- Amazon.co.jp ・本 (198ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022731180
感想・レビュー・書評
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まさに「碩学の新書」であるが、阿部謹也をこの本から読むべきではないと思われる。
彼の「世間」へのアプローチはまさに碩学そのもであり、それを辿らなくては理解の奥行きを広げることもできず本質に迫ることは到底ありえない。
死期が迫っていたこともあり本書での経験に根差した現状批判は珍しく熱く激しいものであり、遺言のアジテーションのようでもある。
平易にようでいて事の本質に辿りつけない…「世間」とは一体何なのであろうか?
面白くとも難しい…主客分離の迷宮に踏み込む楽しさを味わおう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「世間とは何か?」の安部謹也の、死ぬ寸前まで書いていた遺作です。彼は、結局行動としての「世間」への対し方は書かなかったように思う。というのも、彼の「行動」は世間に対抗するというよりも大学人の立場でいたのだから、そうしたとしてもひどくはがゆかったに違いない。公演などで出会う人には実践派がいて感心してはいたのだが。
この本で重要なところは、同じ近代化を西欧に習って成し遂げた日本の場合と見習った相手「西欧」とのそのプロセスの徹底比較であろう。日本はまるまる西欧の近代化を受け入れたわけではなかった。西欧の「それ」が日本に合わない場合や「欠点」などは切り捨てた。その切り捨てられた部分が日本の奇習である「世間」として温存されてしまったのである。その典型例が、かって西欧にも存在した「賤民」の問題である。被差別集団や、賤民はにほんと同じように社会構造的に形成されるしくみは同じだったのである。西欧の近代化はその構造の消滅に成功したが日本は現代まで残っている。日本は構造的に「世間」までもは変えなかったからである。今となってはこういう言説は非常に重要である。一般に日本は差別的傾向が目に見えない形で内向化する傾向にあるが、これも世間というものを非理論的なナ所に置いてしまった結果なのである。