教誨師

著者 :
  • 講談社
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感想 : 59
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  • Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062187411

作品紹介・あらすじ

2009年『死刑の基準』で、第32回講談社ノンフィクション賞、2011年『裁かれた命』で、第10回新潮ドキュメント賞、2013年『永山則夫―封印された鑑定記録』で、第4回いける本大賞をそれぞれ受賞。人が人を裁く意味を問い続け、高い評価を得てきた著者が、新作では、ある一人のベテラン教誨師の人生を追った。

許されざる罪を犯し、間近に処刑される運命を背負った死刑囚と対話を重ね、最後は死刑執行の現場にも立ち会う、教誨師。過酷なその仕事を戦後半世紀にわたって続け、死刑制度が持つ矛盾を一身に背負いながら生き切った僧侶の懊悩とは。

一筋縄ではいかない死刑囚たちと本音でぶつかりあい、執行の寸前までその魂の救済に向かおうとする教誨師の姿――。執行の場面では「死刑とは何か」「人を裁くとは何か」「人は人を救えるか」について深く考えさせらる。力作ノンフィクション。

感想・レビュー・書評

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  • 安易にレビューを書いてしまう事を躊躇する。
    それほどまでに重い内容だった。
    私達が知らないこと、知る機会が奪われていること、しかし知るべきこと。
    これを無知と呼んでいいのかは分からないが、知らずに論じる危うさを痛感する。

    浄土真宗の僧侶渡邉普相は、半世紀にわたり教誨師として死刑囚と向き合ってきた。
    「この話は、わしが死んでから世に出して下さいの」
    約束通り、作者は渡邉の死後本書を出版した。
    インタビューする方もされる方も生半可な気持ちではなかっただろう。
    作者と渡邉の二人の熱意がなければこの本が日の目を見ることはなかった。
    お二人に敬意を表したい。

    刑務所に牧師や僧侶などが訪問することは漠然と知っていたが、教誨師という名前も彼らがボランティアだというのも知らなかった。
    とりわけ死刑囚と接する教誨師の精神的な負担は想像を絶するものである。
    人生を捧げると言っても過言ではないほど教誨師として生きる人々の存在に圧倒されるばかり。
    あまりの過酷さに言葉を失う。

    読んでいて決して気持ちの良い本ではない。読んだ後も気分が晴れるわけでもなく。
    それでも死刑制度を考える前に是非読むべきた。
    いつ自分が裁判員として呼ばれるか分からないのだから。

    渡邉が教誨師となる道筋を与えた恩師の篠田。
    篠田が死刑執行前に追い詰められた死刑囚にかけた言葉で締めくくりたい。
    「よおっし!桜井さん、いきますぞ!死ぬるんじゃないぞ、生まれ変わるのだぞ!喝ーっ!」

    • bokemaruさん
      これは、私も今ちょうど図書館の順番が回ってきて、読まんとしていたところです。
      レビューを拝読して、引き締まる思いです。
      心して読みます。
      これは、私も今ちょうど図書館の順番が回ってきて、読まんとしていたところです。
      レビューを拝読して、引き締まる思いです。
      心して読みます。
      2014/05/12
    • vilureefさん
      bokemaruさん、こんにちは!

      うわっ、楽しみです。
      bokemaruさんの洞察力を持ってしたらどんなレビューになるんだろう。
      ...
      bokemaruさん、こんにちは!

      うわっ、楽しみです。
      bokemaruさんの洞察力を持ってしたらどんなレビューになるんだろう。
      私なんて全然伝えられてないなと反省しきりです。
      2014/05/12
  • 教誨師とは、受刑者の精神的救済のために、拘束されている施設で面会する僧侶や神父、牧師などのボランティアのことで、およそ7割が仏教系なのだそうだ。そして、面会の制限が厳しい死刑囚に会うことのできる数少ない一般人でもある。

    本書は、その死刑囚の教誨師を長く務めた渡邉普相という僧侶のインタビューを元にまとめられたものである。

    このような裁きにかかわる本を読むたびに、やはり裁判というのは、真実を明らかにするところではなく、犯した罪に見合った量刑を決定するところなんだとつくづく思い知らされる。
    被告の生い立ちや背景、事件のあらまし、心の動き、物的証拠でさえ、どういう量刑にしようとするかによって取捨選択されストーリーが作られ、さもそれが真実であるかのように言葉巧みに量刑へと導かれていく。

    本来なら徹底した守秘義務が課せられるであろう教誨師の役割だが、自分の死後に発表してほしいと固く依頼した渡邉氏が、そうまでしてこの教誨師としての日々を語ったその思いはどのようなものであっただろう。
    語られる執行の現場は壮絶で、とても現実のものであったとは思いたくない。だが、死刑という刑罰が存在し、社会がそれを認めている以上、知りませんわかりませんという無責任ではいけないのだと思う。
    誰かがそれをやるのだ。
    その昔、死刑の方法は石のつぶてを受刑者に市民が投げつけるというものがあったそうだ。死に至るまで時間がかかり、公衆の面前で行われ残酷ではあるが、少なくともその残酷さを共有はしていたということだ。社会で決めた以上、後ろ暗い部分もみなで引き受ける、そういう意味で健全だったかもしれない。
    しかし今はどうだ。死刑はなくすなという。執行しろという。だが、いつどこでどのように誰が執行されたか、誰も教えようともしないし知ろうともしない。
    重荷の部分は、ごく一部の人に押し付けたままだ。

    そもそも教誨師の存在は、受刑者の精神的救済が目的。悔い改め、贖罪に生きる道を教え諭すはずのそれが、生きることを諦めさせられた死刑囚に行われるという矛盾。
    寿命を待つのでなく、ある手順が踏まれたら執行の日がやってくる、しかもそれは明日かもしれないし、数年後かもしれない、その恐怖にさらされる毎日の中で、救済しろというのだからその任務の過酷さは想像するに余りある。
    確か、森達也の『死刑』でインタビューした教誨師が、心を病んだというようなことを言っていたと記憶している。
    本書の渡邉氏も、この重責の中アルコール依存症になっている。

    渡邉氏の重い告白にも現れているように、犯罪を犯す者にはいつも、生育環境の不遇さがつきまとう。関心を持って寄り添ってくれる人がいなかったことが、人を犯罪へと結びつける道筋を作ってしまうという事実を、私たちはどう受け止めるべきなのか。
    罪を犯した人物一人に、その罰を与えるだけですべて済んだと考えていいのだろうか。
    もし、たまたまおかれた不遇な環境によって、負のスパイラルに入り込んだ結果の犯罪だったとしたら、それは当人を責めるだけで解決するのだろうか。次なる被害者、加害者も含めた意味での被害者を、またつくりあげてしまうことに繋がらないだろうか。
    司法の在り方、刑務所の役割が、罰を与えるためだけである限り、同じことが繰り返されてしまうと考えるのは間違っているだろうか。

    教え諭そうとする必要はない、心から寄り添い、彼らの話を徹底的に聴く、傾聴する、それで十分なのだと、長く教誨にあたった渡邉氏は、自分の師である篠田龍雄の境地にたどり着いている。実はこれはカウンセリングの手法でもあるのだが、人には誰しも内なる善、真っ当に生きる力があって、寄り添ってくれる誰かの期待に応えられるものを必ず持っている。そして同様に、そのような誰かに出会えないまま過ぎたとき、反社会的な結果を招く行動に出てしまう危うさも、みな必ず持っているのだ。
    何かが違っていたら、裁きを受ける立場に、自分がいたかもしれないのだ。

    今のままでは何も変わらない。
    悲惨な事件の被害者はなくならず、遺族の悲しみも消えることなく、不遇に生きた加害者もその家族も、誰も幸せにならないまま、不幸な人物が減らないまま、刑務官という、社会が目をそむけ、私たちが押し付けた国家による殺人という辛い仕事を引き受けざるを得ない人物も生涯こころに荷物を背負ったまま、同じことが繰り返されていく。
    その姿が本当に正しいか?

    死刑は凶悪犯罪の抑止力にはなっていない。
    現に、死にきれないから、人を殺して死刑になろうという身勝手な発想で、凶悪事件を起こした人物が何人もいるではないか。しかも、思い通りに死刑になったところで、反省の弁はなく被害者への贖罪の念もない人物すら存在する。
    命には命をもって償うべしとする考えもわからなくもないが、果たして犯した罪の重さも感じないまま処刑されることが本当の意味での償いになるのだろうか。死刑という形でさらなる殺人をすることが、本当に被害者の救いになるのだろうか。
    失われてしまった命は決して戻らないのだ。

    本当の意味での教誨師としての役割が全うできるような世の中に、なってほしいと思ってはいけないだろうか。
    修復的司法という方法が、スタンダードになる日はやってくるだろうか。

    • vilureefさん
      こんにちは。

      つい先日、アメリカで死刑失敗のニュースがありましたね。
      アメリカではニュースになりますが、果たして日本で似たような状況...
      こんにちは。

      つい先日、アメリカで死刑失敗のニュースがありましたね。
      アメリカではニュースになりますが、果たして日本で似たような状況になったらニュースになるか疑問です。
      情報公開と言う意味では日本は本当に後進国ですよね・・・。

      この本、映画化されると良いですね。
      渡邉さんを主人公にして。
      そうしたらみんな死刑制度について考えるようになるかもしれない!
      無理かな・・・(^_^;)
      2014/05/26
    • bokemaruさん
      vilureefさん、コメントありがとうございます。

      裁判員として向き合わなければならない可能性が誰にもある今、もっとみんなで議論しな...
      vilureefさん、コメントありがとうございます。

      裁判員として向き合わなければならない可能性が誰にもある今、もっとみんなで議論しなければならないのでしょうね。
      簡単に正解が出せる問題ではなさそうです。
      2014/05/26
  • もう数ページを読んだだけでピーンと張り詰めるようなたたずまいの文章です。
    内容から当然そうなるのでしょうが、それにしても読了後、著者の文章のうまさを感じさせられました。
    ところどころ小説のような文章もあってそこはちょっと情緒に流されてるかな、と感じる部分もありますが全体としては気にならない程度です。

    しかし、良くぞこの教誨師の方を口説き落としたなと著者のジャーナリスト魂に敬服します。年の頃は40代半ば私と同世代の方。
    決して若くはないからこそやり遂げられたことなのかもしれません。根性や執念だけではこの教誨師の方を口説き落とせなかったのではないだろうかと感じました。
    そして教誨師も自分の人生の幕が見えて来た時、これを自分だけの胸にしまっておいて良いのだろうかと思われたのではないかと私は思います。
    こういう導きのような出会いはやはり時にはおきるのでしょうね。
    ここに書かれているのは、経験した人にしか語れない一つの壮絶な究極の人生です。その一言では言えない重みを考えたら、よく語ってくれたなぁ残してくださったなぁとつくづく思います。

    執行の告知の仕方がずっと現在と同じでないということは知りませんでした。刑にまつわること、刑そのものの変遷の一部に触れられたことも大きいです。

    死刑という制度が良いのか悪いのかはわかりませんが、これを読まずしてそれを語ってはいけないという気持ちにさせられます。論じる人は読まなければいけないでしょうね。

  • 「死刑」について何も知らないことを痛感しました。
    「死刑」によって、苦しみや痛み、罪の意識が新たに生まれているという事実を知って、「死刑」ってなんなんだろうと考えている今日この頃です。
    別の罪の償い方があるのではないんでしょうか。
    この本は、「死刑」についてはもちろん、人の弱さについても考えるきっかけをくれた本でした。単行本の表紙も素敵でした。

  • 大変興味深い。
    教誨師とは、外部とのやりとりを厳しく制限された死刑囚と唯一自由に面会できる民間人で、対話を重ね、自分を振り返るという作業を促し手伝い、最後はその死刑執行の現場にも立ち会う。すべてボランティアという。いわずもがな、宗教家が請け負っていることが多い。
    この話し、もっと世に出ていい話しだと思うが、公務員の守秘義務の中でも死刑に関することは「ヤバイもの」として扱われ、もっとも重く口外されない秘密となるらしい。関係した人の苦労も重いのに世間と共有してもらえない不条理がある。
    これを読むと、死刑制度に対して「賛成・反対」と単純に言えなくなるのがわかると思うが、私はいつも「ボタンを押す」のはその被告の死刑を望んだ人にやってもらえばいいと思っている。(そして、たぶんいざ自分が押すとなると躊躇する被害者も多く出るだろうと想像する。)
    いくら仕事だからといって「人殺し(≒死刑)」をさせられる公務員の負担はベールに包まれ過ぎていいものでは無い気がする。

    http://honz.jp/articles/-/40148
    https://bit.ly/2uuQSsw

  • 非常に重い内容にもかかわらず、一気に読了。教誨師という職業を知ったのは初めてだったし、改めて死刑制度の是非について考えさせられた。大変興味深い一冊だった。

  • 東京拘置所内の刑場を以前TVの番組で観た

    死刑執行に携わる刑務官の心身の負担は計り知れないものがあり 教誨師は死刑囚の精神的救済にあたるだけでなく 刑務官にとっても重要な存在なのだと改めて感じた

    また 自分の宗派でもある浄土真宗の渡邉普相の色々な教えをこういうカタチで吸収できたのは良かった

    「お経は亡くなった方にあげるものではなく 今、苦しみながらも生きている人がホッとする、安らぐ、自分自身のためのものだ」

    ということを今更ながら知り きちんと自分と向き合わなくてはならないと反省した

    ちなみに 映画「教誨師」の原作だと思って読んだのですが 映画はオリジナルの脚本となっていたようです

  • 内容(「BOOK」データベースより)
    一四歳の夏、渡邉普相は広島の爆心地のすぐそばにいた。そこで見たものは、戦争という人間の愚かさが作りだした無用の「死」だった。後年、教誨師となってから見たものは、人間が法律という道具で作りだした罰としての「死」であった。ふたつの死とともに歩んだ僧侶の人生が語りかけること。



    死刑制度の是非はいくら考えても答えが出ません。
    立場が変わると気持ちも考えも変わる。
    死刑囚の中には改心する人もいれば しない人もいるだろうし...
    以前『死刑執行人の苦悩』という本を読んだ時は このボタンを押すことを仕事としている人達の苦悩は計り知れないと感じたし 皆がやりたくない仕事をしている人もいる、頭が下がる思いでした。
    この教誨師という仕事はボランティアとは知らず 死刑囚によっては心の拠り所にしている人もいるのだろう。
    生まれ育った環境は自分にはどうにも出来ないだろけど だからといって犯罪を犯しても良いとは思えないし 犯罪を犯す犯さないの境界線は何なんだろう?

  • 筆者の堀川さんは、教誨師の渡邊氏に自分が死んだら公開してよいと言われていたそうです。基本的には口外がご法度であった死刑囚と教誨師の世界。気の遠くなりそうな時間を費やした、取材と言うよりライフワークの結晶。

    取材対象となった渡邊氏の師匠に当たるのが、篠田氏という方。

    彼は
    “83歳になった昭和53年(1978)、体力の限界を悟り、東京での教誨師の仕事を完全に引退することを決断した。そして都内に築いた関係先の方々に「直方で隠居します」と挨拶を済ませてまわり、人生最後の直方への片道切符を買いに行った東京駅の構内で倒れ、その場で亡くなっていた。篠田はまさに、「東京での布教」という人生の目標に命を尽くしたのだった。”
    と述べらている、日本の仏縁の聖職者というイメージに近い人だった。

    信仰も完全に自分のものとしていて、死刑執行の間際に受刑者である桜井が「先生!私に引導を渡して下さい!」と言った時の即断にこちらまで胸が詰まるようだ。彼らの宗派、浄土真宗には「引導」という考えが存在しないのだ。

    “刑務官たちの手が止まった。みなが篠田の顔一点を凝視した。渡邊は焦った。浄土真宗に「引導」などない、どうする。すると篠田は迷いなくスッと前に進み出た。そして桜井に正面から向き合った。互いの鼻がくっつくほど間合いを詰め、桜井の両肩を鷲掴みにして、しゃがれた野太い声に腹から力を込めた。
    「よおっし!桜井さん、いきますぞ!死ぬるんじゃないぞ、生まれ変わるのだぞ!喝――っ!」
    桜井の蒼白な顔からスッと恐怖の色だけが抜けたように見えた。
    「そうかっ、先生、死ぬんじゃなくて、お浄土に生まれ変わるんですね」
    「そうだ、桜井君!あんたが少し先に行くけれど、わしも後から行きますぞ!」
    潤んだ両の目に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだと思った途端、その笑みは白い布で隠された。そこからは、わずか数秒のことだった。”

    さて、私にしては珍しく、渡邊氏について書かれた本流について伏せる。この本は少し、教誨師の懺悔のような、逆に言えばとても率直で人間味のある一人の僧侶の姿が描かれている。
    彼は晩年アルコール中毒になり、そこから回復する。死刑囚たちに「何十年と経っても一滴でも飲んだらもうダメだ」と言われながら。
    そうなった核となる出来事があって、とても、とても考えさせられる。
    私はそこで宗教の限界を思った。人の個人の苦悩と向き合うのは、人であって、宗教では無いのだと。

  • いろいろなことがわからない。
    死刑は必要なのか。
    死刑囚に対する教誨は意味があるのか。
    被害者や遺族に対する手当を優先すべきではないか。
    死刑囚が反省することが本当にあるのか。
    死刑を執行する刑務官や立ち会う担当者たちの負担をどう考えればいいのか。

    こういう問いに、渡邉普相師は、たぶん答えてはくれないくれないだろう。人から与えられた答えに大した意味はない気もする。師が最後まで迷い続けたように(迷わない人はアル中なんかにならないだろう)、ぼくらもまた迷わなければならないのかもしれない。しんどいけど。

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著者プロフィール

1969年広島県生まれ。『チンチン電車と女学生』(小笠原信之氏と共著、日本評論社)を皮切りに、ノンフィクション作品を次々と発表。『死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社)で第32回講談社ノンフィクション賞、『裁かれた命―死刑囚から届いた手紙』(講談社)で第10回新潮ドキュメント賞、『永山則夫―封印された鑑定記録』(岩波書店)で第4回いける本大賞、『教誨師』(講談社)で第1回城山三郎賞、『原爆供養塔―忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋)で第47回大宅壮一ノンフィクション賞と第15回早稲田ジャーナリズム大賞、『戦禍に生きた演劇人たち―演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』(講談社)で第23回AICT演劇評論賞、『狼の義―新 犬養木堂伝』 (林新氏と共著、KADOKAWA)で第23回司馬遼太郎賞受賞。

「2021年 『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

堀川惠子の作品

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