いつもそばには本があった。 (講談社選書メチエ)

  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (128ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065150122

作品紹介・あらすじ

1冊の書物には、それが大切な本であればあるほど、たくさんの記憶がまとわりついている。その本を買った書店の光景、その本を読んだ場所に流れていた音楽、そしてその本について語り合った友人……。そんな記憶のネットワークが積み重なり、他の人たちのネットワークと絡み合っていくにつれて、書物という経験は、よりきめ細やかで、より豊かなものになっていく──。
本書は、そんな書物をめぐる記憶のネットワークを伝えるために、二人の著者がみずからの経験に基づいて書いたものです。ただし、これは「対談」でも「往復書簡」でもありません。
キーワードは「観念連合」。ある考えやアイデアが別の考えやアイデアに結びつくことを示す言葉です。一人が1冊の本をめぐる記憶や考えを書く。それを読んだ相手は、その話に触発されて自分の中に生じた観念連合に導かれて新たなストーリーを綴る。そして、それを読んだ相手は……というように、本書は「連歌」のように織りなされた全16回のエッセイで構成されています。
取り上げられるのは「人文書」を中心とする100冊を越える書物たち。話題がどこに向かっていくのか分からないまま交互に書き継がれていったエッセイでは、人文書と出会った1990年代のこと、その後の四半世紀に起きた日本や世界の変化、思想や哲学をめぐる現在の状況……さまざまな話が語られ、個々の出来事と結びついた書物の数々が取り上げられています。本書を読む進めていくかたたちにも、ご自分の観念連合を触発されて、新たなネットワークを交錯させていってほしい。そんな願いを抱きながら、人文書の衰退、人文学の危機が自明視される世の中に、二人の著者が情熱をそそいだこの稀有な1冊をお届けします。

感想・レビュー・書評

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  • この本は、ドゥルーズなど仏哲学を中心とした哲学研究者の國分功一郎さんと、雑誌編集者兼ソシュール研究者でもある互盛央さんが、昔読んだ本に関する文章を相互に交換リレーする形式で綴ったものである。フォーマットとしては珍しく面白い仕掛けだが、それが成功してこの本を特別な本にしたかというと、それほどまでではない。ただ、少なくとも二人の関係性と、主に1990年代初めに学生だった世代が共有する読書空間があって初めて成立した本だという意味で特別な本である。國分さんが1993年に、互さんはその1年前に大学に入学している。自分は1988年入学だが、理系であったこともあり、現代思想にかぶれるようになったのは少し後であることを考えると、おそらく著者らとちょうど同じころに現代思想に触れた世代といえる。そのため、出てくる本、出てくる著者、出てくる言葉、についていちいち溢れ出てくる懐かしさを感じた。1995年に日本で公開されたクロード・ランズマンのドキュメンタリ映画『ショア』(上映時間9時間半!)の話が出てくるに至ると、本当に同時代の空気を感じて生きていたんだなあと思う。

    國分さんが担当する最初の回では、國分さんが大学一年のときに所属していたサークルで柄谷行人の話題が出た話で始まる。そのとき國分さんは柄谷のことを知らなかったそうだが、その後出版されたばかりの『ヒューモアとしての唯物論』を夢中で読んで、その内容に感銘を受けたという話が出てくる。自分の柄谷体験で熱心に読んだ本を挙げるとすると、それとは違う『探求I』『探求II』になるが、そのころに現代思想にはまった人間にとって、柄谷の影響力は今では想像することは難しいのかもしれない。自分が大学院生になったころ、思想書好きで集まったグループで手作りの雑誌を作ったことがあったが、そのグループの中でも柄谷の存在感は頭ひとつ抜けていた(そのグループの中に、東大教授となっている社会学者の北田暁大がいた)。國分さんは、柄谷の最近の著作として『哲学の起源』を出色の出来であり傑作と評しているが、この辺りにもまだ柄谷へのある種の憧憬がまだ生きているということなのかもしれない。自分なら、近年の著作から選ぶのであれば、やはり素直に『世界史の構造』を挙げるが。というように、この世代であれば、柄谷行人については話を継ぐことができるものなのである。

    瓦さんは、自身の研究者としての方向性を作るきっかけとなった本として丸山圭三郎の『ソシュールを読む』と『ソシュールの思想』を挙げている。自分にとっても、シニフィアンとシニフィエの発想、すでにある世界の分類に沿って言語があるのではなく、言語自体によって現実世界が分節されているという思想を眼から鱗が落ちる思いで読んだ。ソシュールは哲学思想の深さと面白さを知ったきっかけの一つでもあった。そして、自分がそのような現代思想の書き手を知った本は『わかりたいあなたのための 現代思想・入門』という本だったのだが、この本について「この本、懐かしく感じる世代のかたがいるはずだ」と書かれてあり、驚いた。この本は単行本ではなく、いわゆるムック本のようなものだが、懐かしく思い出すというのは全くその通りで、自分もこの本から現代思想に入り、どの本を読むべきかのガイドブックとして長く手元においていたものである。ああ、みんなそういう感じで入ったんだな、ムック本でもこうやって広く影響を持つものもあるんだと、そのころの熱とともに思い出した。瓦さんはこの本に出てきた人として山口昌男、廣松渉、今村仁司、蓮實重彦、柄谷行人という名前を挙げているが、まさしく懐かしく感じる名前である。本書に出てくる思想家の名前をあらためて見ると、『わかりたいあなたのための 現代思想・入門』の影響の大きさがわかるような気がする。「若い頃は、豊崎や蓮實重彦の文章に憧れて、むやみに込み入った文章を書こうとしていたのを(恥ずかしく)思い出す」と書かれているが、恥ずかしながら自分もそういう思いを共有する一人である。

    昔読んだ本については、その本を読んだ状況含めて、さまざまな記憶と結びついているものが多い。今は電子書籍で読んでいることもあるのか、年齢のせいなのか、そういう本は少なくなっているような気がする。学生のときに読んだ本のいくつかはその本を読んでいる情景とともに思い出すことができる。なぜその本が印象に残っているのか理由はわからないものもある。例えば、蓮見重彦の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』は、何か所用があって一人で遅れてスキー場に向かう電車の中で読んだのをなぜかはっきりと覚えている。もちろん、フーコー、ドゥルーズ、デリダ各々の本は、その気合の入った本の装丁とともに印象深い。本書の中でも様々な話題の中心にフーコー、ドゥルーズ、デリダがいる。特にフーコーの『言葉と物』『監獄の誕生』『狂気の歴史』は、丁寧にかぶせられた薄紙をくしゃくしゃにならないように大事にして、読むたびに丁寧に再び本にかけてカバーに入れていた。フーコーの読書体験は、あの装丁とともにある、と言って同意していただける人はどれくらいいるのだろうか。
    他にも、本書の中で今でももっと読まれるべき本として挙げられたロラン・バルトの『テキストの快楽』『S/Z』『物語の構造分析』『零度のエクリチュール』『モードの体系』『恋愛のディスクール・断章』『神話作用』『表徴の帝国』『彼自身によるロラン・バルト』などは、光沢のある真白い、みすず書房の品のある書籍を大学院生時代の部屋で、寝床にしていたロフトに寝ころんで熱心に線を引きながら、ときに印象的な言葉をノートに書き写しながら読んでいたことをやや暗い部屋のくすんだイメージと少し匂う布団のにおいとともに思い出す。

    「本だけがそのような物語を紡ぎ出せるわけではない。だが、本はそのような物語を紡ぎ出すのに最適の媒体である。だからこそ、人類が発明したこの本という媒体は、どれだけメディア環境が変化しようとも、常に高く評価されてきたのである。いつもそばに本があることは、人間が人間らしく生きるために必要な条件だという認識は今も失われていない。
    私のような書き手の端くれもそのことを常に意識してきたし、意識している。そしてこの本は本がもつそのような機能と魅力を読者の皆さんにお伝えするために書かれたのである」ー 國分さんは自身の最後の断章においてこう書いて終わる。もちろん、この本のタイトル『いつもそばには本があった』は、ここから取られたのは間違いない。

    「本がもつそのような機能と魅力」は、同時代に当時の1990年代初めの現代思想にかぶれたものとして、とてもよく伝わってきた。それはすでに自分の中にあったもので、この本を触媒として再び上がってきた感情である。そうした同時代的な空気の共有を、例えば今の大学生の世代では持っているのだろうか。持っていないだろうとも言ってはいないし、仮に同じようには持っていないとしてもそれが劣っていることだとも思っていない。それは時代の違いというべき類のものかもしれないが、しかし寂しい気持ちもある。

    あとがきにて國分さん自身は「機能主義的に本を読んできた」と書く。「機能主義的に」ということが、「知っている」ことを確認し、さらには何を「知らない」かを知ることであるとすると、自分も機能主義的に本を読んできた。決して時間潰しのためでもないし、娯楽のためでもなかった。それこそが國分さんが言う「本がもつ機能と魅力」であるとすれば、自分も機能主義的な本読みだと思う。そして、それは結局のところ贅沢で大いなる悦楽でもあるのだ。

  • 簡単な本の紹介本くらいの感覚で手に取ったのですが、
    思っていた以上に面白く、引き込まれていっきに読み終えました。
    大体、3~4時間ほどで読みきったかと思うのですが、
    自分の中にあった思考を言葉にしきれないことがあることがあり、
    かと言って似た考えを記した言葉を読んでしまうと引っ張られて
    自分の言葉にはならずに霧散していく感覚があるのですが、
    自分の思考に注意して読みたくなるほどに腑に落ちる感覚の多い本でもありました。
    余白だったり、精神のリレーだったり。
    動機が気になってしまうところは私も同じであることと、
    直近で昨年末から考えていることが「考えること自体に無駄を感じつつも気になる」というところで、何を気にしているのか、を自分の中で考えていた、それにヒントをもらえる部分もありました。
    途中、ソシュールの辺りで幾度か挫折した本が出てきたので、今度こそ再読して理解へと繋げていきたい気持ちです。
    まずは中動態の前に、最近文庫化した暇と退屈……を文庫化直前に単行本で購入していたのでそれを読了します!

  • 國分功一郎と互盛央が交互に書き綴る、一種の読書エッセイ。
    文中に挙げられている本は基本的に哲学や思想などの人文書である。
    序盤に『読書ガイドではない』と宣言されているのが面白い。しかし『違う』と言われるとガイドとして使いたくなるのが人間というもので(天邪鬼)、ページ下部に載っている書影をチェックしているのだった。
    文庫化されているものもけっこうあるが、人文書は品切れにならずに細々とでも売り続けられていることが多いので、取り敢えず本屋に行ってみるか……。

  • [出典]
    「スピノザ」 國分功一郎

  • わずか125ページの小著だが、人文学的知とはどういうものなのかを教えてくれる。特に論文の引用数だけで全てを評価しようとする風潮に警鐘を鳴らしている。

    著者達が読んだ本を紹介しながら、往復書簡のように話が展開していき、たいへん勉強になる。

  • メチエらしくない本。

    互氏の読書体験に共感しつつ読みました。

  • 著者たちとあまり学生時代を過ごした年代が変わらないので、この本でふれられている”あの時代”の雰囲気はよくわかる。なぜか浅田彰の本がベストセラーになって、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』などという本が平積みになったりしていた時代だった。ちょっと前には「朝日ジャーナル」などという雑誌があって、”人文的な教養”が価値のあるものと考えられていた時代でもあった。この本はちょっと懐古的に感傷的になっているような印象もあるが、それを踏まえた著者たちの現代への問題意識もわかる。ただ、両者がバックグラウンドとする仏哲学が『知の欺瞞』後にどれだけアクチュアリティを持てているか、単なる”妄想”になっていないかの自己認識みたいなものは聞きたかったな、とは思った。

  • 「何を探求するべきか知らない」(ペニアー)状態に陥っている自分にとって励ましになるようでもありましたし、過去を知らない若者としてとても勉強になりました。

    《おそらくは書籍に限らず、自分の知りたいことしか知りたくないという傾向が、あの頃からどんどん強くなってきているのではないか、と問うてみたいのだ。
     それは単に本を買わなくなった、というようなことではない。テクストを読むこと、本を読むことが、「どう生きるか?」を問うこと、そしてそれを問うための適切な問いを発見し、立てることから離れていった、ということなのだと私は思う。その傾向が進んでいったところで、すでに離れてしまった本を読むことと「どう生きるか?」を問うことがそれでも一致しているように見えるとしたら、疑問の余地のない外見をしていなければならない——例えば『君たちはどう生きるか』という書名のように。》(p.34-35)

    《むしろ万人の既に知るところを語ること、読者の意識の古層に呼びかけ、そこに眠れるものを「そういわれればまことにそうであったという形で」呼び起こすこと——内田の言うこの課題はいったいどのようにすれば達成できるのだろうか。私はその答えを「物語」に求めてきた。》(p.110)

  • 【貨幣は交換からでなく徴収から】
    「当時日本でも大変人気であった『千のプラトー』の中でドゥルーズとガタリは、貨幣は交換や商業の要求から生まれたのではなく、税の徴収から生まれるのだとはっきり述べている。富者が税として納めるものと貧者が税として納めるものとの間に比較可能で等価的な関係が確立されるためには、それらの「客観的」な価値をはかる基準が必要である。貨幣はそのためにこそ生み出されるのであって、徴収が貨幣の前提である。
    当時は貨幣が税の徴収から生まれたというこの考え方そのものが全く理解されていなかった。というのも、貨幣をマルクスの価値形態論で、そして価値形態論だけで論じる見方が一般的だったからである。柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』や岩井克人の『貨幣論』は大きな影響力を持っていた。そこではいつも、徴収ではなくて交換が問題にされていた。
    だが、「x量の商品A=y量の商品B」から貨幣形態が発生する様を描き出す価値形態論は、読者を貨幣の神秘へと投げこまずにはおかない。弁証法的に整序されたこの説明は神秘以外の何物でもないからである。そして読者は、その神秘に悩み続けるという仕方で享楽し続ける。しかもこの享楽は強烈であった。
    この享楽にふける価値形態論中心主義的議論の問題点は明らかだ。そこからは徴収する主体、すなわち国家の問題がすっぽりと抜け落ちる。そこにはなぜ徴収が可能になったのかを問う視線は現れない(マルクス自身は『資本論』において、価値形態論の外部としての原初的蓄積という暴力を論じているにもかかわらず)。資本主義は純粋な交換と差異の体系として理解されることになる。あまり言いたくないが、その理解は市場原理主義者たちの資本主義像と実はそっくりである。マルクスは、「実際には本源的蓄積の方法は、他のありとあらゆるものではあっても、ただ牧歌的でだけはなかった」と述べている(マルクス『資本論』第1巻第24章いわゆる「本源的蓄積」)。交換から貨幣を考える議論は「牧歌的」である。マルクスの言う通り、「現実の歴史においては、周知のように、征服、圧制、強盗殺人、要するに暴力(ゲヴァルト)が、大きな役割を演ずる」。」
    (國分功一郎 互盛央『いつもそばには本があった』p40-p41)


    【孤独と寂しさの区別】
    「アレントを読み直していると、どうも政治学の中で論じられていたアレントとは違う側面が目についた。たとえば『全体主義の起源』のあとがきでアレントは「孤独(solitude)」を論じている。孤独とは私が私自身と一緒にいることである。私は私自身と一緒にいることで私自身と対話する。そうした対話こそ、思考することに他ならない。つまり思考には孤独が必要である。だが、自分自身と一緒にいることができない人がいる。その人はだから誰か自分と一緒にいてくれる人を探し求める。その時、その人が感じているものこそ「寂しさ(loneliness)」に他ならない。寂しいとは自分と一緒にいられないということ、孤独に耐えられないということだ。そして寂しさは人間にとって最も絶望的な経験である。全体主義はこの絶望的な経験を利用したのである。」
    (國分功一郎 互盛央『いつもそばには本があった』p82-p83)

  • どちらかというと互さんの言葉が響いたかな。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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