逃亡くそたわけ (講談社文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062758062

作品紹介・あらすじ

「どうしようどうしよう夏が終わってしまう」軽い気持ちの自殺未遂がばれ、入院させられた「あたし」は、退屈な精神病院からの脱走を決意。名古屋出身の「なごやん」を誘い出し、彼のぼろぼろの車での逃亡が始まった。道中、幻聴に悩まされ、なごやんと衝突しながらも、車は福岡から、阿蘇、さらに南へ疾走する。

感想・レビュー・書評

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  • やっぱり絲山秋子さんの書きっぷりは気持ちがいいです。

  • ある男女、恋愛関係でも、友達関係でもない、の二人の逃避行物語。絲山氏お得意のど直球な言い回しが小気味よい。この逃避行に楽しさ要素は全くないのだが、主人公たちがたどった道のりをドライブしたいと思った。

  • マレーシアからの帰国の飛行機の中で、旅の途中で本を失いまくり残った一冊
    すごいよかった、なんとなくずっと積読しててあまり読む気になれんかったんやけど、切迫感と神経と自然が、読み終わった後の余韻が、

    主題じゃないかもやけど男と女でも同志として共にあることの肯定がしみた

  • 淡々と会話しながら日本のあちこちを旅する小説。私には、ちょっと退屈でした。

  • オフビートなロードムービーっぽい小説。
    特に大きなイベントはなく、淡々と主人国の二人が来るまで博多から鹿児島へと南下する。
    退屈と言えば退屈な話なのだが、ジャームッシュ映画のような「面白い退屈」と言えば良いだろうか。ストーリーの起伏ではなく、主人公二人の会話を楽しむ小説だ。

    「幻覚の方が実感なのだ」
    精神病院に入院している主人公が幻覚を表現した時のセリフだ。健康な人間でも不安に苛まれている時は、自分の想像が現実以上に実感を伴う。
    「あたし」と「なごやん」の会話が普通なだけに、病人と健常者の境界があいまいなものだと感じる。


    「幻覚の方が実感なのだ」

  • 『末裔』を読んで、このひとの本をいろいろ読んでみようと思って、二冊目に読んだのがこれでした。うーむ、まあまあでしたかね。【2023年8月29日読了】

  • ロードムービーみたいな小説。2人の逃避行。
    劇的な「救い」は訪れないし、2人ともこれからどうするんだろう的空気が読み終わっても胸に残るのだが、不思議と好きだった。雰囲気が、としか言えない。ロマンチックもカタルシスもない。けれど読んでいるあいだ心が凪になれる。

    虚しさと目的地のないどん詰まり感がある。カラッと、突き抜けた明るさもある。どっちをより強く感じるかは受け手によるのかも。私は前者かなあ。
    花ちゃんとなごやんでずーっとダラダラ逃げ続けてほしいなあ、と思った。無理だと分かってるから余計そう思うんだろう。

  • プリズンたる病棟からの明日なき逃避行。資本論の等価交換の呪文から逃れようともがく主人公と商品価値の象徴たる東京の呪縛に囚われるなごやん。行き着いた岬のラベンダーの香りが旅の終わりを納得させる。とても印象的な作品でした。

  • 精神病院=プリズンからの逃亡
    博多生まれの花ちゃんと、名古屋生まれのなごやん。

    書き出しの〜亜麻布二十エレは上衣一着に値する〜も、最高によくって‼︎

    九州の北
    博多から、耶馬溪、磨崖仏でヒル、別府、阿蘇いきなり団子、椎葉村で川になごやん流され(よく助けた花ちゃん)、宮崎でエアコンのガス漏れ直し、桜島、指宿知林ヶ島、開聞岳。

    福岡の運転マナーを名古屋走りのなごやんがたしなめるのも面白く(花ちゃんの父は木刀積んで運転していると)更に笑った。

    がんばったルーチェ。エアコン壊れたけど、ね。

    方言も心地よく、ルーチェから流れるTHEピーズの曲♪

    終わりが気になって仕方なかったけど…
    畑泥棒、当て逃げ、無免許、万引き…どうなる二人⁉︎

    海でのラベンダーの香り、突然の九州地図、ココがラストもよかったぁ。

  • あなたは、『ね、一緒に逃げよう』と言われたらどうするでしょうか?

    いや、どうするも何もそれはその時のシチュエーションによるでしょう。何らかの命の危険が迫っているというような状況であったなら、躊躇などする余地なく誰もが逃げるべきでしょう。

    しかし、『逃げる』という場面はそういった緊迫した場面ばかりとは必ずしも言えません。日常生活の中で、何かしらの苦境から『逃げ出し』たいと思ったことは誰しもあるのではないでしょうか?私には未だに自分の中にハッキリと残っている記憶があります。幼稚園児だった私、原因までは思い出せないのですが、どうしても家に帰りたい、という思いに満ち溢れたことがありました。そして、行動に移した私は幼稚園からの『逃亡』をはかりました。園庭を抜け、外に出た私は走って、走って、必死で家を目指しました。しかし、そういう時に限って間が悪く知っている人に出会うものです。隣のおばさんにバッタリ出会ってしまった私は、呆気なく幼稚園に連れ戻されてしまいました。五歳の逃亡劇は数分にして幕を下ろしましたが、あれから○十年経ってもあの時のドキドキハラハラした記憶は未だハッキリと記憶に残っています。そして、おばさんの顔を見ると未だにバツが悪くなる私、なんだかなあという今となっては苦い思い出の一つです。

    さて、ここに『あたしはその日の朝、逃げようと思いついたのだった』という21歳の女性が主人公となる物語があります。『チェックがあるから何も持ち出せない』という中に『ね、一緒に逃げよう』と一人の男性を誘ってその場を後にした、そんな二人の逃避行が描かれるこの作品。『ねえ花ちゃん、帰った方がいいよ、大変なことになるよ』と弱気を見せる男性の一方で、『どうやら唐揚げは中津の名物らしかった』と逃亡先で観光を楽しむ女性の姿が描かれるこの作品。そしてそれは、『脱走自体は難しいことではなかった』という二人が『福岡タワーに近い百道(ももち)病院という精神病院』から『逃亡』した先の旅の様子を描く物語です。

    『幻聴だと判っていても』『亜麻布(あまぬの)二十エレは上衣(じょうい)一着に値する』という言葉が『自分では止めることが出来ない』と思うのは主人公の花田。『意味はわからない。だけどこれが聞こえるとあたしは調子が悪くなるのだ』という花田は、『もう二度と病院には戻らない』と思いつつ福岡の街を走ります。『もー、休もうよう』、『俺、体力ないんだって』と言う『なごやん』に『逃げないと。こげなとこおったら捕まるばい』と返す花田は『脱走自体は難しいことではなかった』と今までの道のりを振り返ります。『福岡タワーに近い百道病院という精神病院』の『男女共同の開放病棟に入院していた』花田は、『外泊の許可も出』ず『二十一歳の夏は一度しか来ないのにどうしよう』と『いてもたってもいられない』思いの中にいました。そんなある日の朝、『逃げようと思いついた』花田は『中庭の隅でなごやんが悲しそうな顔をしてしゃがんで野良猫をかまってい』るのを見て『ね、一緒に逃げよう』、『出ようよ、ここから』と誘います。『本気にしていなかった。けれど、ひょこひょこついてきた』という『なごやん』。『外来を通り抜け、裏にまわって駐車場から病院の外に出』ると、『住宅地に入』り走り出した花田を『なごやん』は追いかけます。『蓬田司という小難しい名前』が本名の『なごやん』は、『二十四歳の、茶髪のサラリーマン』でした。『まわりがこてこての博多弁』の中、一人だけ『標準語』で『どこから来たと、と聞かれると』、『東京です!と言いきっ』ていた蓬田ですが、『一度だけお父さんとお母さんがお見舞いに来たとき、二人が大きな声でこてこての名古屋弁を喋ったの』でした。『正真正銘の名古屋生まれの名古屋育ちだと白状した』蓬田が、会話の中で『でも、「なごやん」はおいしいんだよ!』、『お饅頭。知らないの?』と『目をむいて』言ったことから『医者と看護婦さん以外の全員が蓬田司さんのことを「なごやん」と呼ぶようにな』りました。そんな『なごやん』と病院から逃げた花田、そんな二人は『なごやん』の家へと赴き『なごやん』の車に乗り込みます。『古くて四角いオヤジ車』という『名古屋ナンバー』の『ルーチェ』に乗った二人は『国道386』へと入ります。『どこに行くつもりもなかったけれど、それが分岐点だった』という二人。そんな二人の九州を南下するあてのない旅が始まりました。

    “軽い気持ちの自殺未遂がばれ、入院させられた「あたし」は、退屈な精神病院からの脱走を決意。名古屋出身の「なごやん」を誘い出し、彼のぼろぼろの車での逃亡が始まった”と内容紹介にうたわれるこの作品。『福岡タワーに近い百道病院という精神病院』に入院していた21歳の主人公・花田と24歳で『なごやん』というあだなで呼ばれる蓬田の二人が車で九州を旅する様子が描かれていきます。そんな二人の旅の様子が描かれた部分を二箇所抜き出してみましょう。

    ・『あたしの知るかぎり一番いい寺だから』という花田の案内で『方向感覚はまるできかなかったけれど、観光看板の通りに走って富貴寺(ふきじ)に行った』二人という場面。
    → 『有名なのに全然俗っぽくなくて、山の中に昔ながらにひっそり建っている』という『野の花の似合う寺』富貴寺。『お堂は上から見たら多分正方形で、角が反りあがった品のいい屋根に特徴がある』という富貴寺を『お堂の中は暗くて、お香のにおいも上品で、すごく落ち着く』という花田。そして、お堂を出て茶屋に入った二人。『何食う?』、『団子汁。こっち来たらいつもそうたい』、『団子汁ってなんだよ』、『味噌味のおつゆに野菜と団子の入っとうと』と会話する二人。『団子汁の田舎っぽい、懐かしい味が大好き』という花田と初めての『なごやん』の観光を楽しむ会話が続きます。

    ・『大観峰行こうよ』という花田の提案に『どこ?』と訊く『なごやん』、それに『外輪山で阿蘇が一番すごく見えるとこ。絶対見らんと損するけん』と返す花田という場面。
    → 『うおおお、これ全部阿蘇か』と声を上げる『なごやん』。『外輪山から突き出した岬のような展望台』に立つ二人の前には『下方に広がる平野と正面にそびえる阿蘇五岳、そして全体を囲む外輪山が三百六十度見渡せる。とにかくでっかいのだ』という阿蘇の絶景が広がります。『向こうのうすーく見える山、あるやろ。あそこまで外輪山。全部が山やったのが噴火して吹き飛んでカルデラの出来たったい』と説明する花田に『外輪山ってほんとに全方向にあるんだ』『どんだけでっかかったんだ』と興奮を抑えられない『なごやん』という二人が阿蘇観光を楽しみます。

    二つを抜き出してみましたが、お寺を巡って名物を食べ、また阿蘇山という知らぬ者のない超有名観光地へと足をのばしていく様はもう完全に旅行記です。小説に旅行記を織り交ぜるように書かれた作品は多々あります。例えば”ふるさと”をテーマに東北新幹線で旅する彩瀬まるさん「桜の下で待っている」、主人公が旅に何かのきっかけを得る井上荒野さん「夜を着る」、”どんな遠くまでも、さいはてまでも”と旅に何かを感じる主人公が描かれる原田マハさん「さいはての彼女」など、旅情を存分に感じさせてくれる作品は私も大好きです。そういう意味ではこの作品もそういった旅小説の一つと言えると思います。しかし、しかしです。この作品がそう単純に説明しきれないのがその舞台設定です。それこそが、『ね、一緒に逃げよう』と主人公の花田が蓬田を誘っての逃避行という前提です。そして、その彼らがいた場所が強烈です。『福岡タワーに近い百道病院という精神病院』からの逃亡という大胆極まりない設定には、正直なところその設定をどう捉えて良いか少し躊躇しました。『精神病院』と言っても描き方によってはその逃げ元を意識しなくても良い書き方もあるように思いますがこの作品はそうではありません。それこそが、花田がつぶやく薬の名前の数々です。

    ・『これ以上テトロピン飲み続けたら廃人になるけん、嫌』

    ・『あたしは今は躁が強いから抗鬱剤は要らないけれどリーマスが要る。どこかでメレリルも手に入れたい』

    ・『薬が心配やね』『ロヒプノールがあと三錠しかないんだ』『メレリルも欲しか』

    これらは実は架空の名前の薬ではありますが、旅行記だ…と読んでいる読者にとって、これらのなんだか深刻さを感じる薬の名前は強烈な違和感が襲うと思います。そして、この作品にはさらに読者を困惑させる言葉が登場します。それこそが、この作品の冒頭に登場する意味不明な次の言葉です。

    『亜麻布(あまぬの)二十エレは上衣(じょうい)一着に値する』

    全くもって意味不明な言葉です。冒頭に語られる通りこの言葉は主人公・花田の『幻聴』であり『意味はわからない』と説明されます。まさしく『幻聴』のごとく、この言葉は全編に渡ってさまざまな場面に登場します。あまりに数が多いことから、こういう場合、数を数えないといられなくなる私としては数を数えてみました。

    『亜麻布二十エレ…』の登場回数: 51回

    この作品は文庫本190ページしかありません。このページ数でこの数は異常に多い数です。しかも全くもって意味不明な言葉で、かつ花田の『幻聴』なので、本文に脈略なく登場する分、読書の中に非常に引っかかりを感じさせます。主人公が精神病を患っている、そんな主人公が入院先の病院から逃げた…という前提でこの作品が描かれている分、やはり単純な旅小説にはなり得ないのだと思います。

    そんなこの作品ですが、登場人物は主人公の花田と『なごやん』と呼ばれる蓬田の実質二人のみです。ともに精神病院の入院患者の二人ですが、一方でそんな病気を意識させる部分を除けばそこにあるのは見事な珍道中です。『だけんねえ、遠くでお金下ろしたら今どこにおるかばれるったい。そげなこともわからんと?』というように博多弁バリバリの花田に対して、『正真正銘の名古屋生まれの名古屋育ち』にも関わらず『いずれ俺は東京に帰ります』とやたら『東京』を意識する蓮田というコンビは、会話多めの文章の中に絶妙なやり取りを繰り広げます。二人のそれぞれの性格がそんな会話の中に、行動の中に浮かび上がってもくる物語はどこかほのぼのとした雰囲気感に満ち溢れてもいます。そんな二人が九州を旅して回る物語は、『精神病院』を抜け出した二人という引っかかりを読者の意識からどんどん消し去っていきます。2007年に映画化もされているこの作品。それはこの二人の絶妙な掛け合いからきたのかとも思いますが、なんとも不思議な感覚を纏った作品だと改めて思います。絲山さんの作品はこの作品で三作目ですが、とても個性的な物語を創作される方であり、この作品でもその上手さをとても感じました。

    『目的地なんかない。あたし達は二人とも、糸の切れた凧なのだ』。

    『精神病院』を抜け出した男女二人が九州各地を逃避行する様が描かれたこの作品。そこには、単純に旅小説とも言い切れない複雑な読み味の物語が描かれていました。生き生きとした花田の博多弁の魅力を堪能できるこの作品。九州各地の観光地を巡る旅小説としての魅力も味わえるこの作品。

    まさしくユーモラスに描かれる物語の中に、主人公たちの心の中に潜む、もの悲しい感情がふっと浮かび上がるのを感じたなんとも言えない読み味を残す作品でした。

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著者プロフィール

1966年東京都生まれ。「イッツ・オンリー・トーク」で文學界新人賞を受賞しデビュー。「袋小路の男」で川端賞、『海の仙人』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、「沖で待つ」で芥川賞、『薄情』で谷崎賞を受賞。

「2023年 『ばかもの』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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