- Amazon.co.jp ・本 (475ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022574046
作品紹介・あらすじ
90年代とは、いかなる時代だったのか?徹底化されたポストモダンに対峙しながら、複数のモードを越えて、真に思考することの意味を問う。デビューから現在に至る論考の軌跡。
感想・レビュー・書評
-
ー アカデミックな批評には社会的緊張がなく、逆にジャーナリスティックな批評には知的緊張がない。つまり前者にはメディアの意識がなく、後者にはメッセージの意識がない。言うまでもなくこの二極化自体、批評を多少は貧しくしている。
しかしここでより重要なのは、90年代ではその両者が単純に対立するのでなく、むしろ相補的な役割を担って共存しているという奇妙な状況である。二つの批評のその棲み分けは、例えば浅田彰と福田和也の関係を考えれば分かりやすい。 ー
20年代を生きていくにあたり、なんとなく80年代、90年代の振り返りをしたくなり、なんとなく東浩紀にたどりつく。
シン・エヴァンゲリオン劇場版の完結編の公開があるのも理由の一つかも。
ジャック・デリダに辿り着かなく、結局『存在論的、郵便的』も読んでない。ドゥルーズ&ガタリも結局読んでないし、サルトル、バタイユあたりで個人的趣味は止まっちゃったんだろうな〜。
でも、これ読んで『存在論的、郵便的』は読みたくなった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
わたしが東浩紀という思想家に興味を持つようになったきっかけは、彼のデビュー作たる「ソルジェニーツィン試論」。本書はそのデビュー作を含む様々なテクストが収められています。東浩紀はデリダ研究だったり、おたく系の社会評論だったり、小説も書くし、3.11以降は政治的な発言でも目立っているし、いろいろやっているんだけど、これを読めば東浩紀がほんとうに一貫した問題関心を持ち続けていることがよくわかります。超越論と経験論、幽霊、郵便。その一貫したあり方は、存在論的問題と倫理的問題を追求し続けた柄谷とも重なる。これ読んでると哲学書を読みたくてたまらなくなる。あと、東浩紀は文芸批評と思想を繋いでいた最後の人だったんだなあ、って。若きあずまんによるキレキレの文芸時評を読みながら、思想・哲学と文学が乖離している今の状況はやっぱりおかしいとおもった。サブカルが文学の代わりみたいに見られてるけど、結局作品に解釈を施す作業、その解釈の最も洗練された形としての哲学や社会批評を考えるとき、サブカルじゃ不十分だ。解釈の最高に深遠な形を提供出来るのは文学に他ならないし、それは歴史と制度の問題もあるんだけれども。捨て去るにはあまりに惜しいものでは、ないのでしょうか、わたしだけですか。
-
地元の図書館で読む。期待していませんでしたが、非常に興味深い本でした。文庫になっているので、購入することに決めました。アニメに関するエッセイを読みました。この時点で、非常に説得力のある文章です。エバの衝撃に直撃されたんですね。僕は、エバ直撃世代なのですが、スルーしました。毎度のことながら、僕は、流行と無縁の人生です。
-
ちょこちょこ読むのはおもしろい。
-
\105
-
ラカンをも越えジャック・デリダですから。それでいて萌え系ですか?