- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062923583
作品紹介・あらすじ
科学・哲学・宗教の三面をあわせもつ普遍的仏教思想、唯識。「生かされて生きること」を智る大乗仏教の根本思想は、八種の識が世界を生み出し、感情や思いや言葉は深層の心から表層に現れると説く。不可思議にして深淵な心の構造を観察・分析し、そのありようを解き明かす唯識とは何か。この古くて新しい思想の世界へといざなう、最良の唯識入門書。
感想・レビュー・書評
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人生観が変わる。
言語世界が異なるから、異次元にも感じるが、その言葉によって、日々の迷いに明かりが差すようだ。言葉に身を委ねてしまいたいような思考停止と、しかし必死で食らいつきたいような思索の活性化というアンビバレントな感情。宗教や哲学とは本来的にそういうものだろうか。
反復して身体化させたい。そしてこの感覚を伝えたいので、抜粋して記す。ブクログでは感想ではなく、メモ機能を多く使うのだが、以下はその内容だ。
一切不離識、唯識無境
すべては心の中にある。心を離れてものは存在しない。心の外にものはない。
仏教は、大まかに言えば、原始仏教→部派仏教(小乗仏教)→大乗仏教という順序で展開。
唯識思想はヨーガを実践し自己の心のありようを深層から浄化することにより、迷いから悟りへ。
唯識思想は西遊記の三蔵法師としても有名な玄奘によって中国に齎された。玄奘は膨大な経論を訳出したが、成唯識論の訳出は中国仏教史上画期的な事業だった。弟子の窺基が後に法相宗を興す。法相宗は唐の留学僧により日本に伝わった。
一人一宇宙で他人は入れない。これを人人唯識という。3人が同じ1本の木を見ていたとしても、実在する1本の木があるのではなく、一人ひとりの心の中に木の観念があるという考え方。
ここでは、一人ひとりの頭の中の世界を、具体的世界とし、心の外に存在する観測され言葉で語られる世界を抽象的世界とする。私たちは同じ世界に住んでいると思っているが、そうではない。一人一宇宙に閉じ込められている。
深層に働く自我執着心を末那識。人に会うと眼識が働く。憎い人という感情は、末那識が作用する。それを言葉で発するのが意識。それら全てを統括するのが阿頼耶識。
元の抽象世界は、無色無名である。他人は、ただの他人であって、そこに憎さを見いだすのは、自らの思いと言葉である。二元対立のように比較をしてしまい囚われる。それを本来の無色、生の世界に帰す力が、唯識思想が強調する「念・定・慧」。
求めても得られない苦 求不得苦
言葉と影像が結合関係に入った途端、外界にものが認知される。→言語ゲーム一元論みたい
それに対する執着が二つ。自分への執着とものへの執着。我執と法執。
そして、全ての苦は、執着から生じる。
無明、無知こそ四苦八苦の根本原因。無明だから、執着するのだ。電車の席に座れた時、それは運が良かったから座れたのだが、他人が立っているから、椅子を作ってくれたから座れたという現象の背後にある法則「理」に対し、別のものの見方をしてみる。そうすると、自らは生かされている事に気づき、我執が無明から解かれる。この我執による目の濁りを煩悩障とよぶ。
他者があって自己がある縁起の理。物理・心理・倫理を包括する理。実態概念ではなく、関係概念でものごとを観察すること。
死別し会社も辞めた丸裸の自分から、真如の理が見えてくる。もの、役職などへの執着をなくす。
地獄とは自と他が対立した世界
極楽とは自と他が一如になった世界
意識のスポットを何に照射するかによって世界が大きく変わる。頭の痒みを思い出したり、荷物の重さを感じたり、過去の出来事を強く意識して愚痴を言ってみたり。
正しい法を正しく繰り返し繰り返し聞くこと
阿頼耶識に届けること 正聞薫習
言葉が阿頼耶識の名言種子となり、一切の現象をつくり出す
唯識派は神のような超越者を立てない
りんごを見たときの赤い、丸いと言う属性は、深層の阿頼耶識から生じるものと理解する
阿頼耶識は原語アーラヤ・ヴィジュニャーナの音訳だが、アーラヤは蔵、倉庫
一瞬一瞬に生じては消えていく不連続の連続体があるだけ。刹那に生滅する業の相続体がある。
プラトンは霊魂、デカルトは精神といった
山の中に1人隠遁して修行、清らかな心になっても、それだけでは決して真の人間の生き方ではない。人々の中で無分別智に基づく行為を展開しなければ、仏教本来の修行ではない。エゴをなくしていくこと、何もできないのであれば静かに微笑んで座っている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
宗教と先端科学が実は繋がっているということが体系的にわかり、とても脳が刺激された一冊。しかも難しい言葉には何度も解説をつけてくれており、理解を助けてくれる。
仏教の唯識と物理学の量子力学は実は近い、それが現代の社会問題の解決にもつながるかもしれない、というあたりは興味深い。
もともと仏教は宗教性と同時に哲学性もあると言われていたが、末那識と阿頼耶識を理解すると、西洋の哲学や心理学とは異なる地平が広がってくる。
社会や組織で行き詰まった、閉塞感を感じた際、この本でものの見方を変えてみるよいきっかけになる。もちろん平時でも。心を落ち着かせて宇宙と社会と人間の関係を考えるヒントがたくさんある。 -
Spotifyでコテンラジオにハマり、
玄奘三蔵の回を聴いてこの本に辿り着いた。
唯識論という言葉だけなら聞いたことはあったけど、仏教の思想だとは知らなくて、ガチガチの哲学だと思っていた。
この本には唯識という言葉の意味から、
これにまつわる用語や考え方、
実践法などを、普段馴染みのない単語ならば語源からまでをも詳しく書かれている。
ラジオでも紹介されていたけど、わたしが漠然と思い描く宗教のイメージにはあまりなかった、とてもロジカルな思考法で読んでいて面白いと感じる部分も多かった。
読みながら唯識論の理解が少し進んでくると、京極堂シリーズをもう一度読み返したくなってくる。(姑獲鳥の夏と鉄鼠の檻、また読もうかな)
さて、コテンラジオでは唯識論が書かれた本の中では1番わかりやすかったと紹介されていたけど、わたしにとっては難解だなぁと思う部分もまた多く、未だに末那識と阿頼耶識を掴み損ねている。
さらに著者の方の必要以上に啓蒙的な記述に少しアレルギーが出てしまった。
仏教思想を実践して教えている立場の方なので、その部分は仕方ないのだろうが、特に不幸も不自由も感じていないthe凡夫中の凡夫のわたしにとってはいちいち引っかかってしまうところがだいぶ多かった。
(現代人のなんと〇〇なことか…とかね)
ともあれ、世の中を知るために、人生の解像度をあげるために、知識として必要な宗教について、概要に留まらず教義を中からダイレクトに、しかもわりとやさしく書いてある本はとても貴重だと思う。
何度読んだところでたぶんアレルギーは出るとは思うけど、一読だけでは全然理解が足りていないのでそのうち再読してみたい。 -
唯識について誰もが分かる本ではないかと思う。
かつ、分かるが故に分からないというところまで案内される。
末那識や阿頼耶識の存在はヨーガをしないと分からないし、五識や意識の本当の使い方も仏教でいう修行を行わなければ分からない。
何より、正聞熏習と無分別智の両方の理解と実践が欠かせない。
それを行ってもなお仏様には届かないのだからとてつもない。
仏教哲学の中の唯識は特に論理的で腑に落ちる。
しかし腑に落ちても末那識や阿頼耶識まで落ちているのか、そもそも意識して理解できているのか、本当のところは分からない。
私たちは私たちのことも分からないのに、何かを分かったかのように振る舞う。
私たちも自分を分からないと思えて初めて学びが始まると思う。 -
仏教初学者で唯識論の勉強をしたいと思い本書を手に取りました。結論から言えば大変満足しています。文庫本でページも300ページ弱ですからすぐ読めるかと思いましたが、思った以上に中身が濃かったです。これは良い意味で期待を裏切ってくれました。線を引いた箇所の数があまりにも多いので、本書の良さを端的に説明できないのですが、唯識思想だけでなくそのほか仏教全般にも通じる智慧を本書は多数散りばめている印象を受けました。「唯だ心(識)だけが存在する」、しかし識は「非有非無」、つまりあるけれどないものです。座禅では「心を無にする」といいますが、まさにその状態は心がありません。つまり心は空だというわけですが、その先があって、心を無にすることで、絶対的な真如の存在を覚知できるということのようでした(もちろんものすごい修行が必要だと思いますが)。
本書によれば、唯識論は宗教と科学と哲学の3つを含んでいるとのこと。科学的な側面として、本書では量子力学の話をされていますが、確かに最近話題になっている量子コンピューターなどは、仏教的な側面があると感じています。これまでのコンピューターがゼロかイチの値をとるビットの集合体で情報を表していたのに対して、量子コンピューターでは量子ビットがゼロとイチを同時にあらわすことができます。ゼロでもありイチでもある、あるいはゼロでもなくイチでもないわけです。量子力学が発展すればするほど、仏教の宇宙観が世界的に広まるのではないかと個人的には期待しています。 -
今ハマっているコテンラジオという番組で紹介された本書。
三蔵法師(玄奘三蔵)を理解する上で、必要な唯識論を「わかりやすく」解説したという本という紹介内容であった。
ただ、本書の冒頭で、唯識論の理解は、「1人1宇宙」という事実を認めることから始まる、とあり、トンデモ論的な印象を受けた。
また、最終的にも、今の自分の考えとかけ離れすぎてて、難しすぎる笑
簡単に腹落ちできない…。
根本は、「ただ身体、ただ心があるだけ」という考え方のようで、言ってることはわかるけど、なかなか難しい。
ただ、その中でも、
・私たちが認識している世界は「ある」のではなく、「なる」のです。
・なるというよりも自分が作り出して、そのように「ならしめる」
という記載はすごくわかりやすく、すごく仏教っぽいなと、そしてこの考え方を上手く取り入れることは生きていく上で必要だなと思えた。
冒頭の1人1宇宙という考え方も、他人の宇宙にも思いをはせることで、他人への思いやりを持てる考え方のようで、一つの考え方として身に付けていきたい。
またタイミングを見て読み返してみたい。 -
玄奘が命をかけて学んだ思想ということで、勉強のために手に取ってみた。
文章は易しいが、解説書兼説教書と言った感じ。また、まさに説教のように冗長なので、読んでいて既視感を感じる。
唯識論自体はなんとなく、どんなものかという概要はつかめた気がするが、解説書としては少し物足りない。
本書で得た知見は、唯識論も含め、仏教の教えというのは、半分は学問、半分は方便(人を救うための手段)であるということ。だから、直接は書かれていないが、仏というのはあえて永久に到達できない理念的な存在として設定されていて、それでもそこに到達できるかもしれない(仏性がある)と信じて悟りを目指すこと自体に意味があるのだろう。
唯識も、一旦そういうふうに捉えてみる、ということが肝心で、それが正しいと思えるかどうかにはあまり意味がないのかな。
本文への批判として、これは認識論なので、量子論などの近代自然科学の成果と無理に紐づけるのは帰って蛇足に感じる。通じる部分があっておもしろいというのはわかるが、量子論は「対象(の状態)に影響を与えずに観察(観測)はできない」と言ってはいるが、「対象が観察者のこころもちに左右される」などとは言っていないと思う。ただ、おそらく西洋の哲学と相互に影響しあいつつも独自に発達した思想だと思うので、類似点や相違点に注目するのは興味深い。
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著者は仏教学が専門の大学教授で、唯識思想の泰斗であり、実際に座禅の指導などもされている。本書は元々NHKの番組用テキストだった。難解な唯識思想を知るとっかかりとしては、悪くない一冊だと思う。しかし、同じたとえ話の繰り返しがいくつかあるところと、中途半端な個人主義批判やキリスト教批判が繰り返されているところが不快だった。また唯識思想と道徳を結び付けようとする試みに論理の飛躍や強引さが見られるように思えた。
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三島由紀夫の『豊饒の海』を読んだ後、唯識思想を理解するために読みました。入門として知るべきことはすべてわかった気になれました。あとは、「暁の寺」の中の三島による唯識を読み直せば良いのではないか。真に理解できているのかはまったくわからないが、認識によって世界を把握するということがわかりやすく解説されている。良書。