古典と現代文学 (講談社文芸文庫 やB 1 現代日本のエッセイ)

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  • Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061962217

感想・レビュー・書評

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  • 30年以上も前になるが、高校生の頃に新潮文庫で本書を読んだ。正直言って高校生には難解だったが、断片的な受験国語では味わえない長編批評の醍醐味を垣間見たような気がする。最近、遅まきながら丸谷才一の名著『 後鳥羽院 』を読み、スケールの大きな日本文学史の読み替えに脱帽する他なかったが、その丸谷が本書を絶賛していたと知り、30年ぶりに読み返してみた。

    丸谷は宮廷サロンに和歌の基盤を見出すのだが、サロン的な遊びと大らかさを和歌に保持しようとした後鳥羽院を高く評価する。他方山本は「座」における掛け合いが俳諧の本質であるとし、その観点から芭蕉の芸術の高みと奥行きを照射する。山本は蕪村以降の俳句が発句を完全に独立させ、連歌の伝統と断絶したことに芭蕉との決定的な違いを見る。

    丸谷と山本に共通しているのは、個人の創造性を至上価値とする近代主義的な文学観から自由であることだ。文学を個人の内面に閉じこめた定家の「幽玄」について、丸谷は暗に、山本はあからさまに、その過大評価を戒めている。和歌や俳句は本来社交であり遊戯であって、語りかける相手や聞き手を想定したものだ。だからこそ「場」の空気や匂いを感じとり、軽やかに詠み飛ばすことが重要なのだ。決して自己完結的な「純粋詩」ではない。

    フランス象徴詩は詩の本質を構成しない不純な要素を作品から除き去ろうとした。だが「詩が本当に結晶するのは、かえってそれが詩にとって不純な雰囲気のなかで創られるときにおいて」であり、それが「俳諧の座」であると山本は言う。詩に同時に複数の声が聞こえる時にこそ、生きたメタファが成立する(エリオット)。こうした視点から山本は、シテの二重人格性を前提とする世阿弥の詩劇や、物語ではなく「ハナシ」というポリフォニックな言語空間を開花させた西鶴の談笑文学を再評価する。それは「和歌的叙情の否定」であり、「文学の日本的湿潤性へのアンチテーゼ」とも言えるが、山本はそこに文学における批評精神の誕生を見出す。

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著者プロフィール

1907年~1988年。明治40年、長崎県生まれ。
父は明治期の評論家・小説家である石橋忍月。折口信夫に師事し、民俗学の方法を学ぶ。昭和9年創刊の「俳句研究」編集長として中村草田男ら人間探求派を世に送り出す。昭和24年より評論家として、文芸評論のほか、俳句の評論や鑑賞を執筆。
昭和58年、文化勲章受章。昭和63年、5月7日没。

「2018年 『奥の細道 現代語訳・鑑賞(軽装版)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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