- Amazon.co.jp ・本 (180ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062879187
感想・レビュー・書評
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一部分だけ読んで全部を読みたくなった本。
結局、はじめに読んだ一部分が一番良かった。
「オノズカラ」について考えさせられた。
自分の内も外も一緒なのである。
「心を開放する」から、「自ずから」となるきっかけになった本。
歴史哲学の本らしいが、そこはどうでもよかった。
自分にとっては、筆者の言いたかったことはどうでもいいのである。
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図書館での分類(NDC:210-76-U)は、日本史だったし、
タイトルは、日本史、もしくは、民俗学っぽい感じだったので、借りたんですが、
まえがきに、「本書は、私自身の企画としては、「歴史哲学序説」という副題のものに書かれている。」とあって、
その時点で、失敗したかなあ…、と思ってたんです。
で、
第一章「キツネと人」
第二章「一九六五年の革命」
第三章「キツネにだまされる能力」
までは、ちょっと哲学っぽいかんじもありつつ、基本的には、民俗学っぽいかんじでした。
でも、
第四章「歴史と「みえない歴史」」
第五章「歴史哲学とキツネの物語」
のあたりは、完全に歴史哲学っぽいかんじで、私はついていけなくなって、ちゃんと読まずに、斜め読みしました。
で、最後の、
第六章「人はなぜキツネにだまされなくなったか」
で、総括してあったんですが、
なんか、すっきりしない感じが残りました。
私は、もともと、抽象的な、哲学っぽい考えが苦手なんですよね。
具体的な話のほうが好きです。
(この本の場合では、具体的:キツネにだまされること⇔抽象的:歴史哲学)
だから、この本を、イマイチって感じてしまうのかもしれません。
まあ、軽く読むには、そこそこ面白かったですけど。 -
一昔前の日本では、キツネやたぬきなど動物に人がだまされたという話がよくされていたそうです。しかし、1965年を境にそのような話がまったく聞かれなくなったというところから筆者の考察がはじまります。戦後の経済成長の中で、得たものと失ったものはいったい何だったのか・・・そんな奥の深い問いがなされている本です(2008.9.2)
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哲学的な考察があるわけでも、民族学的な調査があるわけでも、歴史学への鋭い批判があるわけでもなく、ただ、歴史には主観性が欠けてる云々と嘆くだけの本。キツネにだまされる云々は歴史学では確かに考察されないかもしれないけど、民俗学ではそれなりに研究はされているんじゃないの?民俗学が歴史学と融合していないから、歴史学をベースとした民俗研究のあり方といった方向に話がすすむのなら、まだ読む価値はあったろうに、最後まで愚痴のみ。ここまで読むに値しない本も久しぶり。
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【2008/08/22】
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前半部分はとてもわかりやすい。
後半からの考察がわかりにくい。(ということは著者が力を入れて書いた部分が解っていないこと?!)
そう言えば彼の都市伝説論を以前読んだことがあったなあと、読んでいてだんだん思い出した。
転機が1965年という辺りは納得できた。
全てのレビューを見る(29) | 編集
作成日時 2008年01月05日 11:58
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2008年1月読了。
このやけに長ったらしい題名にだまされて買う人が多いだろう。
筆者によると、日本人がキツネにだまされなくなったのは、1965年からだという。
いったいこの年になにがあったのか?
社会が変わったのか、人間が変わったのか?
なんと最後は「歴史哲学」にたどりつく内容だった!
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本の雑誌297号渡邊十絲子さんお薦め
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ひどい。ぜんぜん深くならない。なのに著者はこの本に4年かけたという。取材のかけらも感じない、ただの印象論に無駄な時間をかけただけの本だ。
1960年代に日本人はキツネにだまされなくなった。それは認めよう。そうだろう。様々な原因についてもそうだろうと思う。
しかし議論はそれ以上に深くならない。ぜんぜんならない。タイトルは間違いなく「さおだけ屋…」のパクリだ。
少なくとも江戸時代の終りから明治にかけてならばいくらでもキツネに関する資料は思いつく。そういうものも登場しない。
京都の伏見稲荷、東京の王子神社、全国のお稲荷さん、狐の嫁入り、「ごんぎつね」や「手袋を買いに」、葛の葉からしのだ寿司や信太うどん…。もっときちんと調べて書けば面白い題材なのに、1965年に人はキツネからだまされなくなった、と断言するだけの本。誰か、このテーマで書き直してくれないものだろうか。
私なんてこのタイトルにだまされた。 -
昔の人々の中には当たり前のようにキツネがいた。
自然と共に歩んでいた。
正確に言えば、人と自然は存在として平等であり、素直にあがめ、恐れることができた。
是非どうぞ。