- Amazon.co.jp ・本 (310ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061960695
作品紹介・あらすじ
若年のある時、在俗の名門武士が不明の動機で出家遁世した。真言浄土の思想に動かされながら、同時代の捨て聖たちと対照的な生きざまを辿り、詩歌を通じてしか、いっさいの思想を語らなかった。-西行とは何ものであったか。豊潤な感性と強靭な論理で見事に展開する西行論。「僧形論」「武門論」「歌人論」の三部構成で西行のに鋭く迫る。
感想・レビュー・書評
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慎重にかんがえる、ということについて考える。
それについては吉本隆明がとてもおもしろいものを見せてくれる、と思う。
とってもとっても慎重に、かんがえる対象についての文献を選びとり、それに連なる文献も大量に読みこみ(本人は参考文献に挙げてなかったりするようだが)、そして、いざかんがえるという段になると、とたんにまったくもって誰にも惑わされずにかんがえる対象を自分自身に引き寄せてかんがえて、かんがえぬいてしまうのだ。そんなこと、無茶だと思う(なんでなのか、それをまだうまく説明できない)。が、どうもこのひとはそれをやりきってしまっている、気がする。もうすこし他にもいろいろ読んでみようか、な、と。
このひとが亡くなって、そうすると多少仕事に変化があらわれるような仕事をしているので、とりあえず古本屋で見つけたこの本を買って読んでみた。見栄はって大学生のころに読んでみようとしてぜんぜん面白くなくて投げた時よりは、少しはおもしろさがわかってくるようになってきたかもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
吉本隆明 「 西行 論 」
著者の西行像は、予想より辛辣な面もあるが、西行が生きていた時代の宗教観や政治背景に合わせた新しい西行像が見えてきた。
著者の西行像が 白洲正子氏や山折哲雄氏の西行像より 多くの示唆を与えてくれた理由
*西行の出家動機や何首かの和歌の集合からアプローチしている
*西行の歌の「心」と「世」の言葉の使い方に着目している
*平安末期から鎌倉初期の院政権争いや時代的思想としての出家など 歴史的背景を手がかりとしている
*世捨て人としての西行を讃美していない
歌人としての西行像
*宗教的な歌人→山折哲雄氏と近い
*自然に感応する自然歌人→白洲正子氏と近い
*歴史意識をもたざるえない場所にいた歌人
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西行という人物を僧形論、武門論、歌人論の3つの視点から光を当てて読み取ろうとしているが、その結果浮き彫りになってくるものは、僧ではなく「僧形」であるという純粋な宗教家からの微妙なずれや、武門として高い地位にたどり着きながらも武人としての印象の薄さ、歌人としては「新古今」的な世界を突き詰めた技巧の世界とは一線を画した西行の歌の世界といったものであると感じた。
その世界を突き詰めた先にあるものではなく、どこか距離やずれを保ちながら仏教、政治、和歌といったものに向き合うが見えてくる。
ただし、それは決して西行に対するマイナスの評価ではない。
西行は、その存命の時から後世に至るまで、様々な形で偶像化された人物であるにもかかわらず、人間としての匂いを捨て切れておらず、本書は、そのような率直さや、ある種の中途半端さといえるような融通無碍な側面を、手に取るように生き生きと描写した西行論であると思う。
そして逆に、そのような生き方をしたがゆえに、西行は結果として多くの人の共感や愛着を呼んだのではないかとも思える。
西行の歌が数多く取り上げられており、それらを読むだけでも、西行の人となりや、「桜」や「月」、「こころ」や「世」といった言葉に託した感性の持ち方が感じられた。 -
西行のしたことを、「出家僧として / 武士として / 歌人として」の3つの角度で描く。3つの章それぞれで「文体」や「資料との距離感」が変わり、読み物として面白い(野心的・実験的)。
はじめの章では、その時代に生きた人々が「家族を捨て世を捨て、出家僧となる」に至るさまざまな事例を、発心集などから読みたどり、西行の出家を「時代の流行思想」のなかに位置づける。武士の世の中が成立してくる課程で人々が抱くようになった「はかなさ」の感覚や「醒めた」諦念がどのようなものだったか。宗教の発生論と、現場での「眉唾で、とても信じられぬが、信じるしかないと思わせられる状況」を見てきたかのように描く筆致は、吉本氏の親鸞論(「親鸞さま、私はどうしても、信じられないのですが」と告げる弟子に応えていう‥「それでこそ、ありがたいことなのじゃ」)などと読み比べても面白い。
まんなかの章では、武士の世の中での出来事(政権交代)に照らし、北面の武士としての西行の足どりを探る。鍵となるのは、御成敗式目のような資料から推測される、家出をした人間が暮らしてゆくための、経済的な基盤。敗帝(負けた側の天皇)との間でかわされた、霊的な域に達するやりとりを、歌のうえで思い描くところや、藤原定家に対して、西行が「いじわる爺」としてふるまったはずだ、といったイラストレーションも印象に残る。
おわりの章では、『山家集』収録の全部の歌のなかで、「心」「月」「花」などのキーワードを数えつつ、歌のうえで、それらの役者(「心」「月」「花」などの語)が、どんなドラマを演じてみせるもの(「劇的言語帯」に入ってくる表出)であるかを、活写する。歌を口に出してよみつつ、語と語の関係で、ドラマが生成しているのだ、とみなせることに気づいたとたん、それまでもごもごと口ごもっているだけに思われがちな西行の歌の世界が、鮮やかなものとなる。定家による新古今的な歌の世界との差異にもふれられ、そのあたりは吉本の「実朝論」(西行同様、武家であり歌人であった源実朝を扱う)と比べるのも面白いだろう。
[ この本での吉本氏の資料との距離の設定方法には、独特なマテリアリズムが感じられます。吉本隆明が、ずいぶん昔のインタビューのなかでですが、影響を受けた本に「ファーブル昆虫記」(<生>の観察)「マルクス資本論」(<値>のメカニズム)「新約聖書」(<情動>の足あと)の3冊をあげていたような記憶があります。いわば、それら3つの影響力が、氏のなかで、ぎゅっとコンパクトなものに変換されている、といった感想を抱きました。]