晩年様式集 イン・レイト・スタイル

著者 :
  • 講談社
3.86
  • (8)
  • (16)
  • (9)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 174
感想 : 18
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (340ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062186315

作品紹介・あらすじ

2011年3月11日後の緊迫した状況を背景に2年近くにわたって「群像」に連載。タイトルは、老境を迎えても円熟を拒否し、前途に予想されるカタストロフを回避しないという芸術家の表現スタイルの態度についての、エドワード・サイード(大江さんの親友)の言葉「イン・レイト・スタイル」から採られる。「話者≒著者」の、表現者としての全人生を批評的に捉え直すような内容と構造になっている。「語り手の置かれた状況を3月11日後の荒れ果てた日本に設定した。日本が今生きている大災害と同時にわたしの内省の旅が始まった。わたしは一市民がどのように感じているかを表現しようとしている。この作品から見えるのはわたし自身の人生だ」と仏ルモンドのインタビューに答えている。
私(古義人)は「3.11後」大きく動揺していたが。ようやく恢復して「晩年様式集 イン・レイト・スタイル」という文章を書き始めた。アサ(妹)と千樫(妻)と真木(娘)は「三人の女たち」というグループを結成し、私の今までの小説に対する反論を送ってきた。私は自分の文章とその反論を合わせて私家版の雑誌を作ることにした。
一方ギー兄さんの息子であるギー・ジュニアは、「カタストロフ」委員会という名称の団体を作り、その研究対象として自らの父ギー兄さん、自殺した映画監督・塙吾良。そしてその証言者として私のインタビューを開始する。
千樫の発病を機に真木が上京し、代わりに私が四国の森のへりでアカリとの共同生活を始める。ギー・ジュニアもアカリのために働くことになった。
過去の対立を乗り越えた私とアカリは、アカリさん作曲、真木選曲のCD「森のフシギの音楽」を森の中で聴くことにする・・・・・・。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 本書のタイトル『晩年様式集』とは、大江健三郎の友人であったエドワード・サイードの仕事『晩年のスタイル』(
    On Late Style)にちなんでいるようだ。

    そのサイードの本はR・シュトラウス、ベートーヴェン、シェーンベルクをはじめ(サイードは自身ピアノ弾きでもあった)、ベケットやトーマス・マンなど、晩年に至ってもなお円熟というものを知らなかった、良い意味で狂乱の芸術家たちに関する評論だ。

    3.11の地震とそして福島原発事故、さらに、人々がいまだ津波の被害に呆然としている間に、日本中の某電力会社から出された、原発再稼働の要請、そしてインドへの原発技術の転売……こうした国を挙げての侮辱に主人公、長江古義人は立ち上がる。

    けれども本作はむしろ、そうして公的に活動する作家古義人の私生活と過去にフォーカスしている。
    (あいかわらず、読むのがたいへんだったが、すんなりと喉を通りづらいぶん、ゆっくりと、いろんな味が染み出してくる。そして思考をうながす)

    本作の特徴として、これまで長江によって好き放題小説に書かれてきた女性たち、つまり長女の真木、妻の千樫、妹のアサが古義人に対して反乱を起こし、『晩年様式集+α』という文集を作ったこと。

    それから、障害をもった息子アカリのイマジナリー・フレンド(?)のアグイーが放射性物質の舞う中空を降りてくるというイメージ。
    彼と真木は、原発事故のあと、四国の山奥へと移住する。そこで彼は音楽を聴き、作る。

    それから、古義人の師でもあるギー兄さんの息子ギー・ジュニアがアメリカからやってくる。古義人にインタビューしてドキュメンタリー映像を作るため。

    さらには、自殺した古義人の義兄である映画監督の塙吾良のドイツ出身の元愛人(?)が来日。彼女は『取り替え子』で描かれているという。

    こうして、塙吾良の自殺の原因に対する憶測や確信までが、インタビューのなかで飛び交う。

    と、いろいろなことが同時並行で進行する。というか現在と過去をも頻繁に往復するために、もうなにがなんだかわからなくもなったりするのだが、私が抱いたイメージは線香花火。逸脱につぐ逸脱は火花。シュッと闇のなかを走っては消え、また別の火花が。

    その中心に、
    「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる」
    という、絶望と希望が背中合わせになったような一節を含む、古義人が書いたという詩と、それに付そうとしているアカリの音楽が息づいている。
    この詩は詩ではなく、完全に頻繁に行替えされた散文なのだけれど、でもこの詩まがいの散文にはとても心を動かされた。さらにそれがこの小説のなかに溶け込むとなお。

    ちなみに表紙には、武満徹(大江小説の中では「篁」として登場する)の『雨の木』の自筆楽譜が使われている。

  • 大江さんがモデルと思われる作家が、思うことを書くのに、長年一面的に小説に書かれてきたことに不満を抱いている、「三人の女たち」(妹、夫人、娘)が反論を書いたものをつけくわえた私家版の雑誌として小説は進んでいく。作家が語り手のところどころに、この女性たちが語り手の部分がはさみこまれている。

    作家が、少年時代の森での先生のような存在だったギー兄さん(『懐かしい年への手紙』など、大江健三郎さんの小説に何度も登場する人物)との出会いをギー兄さんの息子に語る場面が印象に残った。クレオールの作家シャモワゾーの『カリブ海偽典』を読み、森でのギー兄さんとの出会いが作家の中で鮮明になったと作家は語る。電車の中で本を読んでいて、「窓の外に目をやると、風景がこれまで自分になかった観察のエネルギーをあたえられて、生き生きしている。」そういうことがある..

    最後に引用される、作家自身が作った詩、『形見の歌』は感動的である。私はこの詩を読んで、なぜか「新しい人よ眼ざめよ」を思い出した。「新しい人よ眼ざめよ」を見直してみて、この中にたくさん引用されるブレイクの詩が、(Rouse up, O, young Men of the New age! を「新しい人よ眼ざめよ」と訳されたのをはじめ)すべて大江健三郎さんの訳であったことにいまさら気づき、感動を新たにした。

  • 自分の言動に忠実であり且つ縛られないでいることは、携わる人間とに齟齬が生じえよう。自己矛盾も露になろう。身内である「三人の女たち」からの逆襲を全身で受け止めながら、自己を振り返り死者と対話し尚且つ未来を諦めない後期高齢者の寂しさの中の決して消え失せない光を私はどこまでも信じる。したたかさも頑固さも返り血を浴びる覚悟の上の防壁だ。もっともっと無様になってほしい。ぐらつく足場で翻筋斗打ちながらその手で未来を探り続けてほしい。これが最後だなんて言うな。言ってしまったら欺け。私はまだまだ大江健三郎を読み続けたい。

  • 自殺かどうかは死んだ本人しか知りえない。  今は、安倍さんがシラケた顔で嘘を言いをやっているのですが、見たままと言うのは言葉にした時点でその本人のフィルター無しには描かれない。百人居れば百人分の事実がある。 今、ハンディカメラで撮影したドキュメンタリー風、映画が良くあるのですが 本当に拘る時代なのでしょうか? 学生がフランス語や英語に親しむ環境が四国にあった事が、戦後の今となっては不思議です。もっと自由にものが言える未来が日本にあればと思います。  腐りかけの地球から、3/11を超えても今があるのだから、希望を  

  • 過去の作品を知らないと難解。
    初期の短編「死者の驕り、飼育」は役に立たず、「万延元年-」だけでも読んでなければ、読了できなかった。

    おそらく最後となる小説と著者は言うけれど、私には初期の作品に戻って読み直すことができる。
    この本に書かれている「私たちは生き直すことができない!だけど私らは生き直すことができる。」という覚悟にも似た言葉にも通じる。だからこそ著者は自らを抉って表現することや語り継ぐことに意味がある。

    そういう意味で道の遠い、深い世界が待っていると思うと新鮮な感覚と未来が待つ感覚を持って読んだ。

    3.11の原発の事故を己の罪としてウーウーと泣いた著者。今までに感じたことのない種の驚きを感じた。

    起こしてしまった社会全体の罪を「過去の事」とか他人の責任とせず、自らの罪とする感覚に脱帽。

    自分のそばにはいつもコギーがいた子ども時代が美しく響く。母や祖母から語り聞かせられた昔話の力を感じる。

  • <閲覧スタッフより>
    「日本が今生きている大災害と同時にわたしの内省の旅が始まった」。3.11を経た著者が過去の作品、身辺や自身の思索と共鳴しながら小説という形で「今」を綴っている。

    --------------------------------------
    所在記号:913.6||オオ
    資料番号:10225382
    --------------------------------------

  • 氏の作品をほとんど読んだことのない私にはわかりにくい。
    最後の詩はよかった。

  • 「最後」っぽい。そうやって読むと感慨深い。

    でも、これまでの作品を読んだことがない人にも内容は理解できるのだろうか? それとも最初から読者を限定している?

  • 25/12/56

全18件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

大江健三郎(おおえけんざぶろう)
1935年1月、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)に生まれる。東京大学フランス文学科在学中の1957年に「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞する。さらに在学中の58年、当時最年少の23歳で「飼育」にて芥川賞、64年『個人的な体験』で新潮文学賞、67年『万延元年のフットボール』で谷崎賞、73年『洪水はわが魂におよび』で野間文芸賞、83年『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛賞、84年「河馬に噛まれる」で川端賞、90年『人生の親戚』で伊藤整文学賞をそれぞれ受賞。94年には、「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。そこでは人生と神話が渾然一体となり、現代の人間の窮状を描いて読者の心をかき乱すような情景が形作られている」という理由でノーベル文学賞を受賞した。

「2019年 『大江健三郎全小説 第13巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

大江健三郎の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×