- Amazon.co.jp ・本 (236ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061593534
作品紹介・あらすじ
われわれがある人を思い浮かべるときには、その人の名前とともに、その人の顔、その人の後ろ姿や歩きっぷり、言葉遣いなどをも想起する。これらのほとんどを取り外してもその人に思いを馳せることはできるが、ただ顔を外しては、その人について思いをめぐらすことはできない。他人との共同的な時間現象として出現する曖昧微妙な「顔」を、現象学の視線によってとらえる。鷲田現象学の豊潤な収穫。
感想・レビュー・書評
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人体の部位の中でも、顔は特別である。
どのように特別かというと、その個体や人格を代表するような役割を持つ。
しかし、顔という部位は状況に応じて変化し、とどまることがない。
しかも、その個体みずからはそれを適時に確認することもできない。
メルロ・ポンティ=現象学が専門の鷲田先生の、顔をめぐる現象学的考察。
確かに顔は、自分対他人、内面的意識対外面的表情などの関係性において、
間主観的な存在であり、まさに現象するものである。
家の中で、職場で、道すがら、または店先で、毎日様々な顔に接している。
お互い顔を合わせて、言葉以上の意思疎通を、表情から受け取っている。
しかし、われわれが日常生活接する顔は、真実を物語っているのだろうか。
様々な場面が生み出す表情、あるいは無表情を、日常的な文脈から少しずらして
みてみると、顔という部位をめぐって、世界の意味を問い直してみることもできる。
そんなことに気づかせてくれる一冊でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
安部公房の他人の顔がより深く読めた。他人との通路の回復。
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「顔」という主題をめぐって、現象学的な観点からさまざまな考察が思索を展開されています。
かつて和辻哲郎は「面とペルソナ」と題された文章のなかで、「顔なしにその人を思い浮かべることは決して出来るものではない」と述べて、顔が人格の座としての地位を占めることを論じました。しかしこのように、私が私を取り巻く人びとに差し向けている顔に私の人格が宿るのだとすると、私の人格はけっして私自身によって占有されるものではなく、むしろ私と私を取り巻く人びととの関係のうちでとらえられなければなりません。
著者はこうした和辻の洞察を参照しつつ、同時に「わたしは自分の顔から遠く隔てられている」といいます。なぜなら、他人がそれを眺めつつ私について思いをめぐらせるその顔を、私自身はけっして見ることができないからです。しかしそれにもかかわらず、私は私自身と根源的に一致することのないその顔を、私の顔として所有しようと「欲望」すると著者はいいます。それは、「欲望」の主体である「私」への「欲望」というべきでしょう。こうした著者の洞察は、和辻の「間柄」のような関係性のなかに「顔」を回収することをどこまでも拒みつづけています。
こうして私は、私の顔の背後にあると考えられる「私」を志向する他者のまなざしのなかに入り込むことで、自己を志向するのであり、顔はそのような志向性のせめぎあう場であるとともに、どこまでも私の志向から逃れていくような、レヴィナスのいう「老い」によって特徴づけられることになります。
メルロ=ポンティやレヴィナスの現象学を踏まえつつ、顔という具体的なテーマにそくしたあざやかな思索が展開されており、硬質な哲学的考察でありながら読者を魅了します。 -
普段何気なく見てる人の顔だったけど、こんな風に捉えるのかという驚きばかりだった。
顔は個人が所有するものか
本来の顔とはなにか
顔は常に仮面を被っている
素顔は存在するのか
自分が考えたことないことばかりだった。 -
顔は誰のものなのか。鷲田が展開していくこの推察によって、顔とはなんなのかを考えさせられる。
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自分では見えない顔。でも人間が人間を認識するのは顔のお陰だ。鷲田清一氏による顔の不思議の探求。大学入試でよく採用されている通り、文章や論理は非常に明快でわかりやすい。認知に関するレポートで参照させてもらった。
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他の方も書いておられますが、レヴィナス寄りの論調なので
そちらに拒否反応がなければ面白い読み物だと思います。
とりあえず1冊、という時にもちょうど良いかと。 -
自分の顔を自分で見ることはできない。相手の顔を通じて自分の顔を見る。それは顔というコードを共有している場で起こる。ところが、レヴィナスの説が引用されると・・・
現象学的考え方は簡単ではないが、鷲田先生の詩的な文体で思わず引き込まれる透明思考の世界。 -
現代文の問題で気になったので読んでみた。なるほど、の一言。