何なのか、なぜ神は自分の息子を助けてくれなかったのか、なぜそもそも神は「早老症」という病気を他の誰でもなく自分の息子に与えたのか、そんなに自分や自分の息子は神に背く悪いことをしたのか(もちろんしていない)、神に祈るとは何か、祈っても意味はないのか、息子を失っても自分は生きていかなければならないのか、なぜ自分だけがこんなに苦しい思いをしなければならないのか、という次々と沸き起こる疑問(自分が信じてきた神への疑惑)に対していくお話です。
    聖書の立場は、「息子に不治の病を与えることを決定したのは神である、全知全能の神は明確な理由をもってそうすることにしたのだから作者は神がそう決めた理由を考えて行動しなければならないし、その苦難を乗り越えられない者に神は不幸を与えない」というものであり、信者に対して「この決定は、他でもない自分が信じる神によるものなんだ」という部分に救いを見出して慰められて前に進むことを促していますが、この本の作者はユダヤ教のラビという立場でありながら、聖書に書かれたそういうことの一部は間違っていると断言しています。
    善良な市民が圧倒的な不運に見舞われる一方で悪人が幸福になるという不運や不条理は自然の摂理でどうしても起こってしまうことであって、神はそれに対して無能で何もできない、というのがこの作者が導き出した答えです。
    ではなぜ我々は、(信じている宗教は何であれ)神に祈るのか、という疑問に対する作者の答えが感動的でしたので紹介します。

    「祈りは正しく捧げられる時、人を孤独の極みから解放します。一人きりだと思う必要はないし、見捨てられたと思う必要もないことを、人は祈りを通して再確認できるのです。」

    特に神様を信じているわけでもないしかと言って否定しているわけでもない僕にとっても、心に響く本でした。僕が周りの方たちから普段そうしてもらっている様に、僕も不運に苦しんでいる人を見かけたら、あなたは一人きりではないと心から伝えられる人でありたいと、新年にふさわしいまじめな気持ちにさせてくれた良書でした。

  • ああ、なんで?
    なんでオレだけが?
    こんなにも苦しまなきゃいけないの?
    そりゃ、別にオレが聖人君子のような素晴らしい人間だとは思わないけどさ…
    こんな目にあうほど悪いことをしたつもりもないよ…
    つーか、オレより悪いことしてるヤツなら他にもっといっぱいいるじゃん!
    なのに、何でオレがこんな目に?!

    多かれ少なかれありますよね?こういうの…
    何で自分だけ?と…
    ボクもやっぱりこんな風に思う時あります…
    何で自分がこんな目にあうのか?
    自分がいけないのか?
    何か悪いことをしてしまったのか?
    何かの罰なのか?
    という問いに対して…
    すぐにはわからないかもしれないけど、神様のお導きなんだよ…
    この苦難によってあなたは優しくなれる、強くなれる、成長できるんだよ…
    この困難は乗り越えられる人にだけ訪れるんだよ…
    といったような答えがよく返ってくる…
    しかし、この本には…
    それらは違う、と書いてある…
    自分の幼い子供が奇病にかかって、余命十数年と宣告されて、絶望の淵を彷徨ったユダヤ教のラビ(ユダヤ教の教師)…
    神に仕える著者の辿り着いた答えが書いてある…

    ユダヤ教のラビの話だし、副題に現代のヨブ記とか書いてあるからややこしいとか小難しいとか思うかもしれないけど…
    この著者の身の回りで実際に起きた話を基に、著者のその答え、考えが書かれているので…
    そして文章に著者の優しさが滲み出ているのでスッゲーわかりやすい…
    スッと入ってくる…
    マジで優しく語り掛けてくれている感じ…

    ボクはユダヤ教やキリスト教の信徒じゃないし…
    現実と宗教をギリギリのところで折り合わせている感じもして、ちょっと、ん?と思うところもあるけど…
    でも…
    ああ、こういう風に考えるとイイんだな、とか…
    そういう考えもあるんだな、と…
    いくつも響きました…
    まだ潰れそうになるほど深い絶望に陥ったことはないけれども…
    この本を先に読んでおいて良かった…
    もしそんな時が自分に訪れたら…
    この本は例え僅かだとしても、立ち上がるヒントになってくれると思うし…
    もし、周りに深く絶望している人がいたら、ヨブ記のようにはしない…

    私たちにできることは、「なぜ、こんなことが起こったのか?」という問いを超えて立ちあがり、「こうなった今、私はどうすればよいのか?」と問いはじめること…

  • およそ宗教と名のつくものに対して全く浅学非才な自分がこの本について言及してTLをひどく汚すことへ、本書に習ってツイッターの神様的な何かへ向かって赦しや救いを乞うのではなく、選択の決断と意志のみを祈り求めたい。
    ユダヤ教のラビである著者が、早老症によって息子を幼くして失った自分自身や同じように理不尽な不幸に襲われた人たちにとって題名の通り「なぜ私だけが苦しむのか」ということについてヨブ記を引用しながらその後の生き方について提言した、示唆に富んだ本だった。
    理不尽な不幸によって自分が失ったり傷つけられたりした何かを他者と比較して嘆き怒り憎むことは、その何かを自分が悪の方向へ殉教者へと導くものに定義してしまうことである、と。逆にそこから生きる意味や残されたものへ心を留める寛大さを見出し、失ったものを人生に対する証としなければならない。
    前提としてそもそも神様的な何かは全知全能ではなく、常に善の味方でもなく、諸行無常的にどのような人々にも大なり小なりの不幸は降り掛かってしまうものだと言っているのはとてもびっくりしたwじゃぁなぜ一見無力な神を信じ宗教に頼るのかというと、著者曰くその考え方の転換を助くる為だと。
    悲しみから前を向く為に、「君がどうやってこの悲しい状況を耐えているのか分からないが、力になりたい。どうだろう、僕達に君の手助けをさせてくれないか」という、NY市民にとってのスパイダーマンのような親愛なる隣人として、神やあなたの周りの世界は存在するという考えはとても素敵だった。
    幸い自分や家族にまだ大きな不幸は訪れていないけど、いずれ来るかもしれない突然の病気や911,311みたいな悲しみに対する構えをしたい僕を含む人や、もっと言うと正にリアルタイムで苦しみの渦中にいて嘆き怒り憎む人にとっても一助となる本だった。宗教は怖いのだわ…(神秘的、という意味で)

  • 悩める人のための宗教なのか,宗教に人間が合わせられてしまうのか.宗教の名において人間を侮辱,抑圧する物言いに鋭く切り込んでいる.また,悩み,苦しむ人へ寄り添い,尊厳を見出す姿勢はある種の希望だ.

    宗教家はもちろんのこと,カウンセラーや医師など,ある種の極限状態にある人に接する人は益するところが多いだろう.

    ・ヨブは助言より同情を必要としていた.忍耐と敬虔の模範たれと進める友よりも,怒り,泣き,叫ぶことを許してくれる友を必要としていた.
    ・罪意識,あるいは「私の責任だ」という感覚は,きわめて一般的なもの.
    ・不倫:彼は罪の意識をもっと感じるべきなのだ.
    ・ジャック・リーマー「リクラット・シャパット」の詩(誓願の祈り)
    ・祈りは結び合わせる.『宗教生活の原初形態』(デュルケーム)
    ・モーセの石版の喩え.自分のしていることの意味が分かれば,大抵の重荷は耐えられる.
    ・彼らを悪魔の証人にしてはいけない.いのちの証人にするのだ.
    ・答えという言葉には,説明ということと同時に応答という意味もある.

  • 3.93/766
    内容(「BOOK」データベースより)
    『幼い息子が奇病にかかり、あと十余年の命と宣告される―理不尽と思える不幸に見舞われたラビ(ユダヤ教の教師)が絶望の淵で問う。神とは、人生とは、苦悩とは、祈りとは…。自らの悲痛の体験をもとに、旧約聖書を読み直し学びつかんだのは何であったか。人生の不幸を生き抜くための深い叡智と慰めに満ちた書。』

    目次
    1章 なぜ,私に?
    2章 ヨブという名の男の物語
    3章 理由のないこともある
    4章 新しい問いの発見
    5章 人間であることの自由
    6章 怒りをなににぶつけるか
    7章 ほんとうの奇跡
    8章 ほんとうの宗教


    冒頭
    『 1章  なぜ、私に?
     ほんとうに重要なただひとつの問い

    なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか?
    この問いこそが重要なのです。これ以外のすべての神学的な会話は、気晴らしにしかすぎません。たとえば、日曜日の新聞のクロスワード・パズルをしているようなもので、うまくことばをはめこめた場合には、ちょっとした満足感を得ることができますが、しかし結局、ほんとうに悩んでいる人びとの心を満足させることはないのです。実際のところ、私が神や宗教について人びとと有意義な話ができたときというのは、この問いから始まったときか、それとも結局この問いに向かっていったときなのです。』


    原書名:『When Bad Things Happen to Good People』
    著者:H.S. クシュナー (Harold S. Kushner)
    訳者:斎藤 武
    出版社 ‏: ‎岩波書店
    文庫 ‏: ‎257ページ

  •  邦訳タイトルの通り、幼な子が亡くなったり、愛する人を失ったり、難病や障害に冒されたりする、そうしたとき人は、なぜほかの誰かではなく、この自分が苦しむのかと、自問自答し、嘆き、他者や社会、神を恨む。

     善良な人がそうした不幸に見舞われるのははなぜか、そして、そのような不幸に見舞われたとき、人はどうすべきなのかとの重い問いについて、奇病にかかり若くして亡くなった息子を持つ著者が、その悲痛な体験を通して考え抜いた、その考察を記した書である。

     著者はラビであるので、神から実に悲惨な苦難を課されたヨブを巡る物語、ヨブ記についての解釈を始め、神についての考察を様々に行うが、抽象的に神学を論じるのではなく、人間の不幸に関する問題を、具体的に丁寧に考えていくので、一神教の信徒ではなくとも違和感なく同調できる。

     自分が苦しむ立場になったとき、あるいは苦しむ家族や友人、知人に接することになったとき、本書の教えは大きな支えになってくれるであろう。

  • 以前から読みたいと思っていた本だが、なぜか江東区内の図書館になく、そのままになっていた。
    たまたま、日比谷図書館で出会い、運命を感じてそのまま借りてきた本。

    毎日を誠実に思いやりを忘れず、生活を送っていたら、私達に不幸は起こらないだろうか?
    そうであってほしいが、残念ながらそんなことはない。
    誰にもなんの落ち度がなくても、人は病や事故に襲われたりすることがある。

    作者はユダヤ教のラビでそのようなケースをたくさん見てきた上に、自身もお子さんがすごい速さで歳を取ってなくなってしまうという不治の病をもって生まれてきた。

    そんな時、宗教を持つ人々が慰めとして、かける言葉がその家族や本人をとても傷つけてしまうことがある。
    なぜなら、それが神の思し召しだと言うには、そうなるだけの理由を神の側に見つけなくてはならないからだ。

    著者は言う。
    神は人間にだけ選択の自由を与えた。
    そこには、必ずしもいいことを選ぶとは限らない、そしてそこには悪いことを選ぶ自由もあるのだと、それに対して、神は自由を与えた以上、そこから悪いことを選択肢として人間が選んでもそれを軌道修正することはしないのだと。

    では、神を信ずることに、祈りを捧げることにどんな意味が‥というのが、最後の部分。

    いろいろなことを考えさせられる本だった。

  • なぜ私だけがこんな目に遭うのだろう、何の悪いことをしたのだろう…
    そう思ってしまう気持ちに寄り添うことの大切さを書いた、ユダヤ人ラビの著書。
    稀に人の身に降りかかる例外的な不幸な出来事は神が起こすものなのか否かというところから、神の存在意義につながる宗教的な話。

    けれど、強い宗教観を持たない私が全く理解できないわけではない。例えば、不幸な事件で命を落とした現場に花を供える人たちの行動は、まさにこういうことなのだろう。亡くなった方の遺族へ対する「あなたは1人ではありませんよ」という心強いメッセージにもなっているのだと気がついた。
    ともあれば、逆に不幸に見舞われた人にあれこれ口出しをする人が多くもある。これは「不幸な出来事はバチが当たったからだ」という考えが根強く浸透している日本というお国柄もあるだろう。

    人間はもちろんのこと、神さえ不完全であるこの世の中を、あなたは愛せますか、という問いに、未だ答えが出せずにいる。

    宗教的な考えは分からないからと敬遠せず読んでみることをおすすめしたい。

  • 神は全能ではなく、全能ではないが善であるという論理が新鮮だった。
    教会では神は全知全能とされるので。

    神が全知全能であり、等しく私たちを祝福し愛するのであれば、なぜこの世には苦しみが存在するのか、原罪を差し引いても不思議だと思っていたが、前提を崩すことで納得出来た。

    良くも悪くも自業自得というか、この世の全てに意味があるという思想がよくある。障害者の親は選ばれているという話も嫌いだった。苦しみは罰ではなく運が悪かったとして受け止めるほうが、個人的には楽で良い。

    人生が充実している人は自分の行いのため、神の祝福ため、苦しみの中にある人は運が悪い、神の手の届かない事象だと思って割り切るのがいいかも

  • 生死に立ち会う局面もあろう仕事に就くことを機に買った本。そこから4年経って読み直してみた。

    理不尽な苦しみは、神によって成されたものではない。
    大きな苦しみにぶつかったとき、「なぜ神様はこのような苦しみを私に与えたのか」「それほど信仰深くは無かったが、酷いことなどしていないのに、この仕打ちはあんまりだ」と考えてしまいがちだが、それは間違っている。

    神にも力の及ばないことは多くあり、事故や死は私を懲らしめるためのものでは決してないということ。

    そんな神に、誰が祈りを捧げるものか、と。

    大切なのは、苦しんだときに心を寄せてくれた人がいたということ。(他にもあったけどこれが一番印象的で忘れた笑) ここからどう進んでいくかということ。

    何か自分の身に、抱え切れないほどの悲しい出来事が起こってしまったとき、もう一度読み直そうかな。

    悲しみの理由探しはしないようにしようと思った。

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