なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062881135

作品紹介・あらすじ

なぜ/どうやって、ナレーションや音楽なしでドキュメンタリーを作るのか?なぜリサーチや打ち合わせなどをしないのか?インディー映画作家の制作費や著作権について。"タブーとされるもの"を撮って考えることは?客観的真実とドキュメンタリーの関係とは?映画『Peace』のメイキングを通して、このような問いへの答えを率直に語る、ドキュメンタリー論の快著。

感想・レビュー・書評

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  • 映画作家である想田監督が提唱・実践する「観察映画」とは?監督のドキュメンタリー論に触れて人、環境、社会、あらゆる出来事に対する見方が変わりました。想田監督の映画とあわせてオススメです!

    【九州大学】ペンネーム:カカオ

  • <シラバス掲載参考図書一覧は、図書館HPから確認できます>https://libipu.iwate-pu.ac.jp/drupal/ja/node/190

  • 途中で読むのが止まっていて、しばらくあいて読み再開したした時には、前半に内容は精細に記憶していたわけではなかったけど、興味深く読んでいたという記憶はあり、ひとまずそのまま読み進めた。

    とても面白かった。
    試行錯誤の過程での迷いや、経験から導かれた方針や考え方の理由が書いてあって、それも絶対善などと言わず、世の中にいろんな見方がある中で自分はこう考えるということで、共感できる部分もあるし、勉強になる部分もあったし、いろんな発見があった。

    SNSのが氾濫する現代社会では、1次情報にあたらずに情報が拡散してあたかも事実かのように信じる人も少なくなく、情報が少量限定的で、分析的でなく、相当に短絡的で未成熟と危惧するところだけれど、ドキュメンタリーは、SNSに比べれば、作者の主張のポジションがあったとしても、特に映像は、伝わる情報量が多く、1次情報に近いのではないかと感じる。(文字のノンフィクションも重要だが、映像に比べると説明的なものは情報が抜けたり読者によって読解自体の差異も映像に比べると生じやすそうな難しさはある。)

    ドキュメンタリーを見ると(本や新聞雑誌系のノンフィクションなら「読むと」だが)、掘り下げる題材について詳しく知らなかったことが、なんだか恥ずかしくさえ思うけど、それでも、知らないままこの先も生きていくよりは、今見て知って幅を広げて考えられるようになることの方がはるかに良い、精神衛生上も良いと私は思う。

    何より、著者の想田さんのドキュメンタリーは私は見たことが無いので、探して見ようと思うし、他の著書も読んでみたい。

  • (01)
    観察、そして参与観察という問題が、著者のドキュメンタリーの中心として語られる。当然、観察にともなる加害者性や暴力についても言及されている。
    人間の「やわらかい部分」を撮影(*02)し、公開することにおいて、被写体の同意があるとはいえ、著者も含め、ドキュメンタリー作家には罪悪の意識がともなわないわけではない。そのような加害性のある映像についての著述は、贖罪にもなりうるし、言い訳のように読めることもある。

    (02)
    ドキュメンタリー映画もフィルムからデジタルへと技術が転換し、低予算で多くの撮れ高を生産できるようになったことが、ドキュメンタリーの再興につながったと説明されている。また、編集作業は、観察映画にとって発見の過程であるとされる。二次三次にわたる取材内容の点検が作品の質に寄与しているが、それ以前の多産性は、ドキュメンタリーのより大きな可能性につながるように思える。映像素材の量的な氾濫は、ドキュメンタリーのみならず、映画の変革を促すのかもしれない。

  • 2019年7月12日読了。

    ●観察映画の源流となっているのは、1960年代にアメリカ
    で勃興した「ダイレクトシネマ」と呼ばれるドキュメン
    タリー運動である。それは、ナレーションなどの力を極
    力借りずに、撮れた映像と現実音で全てを直接的に
    (ダイレクトに)語らせる方法である。
    →『大統領予備選挙』ロバート・ドリュー監督/1960年

    ●ダイレクトシネマ
    「生の素材=現実や登場人物に雄弁に語らせる」ことを
    主眼にした、一種の思想運動と捉える事が出来る。
    「現実に耳を傾け、何かを謙虚に学ぶための装置」

    ●毎回1人の人物を取り上げる20分間のドキュメンタリー
    『ニューヨーカーズ』NHK

    ●『戦艦ポチョムキン』エイゼンシュタイン/1925年
    →モンタージュ理論

    ●観察映画で発揮すべき作為とは「無作為の作為」。
    作り手の「ああしよう、こうしよう」という作為を
    可能な限り消すこと。

    ●マース・カニングハム
    ニューヨークを拠点に活躍した、ダンス界の巨人。
    前衛音楽家のジョン・ケージと親交が深かった彼は
    1950年代、サイコロや易を使ってダンスの振り付けを
    始める。偶然性を基盤に振り付けを行う「チャンス・オ
    ペレーション」と呼ばれる手法を確立。

    ●ドキュメンタリーとは、「偶然の出来事の連なりをとら
    え、作品に昇華される芸術」

    ●本
    『ドキュメンタリーは嘘をつく』森達也
    「ドキュメンタリーもフィクションである」佐藤真

    ●世界初のドキュメンタリー映画
    『極北のナヌーク』ロバート・フラハティ/1922年

    ●『A』森達也/1997年、『阿賀に生きる』佐藤真/1992年

    ●原一男は自らのドキュメンタリー作りを「冥府魔道に入
    る」(踏み越えるキャメラ)と表現し、佐藤真は「あら
    ゆるドキュメンタリー作家は、いかに善人ぶったふりを
    していようと、本質的には悪党である」(ドキュメンタ
    リー映画の地平)と書いた。

    ●会話を入れ込むヒントとなった映画
    『フォーエバー』エディ・ホニングマン/2006年

    ●師匠・中村英雄
    日テレの『すばらしい世界旅行』などを制作。

  •  ナレーションや音楽をかぶせないということは、映像が本来持つ多義性を尊重し、残すということなのである。(p.90)

     そもそも、ドキュメンタリー=フィクションでいいなら、ドキュメンタリーというジャンルの存在自体がナンセンスである。ドキュメンタリーという分野が存在し、僕らを虜にするのは、実在する人物や状況を被写体とすることに、独特の面白さ、危うさ、残酷さがあるからである。また、作品に偶然性を取り込むことによって、作り手や観客の予想を超えた思いがけぬ展開=ドキュメンタリー的驚天動地が期待できるからである。(p.117)

    「観察」という行為は、一般に思われているように、決して冷たく冷徹なものではない。観察という行為は、必ずといってよいほど、観察する側の「物事の見方=世界観」の変容を伴うからだ。自らも安穏としていられなくなり、結果的に自分のことも観察せざるを得なくなる。(p.125)

    「観察」の対義語は、「無関心」ではないかと、ある人が言った。僕は、なるほど、と同意する。観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない。観察は、自己や他者の理解や校庭への第一歩になりうるのである。(p.126)

     橋下さんは自らの死について語るとき、必ずちらりとカメラを見るのである。たいていの場合、それはほんの一瞬なので、たぶん大多数の観客は気がつかない。僕も撮影のときには気づかない一暼が多かった。(中略)ただひとつ言えることは、橋下さんはカメラの前で、あたかも撮影されていないかのような、とても自然な振る舞いをされているけれども、実はカメラの存在に意識的であったということだ。少なくとも、カメラを一瞥する際、つまり自らの死について言及する瞬間には、カメラと僕の存在を強く意識していた。(p.165)

     映画作家が撮れるのは、撮影者の存在によって変わってしまった現実以外に、あり得ない。だとすれば、撮影者の存在必死でかき消し、“なかったことにする”ことに、僕は積極的な意義をあまり見出せない。(p.178)

  • 自分も学生の時からドキュメンタリー大好きだったので論文を書くために森達也、フラハティ、ワイズマンなどなどたくさんの映画観たなーと思い出した。

  • 東2法経図・6F開架:B1/2/2113/K

  • 映画
    ノンフィクション

  • ドキュメンタリー映画を最近好んで見る。多額のお金をかけずにプロの俳優も使わずに、自分たちのお金で自分たちの映画を撮るドキュメンタリー映画。有名になって大ヒットしたりすることもないけれども、じわじわと感じられるよさがある。

    そんな映画の中でもマイナーのドキュメンタリー映画の中で、ちょっと変わった映画が想田監督のドキュメンタリー映画である。彼はセレンディピィティを追い求めて映画を撮るという。
    “Serendipity” :思いがけないものを偶然発見すること、能力
    想田監督の映画は「観察映画」というスタイルを標榜する。台本を書かない観察映画の方法は予期せぬ偶然や発見を呼び寄せ人々の内面のやわらかい部分を描き出す。
    作り始めの時にはテーマもなく撮影がどうなるか分からず、一種のギャンブルともいえるが、偶然が拾える準備は入念にしておき、Serendipityが訪れるときを逃さない。

    もともと彼はNHKのドキュメンタリー番組を撮っていた。ひとつのドキュメンタリー番組では撮影スタイルは今とは間逆で、台本通りに撮ることに重きが置かれていた。
    一方、観察映画を撮るにあたっての10の具体的方法論は以下の通り。
    1. 被写体や題材に関するリサーチを行わない。
    2. 被写体との撮影内容に関する打合せは原則行わない(集合場所などは除く)
    3. 台本は書かず、撮影前や撮影中に作品のテーマや落としどころを設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。
    4. 機動性を高めるためカメラ・録音は原則一人で回す。
    5. 必要ないかも?と思ってもカメラは原則長時間で回す。
    6. 撮影は広く浅くではなく狭く深くを心がける。
    7. 編集作業でもあらかじめテーマを設定しない。
    8. ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。
    9. 観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、その場に居合わせたかのような臨場感や時間の流れを大切にする。
    10. 制作費は基本的には自社から出す。

    本当に上記の方法でうまく撮影できるのだろうか、と思ってみてみたのが、想田監督の最新映画は「牡蠣工場」という映画。奥さんの実家のある岡山県牛窓で漁師さんに出会う。日本の漁業に関しての映画が撮れると思い、「仕事場」に行くと、そこは牡蠣の殻剥き工場。船で魚を撮るイメージを想像していたがはじめから大きく覆される。
    しかし、監督は観察を欠かさない。工場のカレンダーの脇に「9日中国来る」という書き込みがあり、そこから牡蠣工場の牡蠣剥きという作業が高齢化が進み中国からの研修生無しには成り立たなくなっている現状や、しかし中国から来た研修生がいつの間にかいなくなってしまって受け入れが必ずしもすんなりうまく言っているわけではない現状が次から次へと明らかにされていく。

    多分いいドキュメンタリー映画は遊びがあり、見た人それぞれの感じ方が異なり、いろいろな解釈がある映画を指すのだろうと思う。
    例えば、普段の仕事でも、計画通り(台本通り)にある決められた範囲の答えに向かって進めるのはとても大事なことだけれども、計画や結論ありきの仕事はこなす感じになってしまうし、なにかとても大事な出会いを失ってしまうような気もする。
    そんなことを考え、来るべきセレンディピティが来たときに気付けるように、適度に計画を緩めて過ごして行きたいと思う。

  • 778.7

  • ドキュメンタリーというジャンルで映画を作っている監督が自分が撮った映画『選挙』『精神』『peace 』という作品をベースにドキュメンタリーについて、自分の作品について深く記述してある。ドキュメンタリーといっても様々な方法や手法があることや、監督自信が撮影するに当たって気をつけていることや自分の作品への回顧など、ドキュメンタリー映画の業界の事など、映画好きの人は楽しく読める。

  • タイトル通り。
    「選挙」「精神」「Peace」の裏話も知ることが出来ます。

  •  「精神」や「選挙シリーズ」のドキュメンタリー映画監督の想田和弘が「PEACE」の撮影の裏側交え、ドキュメンタリー映画とは何かを語る。

     ナレーションもBGMもない観察映画を手法とする想田監督。テーマを持たず撮影をし、撮り終えてからテーマが見えてくるのだと言う。だからこそ、映画を見る方は多彩な感じ方をすることができるのだと思う。
     ドキュメンタリー撮影のカメラを向けることの怖さについても触れられている。その危険性は常にあるが、ドキュメンタリーの必要性は決して揺るがないと思う。

     この本を読めば、想田監督の作品に限らずドキュメンタリー映画をもっと楽しむことができるはず。

  • ドキュメンタリー監督想田和弘が徹底してこだわるのは、リサーチ、台本、ナレーション、テロップ、BGMなどの添加物を排し、対象のリアリティをえぐりだす「観察映画」という方法。

    本書はその具体的な方法論と撮影についてのエピソード、方法の背景にある哲学などをまとめたもの。

    テレビが往々にしてそうであるように、ある対象に最初から楽しい、正しい、悪い、汚いというようなラベルを貼る「テーマ至上主義」は、作り手としても合理的、受け手としてもわかりやすい。
    僕も研究をしていると、最初に明確なテーマを設定するかということを口酸っぱく言われる。

    たしかにテーマ至上主義は合理的なんだけど、そうすると現実がもつ多様性、リアリティを枠にはめ込むことになり、つまらなくしてしまうのだ。

    日常生活でもそう。最初から「近頃の若者は」とか、「限界集落はもはや」とか、ラベルを貼ってしまうことで見落としているものは多い。

    安易な決めつけを排した「観察」を意識することは、他者への理解、やさしさにつながるはずだ。

  • ドキュメンタリー映画って客観的と思われがちだけど全然そうじゃないんやな。それがすごくよくわかった本。

  • ナイロビへの乗り換えのアブダビ空港にて読了。
    西南で原一男のドキュメンタリー講座を受けた

  • 恥ずかしながら今まで知らなかった映画監督、想田和弘さんの著作です。
    「台本や事前のリサーチ、ナレーションや音楽などを使わない「観察映画」の提唱者」だそうで、本書ではドキュメンタリーとは何か、なぜ人がドキュメンタリーに惹かれるのかについて、想田さんの丁寧な言葉で綴られています。
    4章にある、

    究極的には「人間の心の中を垣間見たい」と思って劇場にやってくるのだと思う。

    という意見に物凄く納得させられました。
    私は観察映画と聞いて、大好きな「花とアリス」を連想しましたが、あくまであの作品から私が感じたのは、主演二人の演技力であり、それを引き出す岩井監督の技量であり、「人間の心の中を垣間見た!」とまでは思いませんでした。
    と、いうワケで今、「映画作家が撮れるのは、撮影者の存在によって変わってしまった現実以外にあり得ない」と言い切ってしまう想田さんの作品をモーレツに観てみたい。

  • フレデリック・ワイズマン

    結果的にテーマが出てくるのはよいが、製作中にテーマに縛られないことが肝心なのである

    個人的には、タイトルはシンプルであればシンプルであるほど、観客の頭の中でイメージが広がりやすく、強い印象と余韻を残すのではないかと思っている

    ショットが長ければ長いほど、観客に自分の目で観察・解釈できる時間が与えられるので、映像は多義的になる。逆にショットが短ければ短いほど、作り手による操作の強度が高くなり、映像は多義性を失っていく

    観客に観察モードを立ち上げさせるために、長いショットを使う

    つくづく思うのは、作品が結果だとすれば、方法論は原因である。旧態依然たる作り方をすれば、必ず作品もそうなる。原因をそのままにして、結果だけ変えようとしても無理だからである。逆に言うと、作品を変えたければ、方法論を変えればよい。それは映画だけでなく、あらゆる分野の「イノベーション」に言えることだと思う

    マース・カニングハム チャンス・オペレーション

    ブレアウィッチは、映し出された学生たちが現実に存在し、彼らの身に降り掛かった出来事が実際に起きたものだという前提があってはじめて、観客を魅了することができた
    同じ映画を観ても、それをドキュメンタリーだと思って観るのと、フィクションだと思って観るのでは、こうも印象が違うものか

    観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察にならざるを得ない

    映像にはそのような言葉の呪縛、つまり固定観念を乗り越えられる可能性がある。既成の言葉を介在させることなく、現実をダイレクトに映し出すことが可能だからだ。だからこそドキュメンタリー映像は、うまくすれば、現実を理解する枠組そのものを溶解させ、更新するための契機になり得る。ドキュメンタリーにナレーションによる説明が不要であることの、もう一つの重要な理由であろう

    演劇を観る人々は、「人間の心の中を垣間見たい」と思って劇場にやってくる(平田オリザ)
    そして、俳優が演じる演劇なら、いくら人間の心の内側を覗き見ても、倫理に反することはない

  •  ナレーションもBGMもないドキュメンタリー映画『選挙』を観て、想田和弘という監督を知る。この手法を彼は「観察映画」と呼んでいる。ここでは、その理論と実践、方法論などが明かされている。
     「観察」とは、製作者である監督のみが行うものではなく、映画を観る者も行うという二重性を持たせた概念である。そのため、「しっかり観ること」「耳を傾けて聴くこと」が基本となり、ナレーションもBGMも自ずから排除されることになる。しかも、台本もなく撮影が始まるので、「観察映画」は、「偶然に遭遇し続ける旅」の様相を見せる。そして、スクリーンで展開されるドキュメンタリーは、人生そのものへと変貌する。
     「犬も歩けば棒に当たる」という言葉が思い浮かぶ。
     「偶然とは街だ。限りなく真実をはらみ、変幻する街、それでいて書物より単純な街」というセリーヌの言葉も想起させられる。
     寺山修司の『書を捨てよ、町に出よう』」というタイトルの本があったことも思い出される。
     平凡な日常も、実は偶然の連続であることに気付かされる。すると、「私は、はたして、目の前に生起する毎日の出来事を<観察>しているのだろうか?」という自問が立ち上がってきた。

  • ドキュメンタリーが作り手の作為から自由になれないという意味ではフィクションとの境が曖昧であるという主張は森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」と同じであった.森達也が同書でドキュメンタリーのフィクション性に徹底的に論及するしていったのと比較して、本書では作り手の意思から全く自由になる事はできないが、「台本主義」からできるだけ自由になるための参与観察の重要性を説く.

    ドキュメンタリー論だけでなく、それぞれの映画への思い入れ、舞台裏、各登場人物の細かな感情描写、映画制作の台所事情など色々バラエティに富んだ内容となっている.
    何より著者の登場人物達に対する親しみの気持ちがよく伝わってくる.
    映像をとりあえず撮り貯めておいて、編集の時に多くの事に気づくなどは興味深かった.

    以下同書から.
    「観察」の対義語は「無関心」である.
    観察は、他者に感心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである.それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる.観察は結局、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない.

  • 台本主義を捨て、僕らの目の前でおこっていることを観察することでみえてくる世界がある。僕らは台本主義、マニュアル、事前知識のおかげで、今そこでおこっていることを見逃してしまっているかもしれない。字幕も、ナレーションもない想田映画が、とてもワクワクして、説明抜きでも何が起きているかがわかって、見返したくなる魅力があるのは、これほどストイックに観察をし続け結果だった。映画PEACEのメイキングとしても楽しめます。

  • ドキュメンタリーの面白さが伝わってくる。
    観察映画を撮ってみたいと思った。

  • なんかパッとみて、パッとわかるものが増えた。

    そりゃ白黒つけるのが好きな性格だけど、
    世の中はもっと曖昧な方が生きやすそう。

    この人の見た世界を覗きたいな。

    2015/01/21
    また読んだ。
    偶発性、偶然性。
    セレンディピティ。
    妄想をさせる余白。

  • 一種のメディア論でもあるが、筆者の映画や被写体、そしてこの偶然の積み重ねである世界に対する愛情が感じられた。

    結局、映画でもテレビでも何かを表現することは世界を切り取ることであり、つくり手の「主観」が入るわけだけれど、この本に書いてあるようなことを知っているか知っていないかってことは結構重要であると思う。

  • この本、思いの外、面白い。新書向けの文体だと思う。新書でも、学術論文っぽいくせに、冗長的なものもあるけれど、これは、スルスルと、文字通り映画でも見ているかのように読み進んでしまう。構成が、ドキュメンタリー映画作家ならではだと感じるのは、褒めすぎ? けれど、著者が提唱する観察映画が、ナレーションも台本もない、つまり、準備された言葉で説明されないこととは対照的に、これは本。それゆえに、言葉で伝えなければならないジレンマがなかったのだろうか。観察映画には、台本、ナレーション、音楽や効果音が一切無いという。テレビ番組のディレクター時代の経験から、真逆の作り方を提唱するようになったのだそうだ。独身の頃、深夜のテレビ・ドキュメンタリーが好きでよく観ていた。深夜枠だったから、著者の考え方に近い作り方だったかもしれない。けれど、効果音こそなかったけれど、ナレーションは内容を伝える、重要な機能を持っていたように思う。著者は、最初にテーマや台本があると、対象を深くとらえられず、発見が得られない、と言う。対象を撮り続ける過程を通じ、テーマを発見していく手法は、僕達が恩師のもとで学んだ、居住環境/空間のフィールドワークと共通する。対象に対して、心を開くと言うスタンスも。【途中の感想につき、書きかけ】

  • 今夏「Peace」という映画を見ました。
    その監督がこの本を書いているのですが、映画の裏側、思いを綴っていて、予備知識なく映画を見た私の(映画を見て不思議に思っていたことの)謎解きをしてもらいました。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784062881135

  • 気付きの多い本だ。「台本至上主義」からの脱皮を望む潜在願望があったのだろう。

    例えば何かのプロジェクトや会議の前には事務局として「落としどころ」を模索しがち。オチに無理矢理持ち込むんじゃなくて、もっとその場のライヴ感みたいなものから新しい発見があったりしないのかと思ってたところ。
    そうゆうとこでも、前半の観察映画製作プロセスの考え方は大いに参考になる。

    テーマは原因ではなく結果。テーマは後から発見される。深いな、考えさせられる。
    善悪二元論、どっちかに決めつけるから思考が止まる。グレーの濃淡の揺らぎこそアート。これもまた深い。

    後半は著者の作品「Peace 」の撮影・編集・上演されるまでの過程を。読んでるだけで作者がカメラひとつで撮影に臨む真摯な姿勢がよく分かる。感動すらおぼえた。
    現在、平田オリザの劇団の観察映画製作中とのこと。

  • 『精神病とモザイク』の著者の新しい本。新しい映画「Peace」の話を中心に書かれている。結局私はこの人の映画をまだどれも見てないけど、8月末に上映会で見た「中村のイヤギ」のこととか、他の映像表現のことを考えたりしつつ読む。

    こないだの「中村のイヤギ」上映後の座談会のなかでは、字幕の話が出た。映画のラストでうたうカン・ムニョルさんの歌に訳をつけないのかという話と、映画全編に(聞こえない/聞こえにくい人用の)日本語字幕をつけないのかという話と、二つあった。カン・ムニョルさんの歌詞の「分からなさ」については、『We』169号でも張さんに話を聞いたように、その分からなさを大切にしたいという思いがあった。

    この本で、想田は「映像と言葉」として、「Peace」に出てくる植月さんの話を書いている。
    映像としては「植月さんは黄色いヘルメットを被りゲートルを巻いた、寿司を美味しそうに食べるユーモアのセンスのあるおじさんで、歩くときには足を引き摺るようにしていて、言葉はちょっと聞き取るのが難しい」(p.137)という人だ。
    ▼しかし、彼の状況を説明するために、「知的障害」とか「発話に何らかの障害」とか「足に障害」と表現した瞬間に、植月さんは既成の「障害者」というイメージに押し込められてしまう危険がある。言葉=理解の枠組み=我々の思考回路そのものだからだ。…
     逆に言うと、映像にはそのような言葉の呪縛、つまり固定観念を乗り越えられる可能性がある。…ドキュメンタリー映像は、うまくすれば、現実を理解する枠組みそのものを溶解させ、更新するための契機になり得る。(p.137)

    想田は、映像にナレーションやテロップを重ねることで、その映像を見る構え、思考の枠といったものを先に差し出してしまうのではないか、だからそれを避けたいと言っているのだと思う。

    「分かる」とは、言語ではっきりと理解することなのか?ということも考える。自分の分かる言語で、自分の分かるように?

    想田が自分のインタビュー観を根本から変えられたという、エディ・ホニグマンの「フォーエヴァー」というドキュメンタリー映画は、ショパンやプルーストなどが眠るパリの有名な墓地を訪れる人にホニグマンがカメラを向け、インタビューする作りだという。その中で、プルーストの墓に参るためフランスへやってきた韓国人男性のシーンは、こんなものらしい。

    ▼彼は英語が苦手らしく、プルーストになぜ自分が魅せられているのか、うまく説明できない。ホニグマンが「韓国語でどうぞ」とうながすと、急に生き生きとして韓国語で語り出す。その内容は字幕で翻訳されないので、韓国語の分かる観客以外にはチンプンカンプンだ。ホニグマンも最後に「あなたの言っていることは私には分からないけど、ありがとう」と礼を言う。しかし、彼の真剣で情熱的な話し振りを観るだけで、「この人はホントにプルーストが好きなんだなあ」ということだけはひしひしと伝わってくる。(p.173)

    この話を読みながら、私は聾のOさんと映画の話を思い出す。長門裕之から映画「にあんちゃん」の話になったとき、当時まだ10代だったOさんは聾学校の寄宿舎をぬけだしてよく映画を見にいったというのだった。邦画に日本語字幕などついていない時代、聞こえないOさんは「にあんちゃん」を胸が苦しくなる映画だったと話した。

    想田のこの本を読んでいると、聾の人は映画を見るときは洋画(字幕がついているから)というのも、確かにそういう傾向はあるにせよ、私の思考の枠、思い込みの一つかもしれへんと思った。私は思わずOさんに「その頃、字幕ないですよね?」と訊いたのだ。

    テーマを先に決めることの「罠」の話も、なんとなく分かるなーと思った。これはテーマにあうかどうか、そのことばかりが気になっていては、おもしろいものをカットしたりすることにもなる。

    毎号、毎号、特集タイトルは最後に決まる『We』みたいだ。とはいえ、「Peace」という作品は、"平和と共存"をテーマにという依頼があってそもそもは制作された。だから想田は「テーマを忘れて、この作品を撮り、編集するように」(p.228)したのだという。

    この本の1章「撮る者と撮られる者」に、想田の妻・柏木の祖母である"牛窓ばあちゃん"の話が出てくる。広島市で生まれ育ったばあちゃんは、1945年の8月6日には、2人の幼い娘とともに市外に疎開していた。
    ▼原爆が落とされた日、突然空から預金通帳や書類などが降ってきたので、ばあちゃんは「市内で何か大変なことが起きているのではないか」と直感し、知り合いのおじさんのジープに乗せてもらって、広島市へ入ったという。(p.23)

    原爆投下後のキノコ雲を上空から撮影した写真や映像を撮ったのは、原爆を落とした側、投下後に猛スピードで現場を離れた側だった。地上では、広島市外で預金通帳や書類が降ってきたのだと思った。キノコ雲の直下にいた人たちは、熱線に灼かれ、爆風に吹き飛ばされ、死んでいったのだと思った。

    (9/13了)

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著者プロフィール

1970年、栃木県生まれ。映画監督。東京大学文学部宗教学科卒。ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒。台本やナレーション、BGM等のない、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。監督作品に『選挙』『精神』『peace』『演劇1』『演劇2』『牡蠣工場』『港町』『The Big House』『精神0』等があり、海外映画祭等での受賞多数。

「2022年 『撤退論 歴史のパラダイム転換にむけて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

想田和弘の作品

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