「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061494398

作品紹介・あらすじ

「心」とは意識のことか。意識プラス無意識か。では意識とは何なのか。「錯誤」を手がかりに、脳・認知科学の最前線から「心の全体像」へ迫る快著。

感想・レビュー・書評

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  • だまし絵について私たちがだまされるのは、
    本当は正しい判断をしているからではないだろうか?
    という点をいろんな研究の内容から考えている本だった。
    後半は、意識と心と体は、それぞれにつながっているので、
    分離して考えるよりも統合して考えるべきもの、
    という話になっていた。
    このあたりの内容というのは、特に目新しい、という
    内容でもないので、この本を読んでも
    「結局、意識とか心とか、そういうものの存在は推測の
    範囲を現代でも脱していない」
    ということになっているようでもある。

  •  ヒトには、信じたいこと、望んでいることを確認したい欲求がある。人々の大半は、自分が平均以上に知能が高く、平均以上に公平であり、平均以下の偏見しかもたないと思っている。

     「誰でも自分が優れている(まともである)という証拠を欲しがっている、はじめからそういう証拠だけを探し、それに反する証拠に出会っても、無視するか、すぐに忘れる」また対話や討論の場面では、失敗を(また成功もある程度)目の前にいる他人に帰しがちな傾向がある。

     人は常に入手できる手がかり、特に目につきやすい手がかりに原因を帰してしまいがちだ。手がかりがあるとか、目立つとか言うときに、そこにはすでに動機要因が強くはたらいている。人は与えられたすべてをみてから動機をはたらかせて選ぶのではなく、動機の文脈に沿わないものは「最初から見えない」のである。

  • 脳科学をやるなら必読の書らしい。新書だけどほんわかした感じで読めます。

  • 意識の成立過程を追い「心」の全体像を探る。他者の心の存在によってはぐくまれる意識は、脳や心とどのようにつながっているのか。認知・脳科学の最新研究をふまえ、人間の存在の本質にスリリングに迫る。(講談社現代新書)

    関西外大図書館OPACのURLはこちら↓
    https://opac1.kansaigaidai.ac.jp/iwjs0015opc/BB00095407

  • 新書ということもあってコンパクトに「意識」の謎を整理した本なのだが、矛盾するようだが多彩な切り口から語れるとも思う。文字通り人間の意識はどこにあるのか(私の脳の中だけにあるのではなく、外部に存在する事物と「アフォード」している関係性の中にあるのではないか?)、あるいは人間の意識を薬で調節することの倫理的な是非はどうなるのか、などなど。そうした切り口から考えていくのはあくまで読者の作業ということになるので、私自身自分の関心のあるところからこの本を「使う」ことはできないかとも思ってしまった。好奇心をくすぐる本

  • 来歴ね、脳科学系でちょっと…。

  • 我々がもっている「意識」とか「心」とは、いったい何なのだろうか?そしてそれは、脳や身体といった物理的な存在やその内外で起こっている様々な現象(我々の身体的動作や環境からの刺激、それらに随伴する神経の活動)と、どのような関係にあるのだろうか?

    心理学者であり認知神経科学者である筆者が、「錯誤」という現象を切り口に、この問題に迫った本。

    目の錯覚(錯視)をはじめとする錯誤には、脳が環境を認知するときの特性が現れている。そして、よくあるだまし絵が、多くの人にとって同じような目の錯覚を起こすことからも、それは偶然起こる勘違いとはやや違った、認知の仕組み自体の特性が現れていると考えるべきものである。

    心の実態を解明するために、この「錯誤」に着目するというのは面白い観点だと思った。

    筆者は、錯誤の背景には、脳の可変性が関わっていると考えている。つまり、脳は環境に適応しながら認知を形成しており、環境が激変したときには、それまでの環境を前提にした認知と、実際の事象がうまく対応しない。そのため錯誤が起こるというのである。そして、時間がたつと脳が新たな環境に適応し、錯誤自体が解消されることもある。

    このように、脳は単に目の前の事象だけを頼りに判断をしているのではなく、その環境に適応し、過去からの知識をも動員し、総合的に認知を作り上げている。錯誤は、このような脳の認知の総合的な仕組みを、われわれに気づかせてくれる。

    そして、この環境や過去からの知識によって形成されるものを、筆者は脳の「来歴」と呼んでいる。来歴は、筆者が意識を考えるうえでの重要なキーワードである。

    来歴が脳の認識や判断に組み込まれているということは、脳は環境と独立して(環境を純粋なインプットとしてだけ扱って)機能をしているのではない。来歴は、単に情報として脳に蓄積されるものではなく、脳そのもののネットワークも変化させるし、そもそも脳と身体器官、そして外部の環境の相互作用のあり方として形成されるものである。

    本書では、幻肢(身体の一部が事故などで失われた後もその部分が存在しているように感じる感覚)や残効(身体の一部がなくなっても、残った身体の機能がそれを補うべく機能し始めること)などの例を挙げながら、そのことを示している。さらには、社会性や他者の認識についても、このような脳-身体-世界の繋がりからなる認知システムがなければ形成されないという。

    ここから本書の後半では、認知システムに関するこのような考え方を軸に、われわれの意識と無意識の関係性に迫っていく。

    筆者によると、意識と無意識は密接に関連しあっており、意識の周辺に無意識の基盤があるという。そして、その無意識の領域に、脳の来歴も形成をされており、その影響を受けながら意識が形成されてくる。

    無意識の基盤というのは身体的なもの、生理的なものも含み、それゆえにわれわれの認知は脳-身体-環境の一連のネットワークによって形成される。意識と無意識の境界線はつねに揺らいでおり、われわれが何かに気がついたりひらめいたりするというのも、実は無意識の過程が意識の中に顕在しただけということも多いであろう。

    このような意識と無意識の関係を基盤にすると、これからの意識の研究はどのように進めていけばよいのか? 筆者は、現在のところ意識自体は主観的な捉え方しかできず、そのために科学の手法が適用しにくい領域であると考えている。一方で無意識は、身体や環境と直接つながっており、それらを通じて科学の手法を用いて調べることができるという。従って、人間の心の謎に切り込んでいくためには、まず無意識の過程から調べていくのが良いのではないかと筆者は結論付けている。

    1999年に書かれた本であり、その後、この領域の研究はさらに大きく進化したであろう。また、人工知能の研究などにおいては、人間の認知や意識といったものがどのような仕組みで形成されているのかということが、大きなテーマとなっている。

    人間の意識を実装するためには、そもそも意識とは何かということが分からなければならない。一方で、本書を読むと、意識は無意識の中から現れるものであり、無意識は環境や身体との相互作用によって形成される、創発的なものであるという。このような視点は、人工知能のあり方を考えるうえでも、重要なヒントを与えてくれるものになると思う。

    また、それ以外にも、人の心と体を扱う医学や心理学の領域で、従来の機能主義的な脳の捉え方から、環境との相互作用によって形成される心という考え方への移行が進むことにより、われわれの健康に対する定義やそのために取りうる治療法に対する倫理の問題などにも、変化が生まれていると思う。

    錯視などの具体的な認知の働きを出発点に、意識や心というものに対する考え方を教えてくれる、興味深い本だった。

  • 環境に滲み出る「自分」というもの。
    輪郭は物体として存在しているとしても、自分という境界は曖昧さを抱いている。

    記憶だとか、意識だとか、あたかも、主体的で能動的であるような、認識はほんとうにそこにはないのかもしれない。

    環境に染められて、溶け出して、雑じりあっていくことで、反応するように自分の心というものが応答する。何度も何度も、いつどこで、どんな環境に身を置いたか。状況という応力に変形する自分という形がある。少しづつ姿を変えていき、一時も同じことはない。そうやって積み重ねられたいまが、自分というものを定義できたと思う、まぼろしみたいな瞬間。記憶も意識も、そして自分というものが反応的だと思う。


    感覚をもう1度、なぞりたいという欲求が人間には備わっているのだろうか。境がなくなっていく。そもそもが存在しないのかもしれない。
    でも、そのことに抗っていたい気分が、ここにはある。

    状況が、自由になっていく。言いたいことを言う。したいことをする。テクノロジーがイノベーションを導く。

    ふと、周りを見ると、怖くなる。
    同じだ。みんな同じだ。

    電車に座る全員が、同じ姿勢で、画面を見つめてる。全員だ。隙間があれば、ポケットからスマホを取り出す。
    迷いのなさに、怖くなる。


    どんだけつぶやいたとしても、どれだけの時間つながったとしても、そこに表れてくるものは何なのか。表れたと思うものは果たして何をもたらしているのか。

    ひとりひとりが自由だと言っている世界を、ふと立ち止まって見てしまうと、同じに染められていく、一緒くたにまとめられていく。環境に影響し、環境に影響され、同じように繰り返すだけ。


    述べようとしていることは、新しいことのようで、近頃ずっと考えていることと重なっていて、当たり前のように腑に落ちる。普通のことだと捉えた。

    だけど、人間というものを調べて、その在り方を、見え方を更新して示したいと思っている研究者である作者自身がそのスタートにおいて、様々な定義に捕われているみたいだと思う。その早い時点で決めてしまった定義に引っ張られているから、あたかも、自分が見出したものをことさらに、比較して、説明しようとする。いや、なんでそこからしか見れないんだろう。どうして、そこからの視点にこだわるんだろう。頭の良い、優秀なひとほど、社会というものを分かりすぎるし、その期待に応えてしまう。自分でつくった、世の中という実体のないものが作った柵を律儀に守り続けてる。そこから必死に、遠くを目指してる。そんな風に思えてしまった。


    物語を書くひととは、そこを飛び越えることから始まる。軽々と飛び越えてどこまでも行きたいところへ行ける。だから、小説は面白いんだとひとりごちる。

    もちろん、この本も面白い。

    こんなことを考えさせる、自分に小さくない来歴を残す、本というものはだから面白いものなんだ。

  •  本書ではさまざまな脳科学の実験から、意識という目に見えない存在を解明しようしている。
     錯視や残光などの例を挙げて、脳はすべての主体ではなく、身体や環境の変化に順応する能動的な存在であることが示される。このように脳が能動的に働いているとき、人は無意識である。そして無意識は、身体や他者などの外部世界をきっかけにして「意識」される。意識は無意識がなければ存在せず、意識と無意識は曖昧であるのだ。
     
     自分の心を理解しようとして読み始めたが、脳や意識は外の世界に依存していることを知った。脳を外部の影響を受けることが自然なら、脳に手を加えることを明確に否定できないことが怖かった。
     「桶の中の脳」や幻影肢、抗うつ薬投与といった哲学・倫理的な問題に科学的に解答を見つけている部分があり、本書を読んでよかったと思えた。

  • 外界すべてが脳の「出先機関」という発想がすばらしい。

  • 「意識」「無意識」、日常的に使っている言葉だが、未だはっきり解明されたわけではない。精神と物質にしても、その境界は曖昧なのかもしれない。この本は導入に過ぎない。

  • またムツカシイ本を読んでしまった…。

    なぜ難しいか。

    人間に人間は理解できないと思うけど、その限界領域のところの話だから、というのがひとつ。(章の扉にひとつ印象的な引用がある:「もし私に脳を理解できるほど複雑な頭脳があったなら、まさにそれゆえに私は脳を理解できないだろう」(エマソン・ピュー))

    そんな微妙な部分を精妙に語ろうとするとどうしても難しくなっちゃう、というのがひとつ。

    アフォなのにそんな本を買って来んなよオレ、というのがひとつ(´Д`;)。

    ま、それは仕方ないとして。

    「錯視」から話は始まる。
    「錯」というからには「間違い」なんだけど、人間(生物)の認識というのを考えると一概に「間違い」とは言えないらしい。

    このほか、意識には「来歴がある」、つまり本人の経験値と不可分であること(例えば「魂が突然入れ替わった」としても、味覚、触覚などの身体感覚が同じではあり得ない)、意識は外界との相対化によって決まる(環境や刺激があって初めて意識が“意識される”)、ということは、意識は人間(生物)の中ではなく外にあると言ってもいいことになる、などの<意識>を巡るトピックが語られていく。

    …ムツカシイなぁ…。

    面白かったのは、終盤の「意識と無意識の境目」の部分である。

    例えばぼーっと運転していてはっと我に返り、あれ、今どこをどう走って来たっけ、というのはよくあることだけど、要は<意識>は、なにか刺激やキッカケがあって初めて意識される。ということは、無意識が本来の状態なのである。

    意識は無意識に従属している。
    無意識のシミュレーションが意識だ。
    ついでに付け加えれば、意識は記憶(力)の副作用である。

    と、オレは考える者だが、それを追認できる本なのだった…読み方が正しければ(笑)。

  • 脳と心の問題を整理することで、最終的には、プロザック問題に端を発する、倫理問題にまで踏み込む。薬飲んで元気になるのは、健全なことなのか?杖やコンタクトを使うことと同じことではないのか?最近考える、AIと人間との関係にも似ている気がした。どこまでが人間でどこまでが機械なのか?

  • <目次>
    はじめにー脳と心の全体像
    第1章 錯誤とは何か
    1 神経生態学的あぶりだし
    2 幾何学的錯視は錯誤か
    3 雪が白いのはどうしてか
    4 残効は「誤り」なのか
    5 「正しい知覚」とは何か
    6 そもそもイリュージョンとは定義できるのか
    7 直感的判断の錯誤
    8 なぜ判断を誤ってしまうのか
    9 錯誤の基本構造

    第2章 脳の「来歴」−錯誤から浮き彫りにされるもの
    1 知性の潜在的文脈
    2 脳へ、ミクロの神経機構へ
    3 記憶ー環境という外部装置
    4 脳の「来歴」−順応について再び考える
    5 縞飼育ネコの知覚世界
    6 コウモリになったらどんなふうか
    7 聴覚野で光を「見る」

    第3章 心とからだと他者ー連動する脳と世界
    1 脳と環境世界
    2 身体の機能は「ブロック」に分けられるか
    3 脳に「中枢」はあるか
    4 脳は道具か、主体か
    5 認知科学は進化する
    6 心の理論
    7 心はどこにあるのか
    8 感覚的な語彙はいかにして獲得されるのか

    第4章 意識と無意識のありかー心の全体像
    1 意識は行動や物質に逃げられない
    2 「意識」の多様性
    3 無意識ー意識と世界を結ぶもの
    4 意識の「現象学」
    5 意識の科学はありえるか

    第5章 人間間と倫理観
    1 向精神薬プロザック
    2 薬物への疑問
    3 増殖するプロザック現象
    4 物質と精神

    おわりに

    2012.04.02 読了
    2017.12.02 シミルボンで再発見

  • 非常に興味深い内容だが、ちょっと文章が難しい。

  • 森博嗣のWシリーズを読んでいると「生きているとはどういうことか」とか「考えるとはどういうことか」みたいなことを考えるようになる。

    なので、その系統の本を読んでみたけど難しかった

  • すごいの一言でレビューが終われるくらいすごい。

    156p
    全体を通してのことだが、
    認知とは、記憶とは「どうやら脳内だけで完結するものではない」という主張がこのページできれいにまとめられている。

    173p
    「痛みとは何か」という問いかけが深い。そしてぐっさりと奥まで刺さる。

    さかさメガネで明らかになる意識。
    読む前に死ななくてよかった。

  • 人の意識を理解しようとするとき、脳ー身体ー環境は切り離せない関係にある。
    脳の大部分は環境の一部だという議論も可能だし、逆に身体や環境は脳の一部だという議論も成り立つ関係にある。

    第一章には、認知バイアスについての人間特有の特性が分析されており、非常に興味深い。筆者は、ヒトが認知と動機が分離できずに、意思決定にバイアスを与えている点について、それが人工知能やコンピューターと違い、ヒトをヒトらしくする本質的な側面ではないかと考察している。

    220ページにこう書かれている
    「無意識」は「意識」に比べて科学の技がかかりやすい。もしそうだとすれば、従来の科学的方法では、意識の直接性、主観性に対してはまだ歯が立たないが、無意識的な過程には切り込めるのではないか。ここから逆に意識の本質を認知神経科学の角度から探求すること。この切り口から、意識そのものが浮き彫りになるかもしれません。
    →これは、「意識と脳」に書かれていたことと全く同じだ

    【用語メモ】
    個体発生 →発達
    系統発生 →進化

  • 大学1回生の時に、面白くて唯一出席し続けた一般教養科目の参考図書です。
    卒業以来かれこれだいぶ経ちましたが、改めて読んでみたら、難しいですね。

  • 意識を孤立した脳のなかの出来事としてとらえるのではなく、脳と身体と環境との密接なつながりのなかでとらえるべきだという考え方を示した本です。

    著者は、意識を孤立した脳の中の出来事とする立場では、錯誤や意志といったものを取り逃がしてしまうことを、具体的な事例を通して説明しています。さらに最終章では、向精神薬プロザックをめぐる議論を手がかりに、自由と倫理に関する重要な問題へと議論を進めています。

    かつて哲学者の大森荘蔵が、現象論的な「立ち現われ一元論」という立場から、「脳産教」の批判をおこなったことも思いあわされます。本書は現象論的な立場ではなく、どこまでも実証的な認知科学の立場から、「脳産教」の前提に含まれる問題を炙り出すとともに、倫理学的な問題への展望までおこなっています。

  • 意識とは何かについて、「錯誤」をキーワードに考察する。錯誤が起こっているときに脳は正しく働いており状況の方が普通でない。すなわち、「錯誤は正常な認知機能の反映である」と言える。

    脳が環境に適合するように自らを変え、その結果、知覚系と行動系が環境に対して完璧に適応的なものとなる。環境が突然激変したときには、過去に根ざしたこの知覚と行動の記憶の総体が「錯誤」をもたらす。

    脳は孤立した存在では無く、身体を支配し、逆に身体に支配される。
    身体は一方で脳の出先機関であるとともに、その基礎でもあり、脳にとっての環境の重要な一部を構成するのである。

    従って、脳だけを身体や環境と切り離して考えることは、科学の方法としては有力だが、一面的である事を認識する必要がある。また、脳の中を受け身で自動的、生理的な装置とより能動的で意図的な制御者とに分けることも間違いである。人工物(薬の類い)が身体と脳に侵入するのに伴い、逆に脳は限りなくからだと世界の方向にその触手を伸ばしながら観念のねじれと現実的な問題を発生させてくる。

    脳と身体の関係につき、「錯誤」幻視、幻肢、記憶の有り様、向精神薬といったトピックスを交えその本質を探ろうとする書籍である。

  • 文章は難しいが、内容はなかなか面白かった。脳というのは実は実体がなく、自分の置かれている環境とセットで成立しているものであるという考え方は新しい気づきを与えてくれた。

  • 無意識と来歴。
    認知について知りたくて手にした本。

    どっからどこまでが意識で無意識で人間なんだろうと考えさせられる。
    記憶の外部化。対象あって記憶として使えるケースになるほど。

  • 脳と身体、環境はどのように関係しているのか。
    無意識と意識の違いは何か。
    薬物等を利用して身体の一部を変えることは良いことか、それとも悪いことか。

    これらの疑問に対して本書は、脳の「来歴」の観点から論じている。
    非常に考えさせられる内容で、最後まで興味を持って読むことができた。

  • 大学の講義録。他の脳科学の本で取り上げられてる事象もあったけれど、解釈の仕方が真摯な哲学的手続きで論じられていたのが良かった。

  • とても面白い。意識とは何かを、認知心理学の研究成果を元に考えている(99年刊なので最新ではないが)。それは、世界をいかにして認知するかという問題であり、自由意志と決定論とのせめぎ合いであり、自己と他者との参照の在り方。この一冊を読んでも題名の問いに答えることはできず、かえって疑問は増すばかりで、いかに意識の問題が曖昧で不確かで根の深いものかがわかる。
    世界の認識を扱った作品・著作は数多く出ているだけに傑作も多い(例えば北野勇作の「かめくん」はいかにして世界を認識しうるかという点を思考実験として描いていた掛け値なしの傑作だし、佐藤幹夫「自閉症裁判」は現実に世界の認識の相違がもたらした不条理を描写する)。このへんと合わせて読むと話が広がってなおのこと面白い。

  • 錯誤や錯覚、言われないと意識できませんよね。普段の日常生活が、無意識的で常に反省の連続ですね。

  • NDC:141.51

  • 友人に薦められたので読みました。

    心や精神といったものは存在しないのだ…というようなラディカルな主張を展開しているのかと思って読んでいたのですが、もっと素朴に、しかも丁寧に説明されていたのでとても共感がもてました。

    こころとからだ、あるいは内部と外部の境界線がうすれていく…というあたりは大森荘蔵を思い出しました。もう一度大森荘蔵の本も読みなおしてみようかと思います(ちなみに、この本の著者がどの程度大森さんのことを知っていて影響を受けたかはっきりとは書いていなかったのでわかりません)。

    著者が本文でもたびたび挙げている『サブリミナル・マインド』も時間があればぜひ目を通してみようかと思います。

  • 著者は、意識研究の世界で非常に重要な意義を持つベンジャミン・リベットの『 マインド・タイム 脳と意識の時間』を翻訳している。一般には前著の『サブリミナル・マインド』の著者として有名。

    本書では、「錯誤」を出発点として脳と心、意識と無意識について書かれている。脳と意識が単独ではなく、身体と環境に依存していることについて色々な角度から説明。
    錯誤の例と説明や最後のブロザック問題についての論考は面白い。

    本のタイトルの「<意識>とは何だろうか」という問いについて、うまく答えが出せているのかは良く分からない。この問いについてはオープンにされたままであるように思う。個人的には、テーマへの全体的なアプローチがぼやけているという印象を受けたが、新書なので、これでよいのかもしれない。

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著者プロフィール

カリフォルニア工科大学教授

「2019年 『潜在認知の次元』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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