- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784044089047
作品紹介・あらすじ
仏教について何も知らない哲学者が、いきなり仏道に入門!?ゼロから刻苦勉励を重ねて、仏道とは何であるかを自得できるのか?レヴィナス、ヒューム、ラカン、カント、デリダ、甲野善紀、マタイ伝-。思想と身体性を武器に、常識感覚で果敢に宗教に挑み、「悟りとは何か」「死ぬことは苦しみか」「因果とは何か」「日本人の宗教性とは」など、根源的なテーマについて、丁々発止の激論を交わし合う。知的でユニークな仏教入門。
感想・レビュー・書評
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内田樹×釈徹宗の対談本。どちらかというと対話を楽しみたい人向けの本ですが、仏教の話が散らばっているので大事なところだけメモすれば仏教のエッセンスは分かるかと思います。心に響いたのは「限りなき自分への執着心こそ、苦しみを生み出す」という部分。苦しくなる前の自分の行動や考え方を振り返ると、自己中心的だったことに気付き、自分への執着心をなくそうと思いました。
p18
わたしにとって重要であり、私がそれをぜひとも手に入れたいと望んでいるのは、「私が知らない情報」であり、かつ「『私はそれを知らない』ということを知っている情報」です。
(中略)
ですから、私が聞き耳を立てる言葉があるとすれば、私が「知りたく思っていて、知らない」ことにかかわるはずです。
p29
本来、〈自因自果〉といって、自分のまいた種が自分にふりかかるのが因果律ですから。つまり「自らの行為や思考が、自らの未来を形成していく」わけです。
p32
そもそも仏教思想に拠れば、自由の主体である自己そのものも、実体があるのではなくさまざまな条件や刺激への反応という形で寄せ集められた一時的状態であるとされます。
p62
私たちはあらゆる出来事について、あらゆる「原因」を想定することができます。そのときに、「豊かな原因」。探し求める活動的な知性と、「貧しい原因」で満足してしまう凡庸な知性の間には歴然たる「差」が生じます。
(中略)
たとえば、わが身の不幸を単一の「原因」(誰かの悪意とか幼児期のトラウマ)に帰して「納得できる」人間と、無数の前件の複合的効果として受け止める人間のあいだには、人間性の深みにおいて際立った差が生まれるでしょう。「無数の前件」の中には、自分の知らない、自分の理解を超えた、自分の経験の枠組みに登録されていない出来事も含まれます。
そのような「知ることのできない前件」の可能性を想像できる人間は、自分が宇宙開闢以来の無限の出来事の連鎖の一つの結節点であり、自分のなにげない行為もまた、他の多くの人々にはかりしれない「結果」をもたらすことの可能性にも思い至るはずです。
p71
苦諦は「生きていく上でどうしても直面せざるを得ない苦しみ」です。いわゆる「老いる」「病む」「死ぬ」などが挙げられます。
集諦は「苦しみを生み出す原因」です。つまり「無明(本質がわからない、わかろうとしない)」、「執着(固着してしまうこと)」などです。
「すべてが刻々と変化し続けていることを実感できず、こだわり、しがみついている者は、老い・病・死などの苦しみに身をこがす。悲しみや憂いといったさまざまな苦悩をかかえることとなる」
限りなき自分への執着心こそ、苦しみを生み出す、というわけです。〈集諦〉が原因、〈苦諦〉が結果という関係になっています。
滅諦は「苦が解体された状態」です。仏教の理想です。
道諦は「滅諦に至る道筋」です。八正道という実践法か一般的。
「八つの正しい道、すなわち、正しい言葉や正しい心の統一を実践することによって、誰もが、執着を滅ぼすことができる。悟りに達することができるのである。」
執着が最小限になれば、苦しみも最小限です。自己への執着を滅すれば、苦悩も滅する。
ということで、〈道諦〉が原因、〈滅諦〉が結果、となっております。
p110
仏教の理想をひとことで言うと、〈無執着〉です。なにものひも執着しない、ここを目指します。
p139
日本人には「制度化・体系化された宗教」が苦手であることを、良し、とする傾向があります。これは「信条や思想をはっきり表明しない」ほうが、共同体の中に埋没するには都合がいいからかもしれません。
p157
仏教は、此岸(こっちの岸、迷いの世界)から彼岸(向こう岸、悟りの世界)へと渡る、というベクトルをもっています。なんでそんなところに行こうとするのか、といいますと、こちら側だけの視点じゃ問題が根本的には解決しないと考えるからです。こちらの岸では、自分を中心とした執着から離れることができない。たとえば、私たちはうれしいことがあれば、いつも見ている景色が輝いて見えたりします。逆に、悩みがあればまわりの景色も目に入らない......。自分を基点にして、現象を認識しているわけです。これが此岸。それに対して、その基点を解体すれば苦は軽減される、というのが向こう岸の智慧です。
p159
布施には、財施・法施・無畏施といったものがあります。
財施とは、自分の所有物を分け与えることです。自分のものだ、と思ってぐっと握っている手を離すトレーニングですね。執着を離れる実践として代表的なものです。法施は、狭い意味では仏教の教えを他者に話すことですが、広く「智慧と慈悲を伝える」ことであると考えてればよいと思います。
無畏施とは「畏れを無くす布施」ですね。たとえば、笑顔で挨拶すれば、相手の方はこちらに畏れを抱かないわけです。それは布施なんですね。
(中略)
ほかにも「無財の七施」といった財産などまったくなくてもできる布施がありますよ。無財の、布施として有名なのは、〈和顔愛語〉です。浄土真宗が所依の経典としている『仏説無量寿経』に出てくる言葉です。やさしい顔つき、親しみと愛情と思いやりのある言葉遣い、立派なお布施です。
p163
耐えるとは、他者を許すことや自分を許すことだからです。
p184
宗教とは「思い通りいかない=苦」であるこの世界を、自己自身を目覚めさせていくことによって受け止めていく体系ではないでしょうか。つまり、「不条理な苦を引き受けていく」システム、といった一面があると思います。
ところが、思い通りいかない世界を、傲慢にも「なんとか自分の都合通りにしてくれー」と超越的存在におねだりしてしまう。「おねだり」が根底にあるからこそ、ただひたすら宗教体系に従順な態度をとる。これは一見、宗教的受動性に富んでいるような態度ですが、「苦を引き受ける」態度とはまったく逆のベクトル。
ゆえに、「おねだり」をエサにする制度宗教は、宗教性を成熟させません。つまり、入信したら「こうなる」、この教団に協力すれば「こんなに幸せになる」、という体系をもつ制度宗教はすべて信用できない、という結論に達します。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
とてもとてもよい本だと思います。たまたまヒュームの人性論と並行して読んでいたけど、ヒューム読みにくすぎるのでこっちを先に(もっと同じことを易しくかけるはずでっせ、ヒュームさん)。因果とか善悪、印象、観念などについて考えているときなのでとてもよかった。仏教徒は、、、ではなく、因果とは、善悪とは、、、という問題を起点に仏教を釈先生が解説されていて、優しい語り口なのにとても本質的です。期待以上でした。
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手近なものを集めて感謝の意を表しましたという、祈りに対する「恥じらい」が宗教の純良さを担保。「ワンアンドオンリー」の完全な儀礼で「これだけやっとけばザッツオーライ」という考えに「神への不敬」を感知。「できることはなんでもやっちゃう」のが信仰心の本来の姿。ブリコラージュ。野生。
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内田樹が、浄土真宗の僧侶である釈徹宗を相手に、仏教の根本的な思想についてたずねるという趣旨でおこなわれた往復書簡をまとめた本です。二人のやりとりの合間に「間狂言」という章が挟まれており、釈が仏教の基礎についてコンパクトな解説をおこなっています。
おそらく内田の方の心積もりとしては、彼自身の宗教に関する突っ走った議論を、釈が仏教の立場から広く大きく受け止めるという展開を期待していたのではないかと忖度するのですが、どうも内田の投げかける問いのエッジが利きすぎている印象を受けました。むしろ、釈の仏教概説に、内田が自由な立場からコメントを入れるという構成の方がよかったのではないかという気がします。 -
「『寝ながら学べる浄土真宗』という過激なタイトル」(文庫版のためのあとがき)の企画から始まった、インターネット上での往復書簡を書籍化したもの。
西洋思想を交え、「宗教」とは何かという方向に展開しつつ、ばっちり仏教の解説にもなっています。
仏教の歴史(大乗メイン)や基本の教え、イスラームや日本人の宗教性についても間狂言で勉強できて、かなり盛りだくさんな内容。
読み物として普通に読んで面白いのはもちろん、「宗教」や「仏教」が何かいま一度考えたいときにも読みたい一冊です。
特に興味を引かれたのは、その9あたりからの、レヴィナスの「善性」について。
往復書簡は『はじめたばかりの浄土真宗』に続きます。 -
内田先生の研究室(ホームページ)にあるインターネット持仏堂に訪れ法話をしてくれるお坊さまが、この本で登場する釈先生。内田先生の宗教学のメンターでもある釈先生との往復書簡形式で宗教の基礎を学ぶやりとりが載っています。噛み砕いて書いてありますが、それでも簡単ではありません。しかし、どこか楽しい感じの本です。
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仏教入門というタイトルですが、むしろ宗教観や倫理観の構造解明といった、もっと精神の根源に触れる内容です。
日本人の、謙虚さを重んじながら平然と「無宗教です」と言い放てる二律背反の根拠が分かりやすく解説され、映画や絵画作品の多くが共通のテーマを孕んでいる理由も分かった気がします。
子どものころ、叱られて「あのときああしなければ」「こうしていれば」とくよくよするたび、すべての後悔が「この世に生まれて来なければ」「地球上に人間がいなければ」に辿りついてしまう不思議に震えていたあの感覚を、ふと思い出しました。
自分は何のために生まれたのかを問いづつけるのは、人の本能なのだと思いました。
図書館で、調べもののために手に取った一冊でしたが、目から鱗の開眼書でした。買って繰り返し読みたいと思います。 -
これも一押し