西田幾多郎の哲学=絶対無の場所とは何か (講談社選書メチエ)

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  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065182789

作品紹介・あらすじ

『善の研究』から「場所の哲学」へ――。西田の哲学遍歴は「場所の哲学」にいたって、ついに独創的な境地にいたったとされる。
『善の研究』の冒頭に出てくる「純粋経験」からはじまって、後期の「絶対無の場所」にいたる思考とは、どのようなものなのか。
近年とみに影響関係が指摘されるベルクソンとの関係、あるいは仏教の時間論と西田の時間論の共通点と相違。フッサールやレヴィナス、あるいは鈴木大拙、井筒俊彦にいたるまで、あるいは量子論との相関など、様々な角度から丁寧に参照しつつ、著者はするどい考察を繰り広げて、独自のスタイルで西田の本質に迫っていく。
それは西田自身の言葉をかりれば、さながら「悪戦苦闘のドッキュメント」の様相を呈しつつも、きわめて鮮明に、西田哲学の真のすがたが浮かび上がってくる。
「存在と無」(=あるとない)という、われわれがごく日常的に想定する対立の以前に、「場所」というものを考え、そこに人間の根本をみようとした近代日本哲学の巨峰を、これまでにない明解な叙述で味わい尽くす力作!

感想・レビュー・書評

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  • ウィトゲンシュタインやベルクソンなどの研究をおこなっている著者が、西田幾多郎の哲学にひそむさまざまな問題に取り組んだ本です。

    「はじめに」で、「それぞれの章や節を、基本的に一話完結ものとして読んでいただきたい」と述べられており、ひとつのテーマを追求するようなしかたで西田哲学を読み解いたものではありません。それでも、著者の議論には一貫した関心が脈づいているように思えます。

    著者は、西田の最初の書である『善の研究』を論じた箇所で、経験の「前面」と「背面」を区別し、「前面」に浮かんでくるものにともなうかたちで、けっして対象化されることのない「背面」が存在しているのではないかと論じています。両者の関係は、著者は直接言及しているわけではないのですが、ちょうどハイデガーの「存在論的差異」のようなしかたで語られており、さらにそれが西田の術語である「場所」や「永遠の今」といった概念に変奏されていきます。

    ベルクソンやフッサール、デカルトなど、西田が直接言及している西洋の哲学者はもとより、鈴木大拙や山口瑞鳳、井筒俊彦や清沢満之といった思想家たちの議論をそのつど引っ張り出してきて、さまざまな側面から西田哲学にせまろうと試みられているのが、本書の特徴といえるでしょうか。そのためもあって、若干議論が拡散してしまっている印象もありますが、全体を通じておもしろく読むことができたように思います。

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著者プロフィール

1958年長崎県佐世保市生まれ。中央大学文学部教授。小林秀雄に導かれて、高校のときにベルクソンにであう。大学・大学院時代は、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッドに傾倒。
好きな作家は、ドストエフスキー、内田百閒など。趣味は、将棋(ただし最近は、もっぱら「観る将」)と落語(というより「志ん朝」)。
著書に、『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』(春秋社)、『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』(春風社)、『ホワイトヘッドの哲学』(講談社選書メチエ)、『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』(白水社)、『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社選書メチエ)、『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(教育評論社)、『落語―哲学』(亜紀書房)、『西田幾多郎の哲学=絶対無の場所とは何か』(講談社選書メチエ)『続・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(教育評論社)など。

「2021年 『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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