- Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062144476
感想・レビュー・書評
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「基本が大切とはいうけれど、何が基本か分かっていない」
「常にまだまだだと思っているから、スランプなどない。より高みを目指しているから、(野球に喩えると)3割では満足できない」
伝説の雀鬼こと桜井章一氏と古武術の達人である甲野善紀氏による対談。
両名とも命を賭けた現場で生きてこられただけあって「人間だけが弱い物でも生きられる」という自然の摂理=弱肉強食の原理をさらりと説く。
ブルース・リーの『燃えよドラゴン』の有名な台詞「Don't think,feel it」を丁寧に噛み砕いているとも捉えられる。
人間は脳みその10パーセントも使っていないというが、そのポテンシャルを活用するということは身体の動きと一体になるのが必須なのだろう。
とかく頭でっかちに考えてまう評者のような現代っ子にとって、この本が鳴らす警句は必読だ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
以下引用
理性信仰というか、頭に対して絶対的というほど強い依頼心を持っている。→バカな社長に牛耳られているダメな会社になってしまう
頭で考えて身体を動かしたり、使ったりするということは、要は知識でどうにかしようということです
知識に頼らないで、身体の感覚だけでいくと頭の力は一挙にかすんでしまう
20キロの石を運ぶとなると、いかに負担を感じずに運ぶかを工夫します。身体全体のネットワークを使うような身体使いが自然とできて来る
それま常識とされてきたこと、正しいとされてきたことは、それを乗り越えるものが出現することで簡単にくつがえってしまう
不利な状況を突破する動きができる身体になるには、固定観念に縛られない発想を育てる必要がある
→詩ということだと思う。
人間は環境に適応する生き物ですから、甘やかされた環境では質の向上ははかれません。不利で不自由な条件設定をするということは、きびしい環境に身体を置くということです。そういう環境に身体を適応させることで、はじめて常識を破る身体を出現させることが可能にある
不利な状況が身体に革命を起こす
不利な状況をしのいで、何ができるかというのが本当の勝負。
リスクやハンデを背負った不利な状況だと、全身全霊でむかっていかなくてはならない。そこでは劣勢をひっくりかえしていくギリギリの力が出て来る
きつい状況を与えれば身体からふだんは働かない潜在力が出て来る
こうしたらすごい力が出て来るんじゃないかと思って意図的にやったわけではありませんから。そのときはただ自然と身体がそういう状態を求めていった。計算してそうしたのでもなんでもない
寝ないといっても、眠たいのを我慢しているわけではない、本当に眠たくない
3日寝なかったらオリンピックで金メダルを取れるといわれてじゃあ寝ずにおこうというのではない。なぜか横になりたくないだけ
努力してうまくいったとき、うまくいったからといって、そのやり方や内容にこだわると、そこにある枠が出来て、さらにそこから上に伸びていかない
★それは結局、何かをせざるをえない衝動みたいなものが根本にある行動とは、まったく違う
結果として、人には努力と見えるかもしれないけれど、やむにやまれぬものが根底から突き上げるようにして作品という形になる
★努力をしてきたつもりはない、私の技は努力や才能の賜物ではない
努力ではない、その都度の違和感を見つけていく行為
強い身体とは、すべてを使って変化に即応する身体
品格-自分の弱さや限界を知る、つまり自分の分を知ってゐること
★品性-運命の決定と自由、偶然と必然のギリギリの境目に立ってるような身体から滲み出る
★黒か白か、何でも物事がはっきりしていないと落ち着かない。その中間にある曖昧なもの、矛盾したものは認めがたい。そういうものを認めてしまうと混乱してしまうから。
→そうか、はっきりしていなくて、割り切れなくて良いのだ
わかりやすさ病
「気がする」という感覚でやっている
感じる力が強くなってくると、実際無駄な思考はあくなってくる、ダメな知識かどうかもわかる
相手の押してくる力に合わせてこちらは力をかけないで抜いてゐる。
力があるやつとか、タフなやつらに合せるためには、自分が力を抜いて、ぬいた力でぶつかっていかないと、ただエネルギーを浪費しちゃう。
抜くことによって相手の力をもらってそれをそのまま相手に還す
力を抜くといっても、無気力とは違う
自然にのびやかに動くというのは、とらわれるなということです、いまはいろいろ刺激するものが多くて、それに人がとらわれやすい
★★こうやって動かそう、ああやって動かそうということを止める。意識で頑張ってやるというのは、どこか力んで、そこを変に使っているから、それをやめればいい。
★★意識して何かしようというものが強くなると、コントロールする気持ちが出て来るものですが、コントロールというのは、しょせんたいしたものではない。
★感情や自己をコントロールして、成功しようとなってしまう
★海に素で潜るとき、潜ろうという気持ちを持つとうまく潜れません。すぐに苦しくなって「かえろう」という気持ちになる。でも潜ろうという気持ちを忘れると楽になるんです。海という自然に身を任せていると、ふだん使っていない身体の部分が動きだして。まさに「止める」ということ
→ぼくがこの1年やっていたのは、まったく「止めて」なかったんだなと思う。
麻雀やりながら、どんどん離れていってる
自分がやるんだというのではなく、自分も相手もなく、ただ下へ下がる。そこにはある種の同調性がある。相手と同化していて、自他の区別がなくなる
→ぼくがしていたのは、「はやく片付ける」こと。一日の全部それ。反省
自然に水が流れ込むところに流れ込むという感じがおこうると、できないんじゃないかという不安要素が消える
スランプというのは、いいときの自分と比べるからそうなるのであって、私の場合は自分がいいとは思ってないから、スランプとは思わない
イチロー-スランプがない。あったとしても、その時期その時期で研究している。
調子をスランプという言葉ではなく、波の高い低いで捉えている。人間も自然のものだから、変化の波があって当然。だから波が少し低くなっても当然。慌てる必要もない
調子が悪い時も、それは紛れもなくその人
★いいことがあるとそれを、物差しにしてしまうが、そんな物差しを目安にすると、ショッチュウ調子が悪い、スラプだとなる
★不調こそわが実力。そう思っていれば、本当に不調のときでも平然としていられる。自分の実力はこんなものと\受け入れればスランプなどない
求めるべきは、安住や安定ではなく、試練や困難。
こうなりたいとか、こんなことを実現させたいとかある目的を持ってやるとだめ。
過程を楽しむ感覚があれば、頂上に向かう一歩一歩に味わいがある
→僕に足りないもの、圧倒的に。
山登りでも、頂上に立つことを目的にすれば、どの途上は苦しいし楽しくないんじゃないか。でも過程を楽しむ余裕を。
★目的をもって修行しようとか研究や練習をしようという意識や発想はありませんでした。そのときそのときにらるべきことをやったという感じが強い。やっているうちにはたと気づくと、こんなことができるようになっていたというふう
子どもは放っておけば、自然と危ない道にいく
厳しい道を選んでいると、厳しい局面に出くわしてもそれが楽に対処できるようになる。厳しいほうを選ぶといろんなことが楽になる
700メートル、1000メートルまでは厳しいけれど、1500メートルあたりから急に楽になる
矛盾を矛盾のまま矛盾なく扱う
矛盾なんだけれど、それを前向きに飲み込んで展開して行くセンス
人間は頭でいろいろ考えるから矛盾に苦しむ
便利さを追求する世の中で、あらゆることが便利になっているけれど、人間関係だけは便利にすることができない。そのストレスが、家庭崩壊やら、職場の人間関係のトラブルを加速させている
→まさに自分だ。現代の申し子だな。
人間関係をつくっていくことは、そんなパット手軽にできるわけじゃない
★なんでも便利になっているのに、人間の子育てってどうしてこんなに手間がかかるのみたく、イライラしている。それはもう便利主義が生み出した弊害。便利さに親しみすぎたために、不便な他人との人間関係に対する許容範囲が狭くなっている
→全部僕の話だと思う。僕は全部スイッチみたいにやってる。とにかく早く片づける、おわらせる。そこには自分はいない。
★便利主義は、なんでも自分の手中に収めて思い通りにコントロールしていくことがテーマ。
便利な感覚を追い求めていくと、人間関係も便利にしようという感覚になるだから、利用できる人と付き合いたいと思う様になる
人間的にバランスを磨いてきた者は人間関係においても柔軟だし、タフ。
まわりに振り回されない、自分だけの価値観で人生を歩んでこられた。
★生身で生きていない。世間の価値観ではなく、自分の実感から出て来るような価値観、生きたナマの価値観でやっていくこと
マニュアルは、生きることを機械のようにする
→習慣もそうだ、毎日同じ時間に同じことなどやらんでよし
存在感-周囲の空気、相手の空気を感じる力のありかたからきている。生きる姿勢がそのまま出ている
専門化-そこから疑問をもたずに考えなくなる。
専門家は、自分の関心あることを部分でしかとらえない
部分にとらわれたら全体はつかめない
-書も建築もまさに -
やはりこの人の本は最後まで読む気になれない。
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床屋談義の典型みたいな対談。
熱烈なファンはこのありがたき教えを拳拳服膺するんだろうけど、そうでない僕にとっては「お、おう。じゃあ、そちらはそちらで盛り上がっといてくださいな。。。」と退出したくなるような本。
にしても、甲野さんの「いろんなスポーツ選手を相手に、彼らができない動きを披露した」なんていうエピソード、ほんまかいなと非常に疑問。ほんとにそんなことができるんだったら、科学者なりトレーナーなりが必死でその動きを研究してると思うんだよね。氏の言うとおり「理解できないので見なかったことにする」やつなんて実際いるの?目の当たりにしたのなら、普通は「なんとか自分のものにしたい」って思うって。
などというツッコミは本書にすべきツッコミの1割に満たないくらいで、もっといろいろ突っ込めるが、まあ繰り返すことになるが彼らを信奉する人たちにとっては示唆的な文章がたくさんあってよいのではないでしょうか。
あ、あと、桜井章一という人には興味を持った。ちょっと彼に関する本は読んでみようと思う。 -
麻雀の裏プロとして頭角を現し、20年間「代打」として20年間負けなしの無敗伝説を作り、『雀鬼』の異名をもつ桜井章一さんと、武術を研究し、身体の使い方や古来の武術の術理を探求する甲野善紀さんの対談本。
内容は、麻雀や武術の話というより、現代の社会や人の感覚、生き方についての対談がほとんどで、麻雀や武術の話は例えとして出てくるくらいだった。
人間が豊かになろう豊かになろうと、自然から離れ、本来もっている感覚をなくし、ただ楽であることを求めた結果、場の空気を読めなかったり、身体が弱くなったり、ちょっとでも困難なことは避けて通る人が多くなった。
本来、身体と心は一緒に成長するはずだから、「こいつは技術はいいけど、メンタルがちょっと。」みたいにバランスの悪い状態になるはずがない。技術が上がるときに心も成長するものだし、心が成長するにしたがって、技術もついてくるというのが当たり前。受け売りの精神論だけで講釈をたれたり、誰かに教えてもらっただけの技術やウエイトトレーニングでつけた筋肉の鎧を着て、自分はできるつもりになっている。
そういったバランスの悪い身体は、スポーツ界や武道の世界にも多く、何年もその種目に打ち込んでいるトップクラスの人でも桜井さんや甲野さんが「こうすれば、もっと身体が楽に動けるんじゃないか」と実践すると、100kgを超える柔道家からも崩されなかったり、逆に押さえ込めたりしてしまう。
中にはそんな身体の使い方に興味をもつ人もいるが、その多くは、自分が長年努力してきたものを覆されるのがいやなのか、なんとも微妙な空気になってしまう。
幕末以前、つまり西欧の文化が入ってくる以前の日本では、飛脚は何百kmも走り、農民でも戦に駆り出されれば何百kmも離れた戦場へ移動してそのまま戦える身体と精神の強さをもっていた。
そんな人間本来の強さを捨て、手に入れた便利さ楽さに甘んじては、人間本来の感覚もなくしてしまう。
技術だけでなく運や、対峙する人の心と仕草を感じとる必要があり、命の危険も感じる裏の世界で活躍した桜井さんと、古来からの武術から身体の使い方を研究する甲野さんだからこそ感じられる、現代社会や人の感覚に対する危機感を知ることができた。 -
わかる。
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雀鬼にお会いしたい。
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良書。
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こういう話を聞くことがめずらしくなってしまったなあ
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自然と身体はもっと大事にされるべきだ。
しかし桜井章一さんは最強だ。強い生き物とは彼のような人のことを言うのだろう。